複雑・ファジー小説

Re: 失墜  【完結】 ( No.100 )
日時: 2018/01/14 13:10
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: uDks5pC4)

【She Is】

 講義を終えて、学生たちは次々と立ち上がる。僕は手元の教材をファイルに閉じて、できるだけゆっくり帰り支度をはじめる。今あの混雑した出口に向かうくらいなら、少し待って行った方がいいだろう。

 「あー、疲れた。難しかったなぁ、ミクロ経済学。瑛太たちって、毎日こういうのやってんのかぁ」

 隣で、僕の友達である渋谷翔が眠そうに目を擦り、欠伸をしながら体を起こす。
 彼は、今服飾系の専門学校に通っている。今日は学校が休みで、大学の授業を一度受けてみたいと言い出したので、僕がこの講義に連れ込んだのだ。大きな教室と黒板と、さらには各席にひとつは配置されたコンセントを見て、翔は物珍しそうにしていて、私立大学だとこんなもんだよ、と僕が言うと、俺も大学に行けばよかったなあと返して、笑っていた。まあ、彼はその十分後には、教授の長いお話に耐えかねて眠ってしまったのだけれど。

 「こんなんばっか勉強して大変だなあ、これからバイトだっけ?」
 「もう随分慣れたよ。バイトは十八時から」

 出入口も空いてきたころ、僕らは立ち上がり、人の流れに沿って歩き出す。そんな単純な作業をしている時に、翔は突然言い出した。

 「瑛太って、まともになったよなぁ」
 「翔だってまともになったよ。昔はあんなにピアスも開けて金髪だったのに、今はかなり落ち着いたし」
 「そういうんじゃなくて。バイトも始めたしさ、最近柚寿ちゃんとも会ってるんだろ」
 「まあ、進学先が近かったから、たまに連絡取ったり会ったりするね」

 確かに僕は、前から比べたら幾分かはまともになった。もう僕は、あいつから金を奪って生活するようなことはしていない。
 あれから僕は高校をやめて、通信制の学校へ移った。最初はあいつがまた刺しに来たらと思うと怖くて外に出られなくなったり、柚寿や瀬戸さんにしてしまったことを思い出しては極端に憂鬱な気分になってしまったりして、通学することが難しくって、登校日には休んでばかりいた。それでも、普通の人よりは一年多くかかったけれど、無事卒業することはできたし、奨学金で大学へ行くこともできている。大学生になってからはレストランのウェイターのバイトも始め、それなりに得た金で、それなりに生活をしている。
 ただ、好きだったブランドの服とか、誰かへのプレゼントとかで、少し高価なものを買おうとすると、お前には不相応だ、と矢桐に言われているような気がどうしてもしてしまい、今でも買えずにいる。殺されかけたあの時を思い出すと夜眠れなくなることもある。それを振り切って、なんとか毎日暮らしている。大学でも友達はできたし、充実しているはずなのに、未だにあいつのことが怖い。
 もう二年も経つのに、僕はまだ完全には踏み切れてはいないのだ。

 「いーや、僕、全然まともじゃないよ」
 「んー、そうか? 瑛太がそう言うんなら、そうなんだろうなぁ」

 さっきまで授業を受けていた九号館を出ると、外は広いキャンパスが広がっている。僕はもう授業はないので、翔と一緒に正門まで歩く。紅葉の季節なのか、構内の木は赤や黄に色を変えていた。今年は、時間が過ぎるのがやたら早いのは、忙しいからだろうか。

 「で、柚寿ちゃんはどんな感じ?」
 「元気だよ。今薬学部で勉強してるらしいけど、なんか悔しいよなあ、僕と一緒にいた時よりずっと楽しそうにしてるよ」
 「だろうなあ。あの子、瑛太の隣でニコニコしてるだけだったしさ、心配だったけど、うまくやってんなら良いじゃん」
 「そうだけど、やっぱり悔しいものは悔しいんだよ」

