複雑・ファジー小説

Re: 失墜 ( No.23 )
日時: 2016/11/08 22:56
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)

6 悲しくなる前に
 いきなり気を失ってしまった矢桐の肩を揺さぶる。かろうじて意識は取り戻したものの、このまま帰すのは心配だから、僕は勝手に矢桐のポケットから携帯を取り出して、ついでに入っていた裸の三万円を押収して、最終着信履歴の「兄」に電話をかけた。別に矢桐がどうなろうと僕には関係ないけれど、酒を飲ませたのは僕だし、それが見つかって問題になったら困る。
 矢桐のお兄さんらしき人は、ワンコールで電話に出た。僕はほろよいの缶をビニール袋に仕舞いながら、言う。

 「もしもし、僕、矢桐くんの友達の、青山瑛太っていうんですけど。矢桐くん、具合悪いみたいなんで、迎えに来てくれませんか?」

 隣でぐったりしている矢桐が、友達なんかじゃないし、と呟く。お兄さんの方も、電話の向こうで「晴に友達いたんだ、意外だなあ」と、へらへら笑っている。矢桐は自宅でも不愛想なのだろうか。もっと、さっきみたいに話せるようになれば、結構良い話し相手にはなりそうだが、もったいないな。
 わかった、すぐ行きますと矢桐のお兄さんが言うから、僕は場所を伝えて、お願いしますと頭を下げて、電話を切った。僕はこいつの保護者かよと思いながら、古い機種の携帯を渡す。まだ体調が悪そうな矢桐は、おぼつかない手つきでそれをポケットに押し込んだ。

 「……ごめん。酒飲ませて」
 「いいよ、もう」

 僕から顔を背けて、目を瞑る矢桐は、本気で具合が悪そうに見える。念のために、空いたビニール袋を差し出したけれど、「いらない、大丈夫」と首を振られた。弱いチューハイ一缶で酔ってダメになる人間って、都市伝説じゃなかったんだな。
 ベンチに倒れ込んで、いよいよしんどそうな矢桐の背中でもさすってやろうと手を伸ばしたとき、一瞬で血の気が引いた。うそだろ、と、思わず言葉に出してしまう。
 安っぽいジーパンのポケットから、不似合いなカッターが飛び出している。わりと大きめの、その気になれば人を殺せそうなカッターだった。普通、こんなの持ち歩かないだろ。もしかすると、僕が暴力をふるったとき、これを出すつもりだったのではないだろうか。こんなので、特に顔に傷をつけられたら、たまったもんじゃない。
 矢桐は、僕に気づいていないようだった。僕は出来るだけ、音をたてないように矢桐のポケットからカッターを引き抜いて、ビニール袋に入れた。「こんなの持ち歩くなよ」と、吐き捨てるような言葉も添えて、隠すように反対側に袋を移動させる。矢桐はまだ苦しそうに、寝っ転がっていた。

 「ごめんなさいね、お大事に」
 「あっ、いえ、全然大丈夫ですよ、こんな奴、すぐ良くなりますから!」

 十五分くらいして、矢桐のお兄さんが市営住宅まで、車でやってきた。外車だった。矢桐の家が金持ちなのは知っていたけれど、僕の姉さんと同い年くらいの若い男が、こんな良い車に乗っているのは、なんだか気に食わなかった。
 後ろに立っている姉さんが、矢桐のお兄さんに謝っている。幸いなことに、僕が矢桐に酒を飲ませたことは、バレずにすんでいるようだ。
 お兄さんは、すごく慌ただしい素振りで、まだぐったりしている矢桐の背中を強く叩いている。矢桐と似て、冴えない感じの人だから、美人と名高い僕の姉を前にしてテンパっているのだろう。ご愁傷さまと矢桐に心の中で悪態を吐きながら、「お大事に」と僕は手を振った。中まで綺麗な車だな、あんな男にはもったいない。矢桐があの車で盛大にゲロを吐く事を祈って、僕は走り出す車を見送った。
 車が角を曲がって見えなくなったとき、姉さんが僕の肩を掴んで、悪戯っぽい表情で言った。

 「瑛太、友達連れてくるなんて、初めてじゃん。あの子何者? 今まで、絶対何があっても友達を家に呼ばなかったのに。柚寿ちゃんすら呼ばないじゃん」
 「……あー、うん。ちょっと、いろいろあってさ」

