複雑・ファジー小説

Re: 夏のための戯曲 ( No.6 )
日時: 2016/07/14 20:55
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)

 家に帰ってから、僕はまた、ソファーで昼寝をしてしまったらしい。目覚めたとき、窓の隙間からはオレンジ色の夕日が差し込んできていた。夕方なのに暗いままの部屋、壁際に落ちるひときわ黒い影と、夏の匂い。向こうの空はうっすらと紫色の雲をまとい、もうすぐこの街にも夜が来る。

 さっき、自殺未遂じみたことをしてしまったなあ、と思い返しては、泣きたい気持ちになってくる。飛澤さんが手を握ってくれなかったら、僕は今頃ぺしゃんこになっていた。部屋の電気も付けずに、寝っ転がって天井を見る。どうせ明日もこんな人生なら、ぺしゃんこになってしまった方が、僕は幸せだったのではないだろうか。
 夏は、何も食べたくなくなる。夕食替わりに、冷蔵庫に入っていたアイスを食べて、やっと居間の電気とテレビをつけた。午後7時のバラエティ番組に出ている芸能人たちは、みんな楽しそうに笑っている。
 思いっきり体を伸ばすと、少しの間だけ、自分は自由になったかのような錯覚をする。いつでもどこでも肩身の狭い思いをしている僕は、こんな時でないと、伸びすらできないんだなと、自分で自分に笑いそうになった時、テーブルに置いたままだったスマホが光った。
 桜庭から連絡だろうかと思って、手に取る。今日の昼休み、僕が気を失ってしまって、桜庭に保健室まで運ばせたから、その件に関して怒っているのだろう。それか、また金が足りないからよこせと言ってくるかもしれない。桜庭の決めたことに従わないと、僕はすべてを失ってしまう。これからまた学校まで戻ってこい、と言われたとしても、僕はそれに従わなければいけない。見えない鎖でいつだって、繋がれている。
 しかし、そんな予想とは反して、連絡をしてきたのは遠野だった。「これから会える?」の後に、可愛らしいうさぎのスタンプが添えられている。桜庭は間違ってもこんな文を送り付けてこないから、すぐにわかった。
 これから会える、か。既読をつけてしまった以上、返事をしなくてはいけないのだが、正直なところ、これから出かける気は無い。もう着替えてしまったし、殴られたところの傷も痛いし、出かけない理由の方が圧倒的に多いのだ。僕は、少しだけ申し訳ない気持ちになりながら、「ごめん、今日は」まで打ち出したところで、他の奴から連絡が来た。脳天気な通知音が、静かな部屋に響く。
 桜庭である。持っていたスマホを、落としそうになった。手が震えはじめて、止まらない。見たくない見たくないと思いながらも、ページを開いてしまう。たった一文、「今から駅前に三万持ってこい」と、無機質な文字が目に飛び込む。僕はそれを見て、なぜだか安堵してしまった。金さえ渡せば、殴られることなんてないのだ。

 ワイシャツに袖を通す。三万円なんて金額、今の僕は持っていない。でも、遠野に借りればいいか、と頭のどこかで思ってしまっていた。もちろん返せる見込みはない。
 遠野に了解と連絡を送ると、「公園にいるから来てよ」と指示される。僕らの付き合いは長いから、公園という単語だけで、その公園の細部まで簡単に思い出すことが出来る。そんな幼なじみの女の子から、僕は強引にでも金を貸してもらわないと、今度こそ本当に、桜庭に殺されるかもしれない。頭の中で、何度もごめんと謝りながら、僕は家を出た。

 公園に遠野は居なくて、僕はベンチに座っている。見慣れた制服姿の女子はたまに見かけるものの、楽しそうに友達と談笑していたり、あるいは家路を急いでいたりする者だけだった。さっきから連絡がつかなくなった遠野に、若干の苛立ちを感じながら、スマホのサイトをぼーっと眺めている。

 「穂高くん、こっちこっち」

 しばらく待った時、遠野の家じゃない方から、スクールバックを持った、制服姿の遠野が駆けてきた。驚いて、言葉が出なくなる。僕は挨拶もそこそこに、彼女から要件を聞いて、そして金を借りるつもりだったが、あまりの不意打ちに少し面食らってしまって、何度か予行演習した言葉も出てこなかった。
 すぐ近くまでやってきた遠野からは、ふわりとシャンプーの匂いがする。

 「バイトの途中だったんだけどね、抜けてきちゃった。穂高くんに、話したいことがあって・・・・・・」

 風に揺れる黒髪は、きっと乾かしたばかりだろう。とりあえずここじゃまずいから、カラオケ行こうよ、と遠野は僕の手を引っ張って歩き出す。僕は、理解が追いつかなくて、ただついていくことしか出来なかった。
 遠野は、公園のすぐ向かいにある、古びたラブホテルから、ひとりで出てきたのだ。