 大学から駅までは、徒歩五分くらいで行ける。僕らこれからバイトで、翔にも用事があるため、そこでさよならだ。高校の時はよく遊んでいた翔とも、今別れると、これからしばらくは会わないんだろう。それは柚寿も一緒で、あんなに毎日会っていたのに、次は試験が終わった三ヶ月後ね、と約束を交わす時、そんなに長い期間会えないのかと思ってしまう。今毎日のように遊んでいる大学の友達とも、いつかはこうなってしまうんだろう。
 日が暮れかけていた。街にはオレンジが降り注ぎ、講義を終えた学生がいろんな塔から吐き出されてくる。
 僕はそれを横目で見ながら、翔に言う。

 「そんで、どうなの、きょーちゃんとは」
 「別に、仲良くやってるよ」

 夕暮れの下で、翔は照れたように笑った。
 翔は今、僕が最低なことをしてしまった女の子、瀬戸さんと付き合っている。最初聞いた時は、翔と付き合うなんて、あまりにも瀬戸さんが浮かばれないだろうと反対したのだが、意外にも、もう半年以上関係は続いている。僕のクラスにいた、柚寿の友達の紅音さんを一ヶ月もしないで振るような翔はどこへやら、「この子のこと、ずっと前から好きだったんだ」と言い瀬戸さんを溺愛している様子の翔を見る度に、あの子は翔に任せて正解だと僕も思うようになった。外見も今は大学に居てもすっかり馴染むようになったし、翔は、僕よりもずっとかっこいい。王子様なんかいないんだと瀬戸さんに言ったことがかつてあった気がしたが、今の翔を見ると、あの時の言葉も嘘のように思えてくる。

 「で、瑛太は? なんかないの?」
 「うん、僕は彼女いないし。なんにも面白くないよ」
 「柚寿ちゃんは?」

 だから、もう柚寿とは付き合ってはいないって、何度も言ってるだろ、と笑う。
 それでも今年のクリスマス近くに、少しだけ、準備はしてある。付き合っていた頃のように豪勢なお祝いはできないけれど、今度はちゃんと僕の稼いだお金で、彼女をもてなしてやりたいと思っている。もう一度付き合ってくれとはまだ言えない。でもいつか、きっと来年の夏には、また僕が一番に誕生日を祝えたらいい。そんなこと、まだ翔には言えはしないけれど。
 コンビニのところを曲がると駅がある。翔は、案内してくれてありがとう、楽しかった、けど眠かった、と礼を言う。僕も正直あの授業は眠かったので、それを素直に言うと、彼はやっぱりな、と言って笑った。
 地下鉄の駅への階段を降りていく翔に手を振る。次はまた忘年会で、と挨拶をした。あと三ヶ月近く、仲のいい友人に会えないのは悲しいが、三ヶ月なんて、期間としては長くても、実際暮らすとあっという間だ。またすぐに会える。
 翔といると、色々昔のことを思い出す。矢桐は何をしているのだろう。僕と矢桐は強制的に連絡手段を絶たれてしまったため、今、何をしているのかも知らない。まあ、あいつは金持ちだから、たぶんどこかで大学生でもやっているのだろう。僕は今でもたまに矢桐が殺しにくる夢を見ては呼吸が苦しくなっているのに、あいつはきっと、金持ちだから、普通に暮らせているんだろう。
 そして、そんなことを考えている暇もない中、僕はこれからアルバイトだ。大学から少し離れたところにある洋食のレストランの時給はいくら深夜にシフトを入れても千円前後で、高校の時と比べたら、自由に使える金は全然無くなったが、常連客と話したり、先輩と仲良くなったり、なかなかに楽しくはある。あまり気乗りするものではないが、バイトは僕の完全に狂った金銭感覚を少しずつ直してくれている。
 信号を渡り、大学から離れた方へ向かう。東京は道さえ広く、大学へ向かう生徒、もしくは授業を終えてどこかへ向かう生徒が、横並びになって歩いていた。バイトまではまだ時間はある。久しぶりに、柚寿に電話でもしてみようかと思いながら、その後ろを歩いていた。