複雑・ファジー小説

Re: 逢魔譚【黄昏編】 ( No.5 )
日時: 2017/10/12 16:41
名前: Cerisier ◆C6y/eP1VWE (ID: bbibssY.)

 腹が減った、という軻々里が言うので、町の頂上にそびえ立つ鳥居から降り、町へ下る事にした。別に私がついて行かなくても良いだろうと思ったのだが、手を引く動作と共に促されたので仕方なく同行する。
 
 石段を一段一段降りるたび、人の気配が濃くなっていく。この町、戯七町は住み着く怪魔も多いが人も多い。怪魔が多い地は治安が悪いと度々言われているが、この町はそこまで荒廃した地ではない。幼い頃からの慣れや愛着の視点を抜きにしてもこれだけは確かだ。
 
「今日もまた賑わってるなぁ」
 
 石段を全て下り、平地へと降り立った軻々里はどこか楽しそうに呟いた。大通りまでまだ少しあるのだが、彼の聴力は凄まじい。私では見えない景色すらも聴こえてしまうのだから。
 
「賑わってる事がそんなに良いのか」
 
 私はどちらかというと人混みは苦手だ。人間も怪魔も等しく嫌いではないから、ただ単に生き物が密集している場が苦手なんだろう、とは以前軻々里に言われた事だ。
 
「まあね。楽しく騒ぐって平和な証拠だろ?」
 
「そうとも言うね」
 
 私より少し背丈のある軻々里は私の前を踊るように歩く。見た目だけならば狐や猫を連想させられるのに中身や表情を見ると犬のようだな、などとふと思う。まぁ彼は野犬や猟犬の様に獲物や弱者を狩る事は出来ないだろう。仮に獰猛な獣の類であれば、弱者である私は出会った時に殺されているだろうし。
 
 私の履き古したブーツの音と軻々里の下駄の堅い音を交互に鳴らしながら歩く。
 
 全く接点のない音同士にも関わらず共鳴する奇妙な感覚。
 闇と夕日が混じり合い、朱が侵食されつつある空。
 そして目の前には幽美な男。
 
 安っぽい伝奇物語の一場面の様だが、なるほど確かに怪奇的な状況だ。在り来たりだ、とその話をどこかで聞いた時は思ったものだが、擬似的な風景に呑まれただけなのに、それは幻想的かつ蠱惑的なものに姿を変える。死に憧れる怪物の様に。生を渇望する亡霊の様に。果たして私はどちらの立場なのだろうか。
 
「初、そろそろ着くよ」
 
 そんな感傷めいた私の心情を知ってか知らずか、前を向いていた軻々里が私を振り返る。はっとして意識を前方に集中させると、いつの間にか大勢の人で賑わう通りが直ぐそこにあった。
 
 きらびやかな装飾の洋服を纏った貴婦人、私のものとは比べ物にならないくらい上質な袴を来た女学生。不自然なくらい洋装の似合った紳士に、学生服に下駄を履いた粋な少年。様々な人々が行き交うこの大通りは町から街へと姿を変えつつある。
 
 西洋と東洋が混じり合うその中に軻々里は何の躊躇いもなく溶け込んでいく。いとも容易に人との境界線を飛び越える様に。それが私にはいつも眩しく見える。
 
「目的地は決まっているのか」
 
 無意識に無意味な質問を口にした。度々、軻々里の背中を見ると彼がどこか遠くの存在と錯覚を起こして、私は無駄な言動をしてしまう事があった。
 
「いや?まだ決まってない」
 
 返答したという行動は安心するが、返答の中身に不安を覚えるのもいつも通りだ。
 
「……お前な」
 
「ふらっと歩くのも悪くないだろ?決まった時間に決まった場所に決まった動作をして、なんてつまらないしな」
 
 全く彼らしい答えだった。行き当たりばったり、という言葉は軻々里の為に作られたのではないかと私は本気で思った時期があるほど、彼は自由人だ。
 
 怪魔なんて皆こんな者だよ、と軻々里は言っていたが、断じて違うと思う。彼らが人間より自由なのは認めるが、何というか軻々里のそれは、方向性が違うというか。
 
 軻々里に倣って視線を緩慢な動きで左右へと交互に向けると、温かな光を灯す店と共に、すれ違う人物にも意識が注がれる。軻々里の様に、人物、と言って正しいのかどうか解らない者もそこそこ人に混じっているけれど、彼らの表情は皆穏やかだ。怪魔と関わりの薄い人間ならば、彼らの正体に気付く事は難しいだろうと思うほど人に馴染んでいる。
 
 けれど、目の前にいた和装の男が私達を見た瞬間、すぐに顔をしかめた。それを隠す様子もなく、冷徹な視線を此方へ寄越したまま立ち去る。幾度となく見た光景で、怪魔が人に馴染んでいるのと同様に、ここではそんな態度も大して珍しくはない。私もいつしか慣れてしまっており、軻々里も苦笑している。
 
「俺みたいな怪魔と行動してると初にまで苦労かけるな」
 
 いつもは自由奔放の癖に、軻々里は変な事に気を遣う。
 
 怪魔に良い印象を持たない人々は確かにいる。人間に危害を加える怪魔もいる事も事実だ。しかし軻々里の様に人間と共存出来る怪魔や尊重する怪魔も同じくらい存在する。先程すれ違う群衆の中にいた者達だってそうだ。
 
 私は別に、全人類が怪魔に好印象を抱いて欲しい訳ではない。思想や価値観は強制すべきものではないし、私だって苦手な怪魔は1人や2人いるのだから、博愛主義めいた事を願えはしない。怪魔の事を嫌う人間はその分彼らの事を知らないだけで、悪でも何でもないのだ。
 
 単に、私の目の前の銀髪を靡かせる男を悪く思われたままでは哀しいと思っただけだ。非のない人間が、非のない怪魔を誤認識する事を傍観した私の身勝手な感情の一片に過ぎない。
 
「私の事はいい、苦労の内に入らない」
 
 一度死んで再び現世で人の姿で生きている私は、きっと人や怪魔の区分にも入る事すら出来ないだろう。何処の区分にも入らないというのはどちらの立場にも立たないという事と同義なのだから、自分の立場は卑怯だと思う。
 
 ただ、軻々里が苦くではあるが笑顔を浮かべているのがよく解らない。先程の男の行動に対して笑っているのか、それとも彼自身が怪魔であるという事に対して笑っているのか。いつもこのような場面で、困った様な苦い様な笑顔を向けながら謝罪の言葉を口にするが、未だに彼の心情は読み取れない。怒りを覚えたならば憤怒を叫べば良いし、悲しみを覚えたならば悲哀を嘆けば良い。たったそれだけの事で感情は簡素なものに形を変えるのに、軻々里は回りくどい。
 
「……何か不機嫌?」
 
「何でもない。ついでに言えば怒ってない」
 
 何でも良いので、軻々里から眼を逸らしたかった。これ以上見ていると、ますます昔からの疑問が大きくなってしまいそうだったからだ。
 
 肩上で適当に切り揃えた黒髪を軽く弄りながら意味もなく私は街に視線を泳がせる。前方は軻々里が歩いていたはずが、私が足を早めたせいかいつの間にか隣に並んでいた。
 
 しばらく会話もなく、けれど張り詰めた空気はないままにゆったりと歩いていると、どこからともなく聞き覚えのある声が聴こえてきた。溌剌とした、良く通る声。そのくせ、暑苦しく押し付けがましくもなく、明るく温かい少女の声は、見知った者の声だった。