 嘘はついていない。姉さんと並んで、階段の方へ歩いていく。
 あんな家、友達を呼べるわけないじゃないか。狭いし、古いし、物で溢れてるし。あんな部屋に住んでることがバレたら、友達にも柚寿にも失望されてしまうに違いない。矢桐は唯一、僕が貧乏なことを知っているから呼べたけれど、他の知り合いを家に呼ぶなんて絶対に嫌だ。
 そんな僕とは違って、姉さんは昔から、部屋に友達を連れ込むことが多かった。古い家だね、とか、市営住宅なんだ、とか、周りに笑われても、「あたしは貧乏だけど、いつか金持ちと結婚するよ」と自信満々に言っているのを何度も見てきた。現にさっき来た矢桐のお兄さんは完全に目がハートだったし、とうとうそれが現実味を帯びてきた。僕の姉さんと矢桐のお兄さんが結婚したら、僕にとっても矢桐にとっても悪夢でしかないから、やめてほしいな。
 と、そんなことを考えていたら、急に姉さんが真面目なトーンで、「ねえ」と僕の肩をつついた。

 「あの子から、お金取ってるんでしょ」

 姉さんが、姉さんにしては強めの口調で言う。歩を止めることはなく、夜の中を進んでいく。あーあ、面倒だなと思いながら、僕は誤魔化すことも忘れて、姉さんからあからさまに目を逸らした。初めて人に矢桐との関係がバレてしまった。もし今隣にいるのが柚寿だったら、僕は取り返しがつかないくらい動揺していたのだろうけれど、不思議なことに姉さんだと、そうでもなかった。

 「……なんで、そう思うの?」
 「瑛太があんなに金持ってる訳ないし、普段の瑛太だったらああいう地味な子とは仲良くしないだろうし、あの外車見てビンゴだなって思った」
 「へえ、そっか」
 「悪いこと言わないから、やめときなよ。あの子、怒らせたら怖そう」

 殺されちゃうかもよ。姉さんはそう言って、部屋の鍵を開けた。靴を脱ぎながら、ほろよいの缶と一緒に公園に捨ててきたカッターを思い出す。「最近、そういう事件多いでしょ」と、姉さんは飄々とした調子で言うけれど、洒落ごとではない。殺されちゃうかもよ。姉さんの言葉と、矢桐の顔と、さっきのカッターが反芻する。さっきまで僕の隣で、楽しそうにしゃべっていた矢桐が、そんなことをするなんて、考えたくはない。じゃあ金を取るのをやめろよという話なのだけれども、それもまた、僕にとっては難しいことだった。

 「僕だって、やめれるならとっくにやめてるよ」

 汚れた玄関の隅に呟く。「えーなに、きこえなーい」と、向こうの部屋で叫ぶ姉さんを無視して、僕は充電が切れかけのスマホを充電コードに繋ぐ。届いている通知も無視して、居間に座る。
 姉さんは、それ以上僕に何も聞かなかった。ありがたいけれど、内緒で僕の学校に連絡をしないか逆に不安で、悩んだ末に、僕の方から聞いた。「連絡? するわけないじゃん、めんどいし」と言いながら、コンビニのサンドイッチの袋を開ける姉さんを見ていると、聞いた僕がバカだったな、という気持ちになった。
 友達と通話を始める姉さんを横目に、やっと通知を見る気になった僕は、柚寿やクラスの友達からの連絡をぽちぽち返しはじめる。その中に、瀬戸さんもいた。矢桐の好きな女の子だ。僕は、矢桐を困らせてみたくて、この前彼女にキスをしてしまったけれど、思えばすごく軽率だったな。柚寿にバレたら面倒だし、このままフェードアウトできたらいいのだけれど、瀬戸さんからの連絡には、明らかに恋の温度があった。僕が柚寿と付き合っていることを知ってるくせに、まるで彼女が彼氏に送るような文面が広がっている。
 ますます、矢桐が怖くなってきた、僕は、矢桐から瀬戸さんを奪ってしまったようだ。楽しそうに笑っている姉さんの声が、やけに遠く思えた。

Re: 失墜 ( No.24 )
日時: 2016/08/26 02:09
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)

 次の日学校に行くのは億劫だった。いつもなら、「柚寿と待ち合わせをしているのだから、遅れてはいけない」という意識があるから、なんとか朝の支度をする気力が湧くのだが、どういうわけか、数日前から柚寿は僕と一緒に登校してくれなくなった。テストの二週間前だから、朝早く学校に行って、先生にわからないところを聞きたいらしい。朝にはとことん弱い僕としては、柚寿がなぜそこまでしてテストで点数を取りたいのか、わからない。柚寿はいろんなことを頑張り過ぎなのだ。勉強ができなかったとしても、少なくとも僕は、柚寿のことを嫌いにならないのにな。顔は美人だし、性格もすごくいいのに、これ以上何を望んでいるんだろう。
 
 「いってらっしゃい」

 後ろからやってくる姉さんに、いってきますと挨拶を返して、僕は家を出る。姉さんは今日確か、サークルの飲み会があったはずだから、家の鍵がリュックに入っているのを確認する。
 火曜日、晴天。長袖のカーディガンが暑くなってきたということは、もうすぐ夏が来る。夏なんか、僕は大嫌いだった。梅雨の時期は髪がまとまらないし、盛大に金を使うであろう柚寿の誕生日もあるし、なにより僕の家にはエアコンが無い。暑い夏も、寒い冬も、大嫌いだ。永遠に春と秋が続けばいい。
 ガラガラのバスは、駅を目指してゆっくり走り出す。市営住宅を抜ければ周りには閑静な住宅街が広がっていて、終点の駅で降りるとき、僕はやっと、青山瑛太という人間になる。僕の家が生活保護で市営住宅で、矢桐から金を押収しないと生きていけないなんて、絶対に、誰にもバレてはならない。暗転したスマホの画面に映る自分と目が合う。ちょっと乱れた前髪を直し、コインランドリーに毎日通って洗濯しているワイシャツの袖をぴんと伸ばし、今日もばっちりだなと、安心して心の中で笑った。



 特筆することもなく、いつも通りに授業は終わった。放課後。帰宅したり、部活に向かったりする生徒が多い中、僕は図書室に行ってしまった柚寿を、教室で待っていた。朝は一緒に行けないから、せめて帰りだけはと、二人で約束をしていた。
 この後は予定がある。同じ雑誌のモデルの友達の誕生日パーティーに呼ばれていた。その参加費用とプレゼント代がたりなかったので、昨日も矢桐に頼ることになってしまった。矢桐は今日も平然と登校し、賑やかな僕のグループとは離れた場所にひとりでぽつんと座っていたが、昨日の夜は一緒に酒を飲んで語り合ったのだ。それが未だに、今までの関係とはかけ離れすぎていて、あれは夢だったのではないだろうか、とさえ思う。僕が金に困っていなければ、矢桐となんか、話すこともなかっただろうに、人との関係はいつも不思議だ。
 じゃあね、また明日と挨拶をするたびに、教室の話し声が消えていく。残り十人くらいになった時、教室に入ってきた女の子と目が合った。
 瀬戸さんだった。矢桐をからかいたくて、わざとキスをした子。茶色の髪を低い位置で二つに結んだ彼女は、よく見ると、けっこう可愛い顔をしているけれど、やっぱりキスしたことは後悔してしまうし、柚寿や矢桐への罪悪感は拭えない。
 こっちを向いて控え目に手を振る彼女に、僕も微笑み返す。付き合ったばかりのカップルみたいだな、と思う。矢桐が望んでも手に入れられないものを、僕はこんなに簡単に手に入れてしまった。
 男という生き物は、基本的に獲物を追いかけ続けていたい性であり、もう手に入ったも同然の瀬戸さんへの興味はほとんどなかった。だけど、瀬戸さんの方はどうだろう。僕と矢桐のくだらないケンカに巻き込まれたかわいそうな女の子は、本当の僕らの事なんか何も知らないで、哀れに恋のような感情を抱いている。いや、恋ですらないかもしれない。「一目惚れしちゃったの、お姉さんには内緒ね」とかなんとか言って、僕の初めてを全部奪っていった、馬鹿な姉の友達のことを軽率に運命の相手だと感じていた昔の僕と、瀬戸さんは同じなのかもしれない。恋に恋をしている、そういう時期なのだ。それなら相手は僕じゃなくてもいい。僕よりももっといい夢を見せてくれる男がいるはずだ。
 極力目を合わさないように、教室を出る。柚寿を迎えに行こうと思った。感情が倒錯して、自分の事が嫌になりそうなとき、真っ先に会いに行きたくなるのは柚寿だった。だから、僕は柚寿が好きだし、恋してるんだと思う。でも、瀬戸さんの運命の相手に代わりが居るように、僕のこの感情をぶつける相手にも、代わりは効くのかもしれない。そう思うと、もう恋というものがわからなくなってくる。大人になったつもりでいても、大人のまねごとをしてみても、結局僕らはどうしようもないほどに馬鹿な子供だ。こういうのを思春期っていうのかな、とか、適当な自己完結を下して、廊下を歩き出す。ちょうど、午後五時をまわった。柚寿は今も勉強しているだろう。飲み物でも差し入れしてあげようかな。自販機で足を止めて、金が申し分なく入っている財布を制服のポケットから取り出した。