複雑・ファジー小説
- Re: 失墜 ( No.27 )
- 日時: 2016/08/28 02:08
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
「おつかれ、柚寿」
少し眠そうに参考書を捲っている柚寿を見つけるのに、時間はかからなかった。本の匂いがする図書室に入って、すぐ近くの席に座っている、僕の恋人に手を振る。
うちの高校は私立だから、なかなか広い図書館である。でも僕は今までの人生で、全くと言っていいほど図書室を利用したことがない。理系だし、現代文の教科書に載っている小説でも嫌気がさすくらいだから、単行本なんて絶対読めない。古典なんか特にダメで、古語的な言葉もオチのない話も大嫌いだった。高校受験の時はさすがに何冊か読破して面接に備えてみたけれども、結局好きな本なんか聞かれなかったし、これから作ることも無いだろう。
おすすめとして紹介されている、「人間失格」を見て、なんとなくバカにされている気分になる。瀬戸さんにキスをしたり、柚寿の努力を素直に認めてあげられなかったり、矢桐から金を奪ったりする僕が、合格だとは思えない。わかってるから、もう放っておいてくれよ。僕だって、好きでこうなったんじゃないんだよ。
「はあ、疲れた。数学難しくて、嫌になっちゃうな」
柚寿が笑う。開かれた参考書とその横のノートには、おびただしい量の数式が記されていた。数学が苦手な柚寿は、よく授業の後に先生に質問しに行っている。僕は、これでもクラスで一番数学ができるから、出来るだけ柚寿の力になりたいのだけれど、柚寿はなぜか僕には頼りたくないようだった。今取り組んでいるその問題だって、公式を使えば一発で終わるのに、柚寿は長々と式を展開している。
帰ろっかと途中式を投げ捨てた柚寿は、ピンクのシャーペンを仕舞って立ち上がる。革のスクールバックには、勉強道具が山ほど入っていて重そうだ。まだテストまでは二週間あるのに、そこまで切り詰めてやる必要はあるのだろうか。僕はできれば、今日これからある誕生日パーティーに、柚寿も連れていきたかった。美人な彼女は自慢になるし、僕の親友の翔も久しぶりに柚寿に会いたがっていた。だけど、柚寿は僕の誘いに乗るほど暇ではない。
数学なんかできなくてもいいから、一緒にパーティーに行こうよって誘ったら、嫌われるかな。椅子をもとの位置に戻して、沢山出た消し炭を丁寧にまとめてごみ箱に捨てる柚寿を見ていた。僕は、もしかしたら数学以下なのだろうか。
□
雨が降ってきた。コンビニで買った傘に、二人で入る。杏子色だった夕焼けは澱み、灰色の雲が僕らの街を覆う。「もう梅雨なのかな」と空を見上げる柚寿は、何かにおびえているような目をしている。
中学生の頃、授業中に大雨が降って雷が鳴りだしたとき、大半の女子が騒ぎ散らしていたことを思い出す。柚寿も雷が苦手だったとしたら、どこか屋根のあるところに連れて行って、手でも握ってあげなくてはいけない。だけど柚寿は、いつも僕の思惑とは反することを言う。
「六月は、定期模試があるから嫌なの」
憂いを帯びた視線を、水たまりに落としている。可愛げが無い女である。そういう点も含めて好きになったのは僕の方なのだけれど、ここで「雷が怖いの」とでも言ってくれたら、惚れ直したのに。狭い歩道に倒れている、潰れたたんぽぽに舌打ちしそうになるのを抑えて、僕は「そうだね、定期模試」と子供をあやすように言った。
柚寿がこうだと、実は僕も雷は苦手なんだ、というカミングアウトができない。僕の家は昔からあんな感じだから、雷が来るたびに、家が壊れないか心配で、リュックにお菓子を詰め込んだり、布団をかぶって怯えたりしていたので、今でも雷が鳴るとそれなりに身構えてしまう。
「……雨、強くなってきたね」
「うん。今日、友達の誕生日パーティー行くんでしょ? 気を付けてね」
柚寿が笑っている。二人で一つの傘に入っているから、いつもより距離が近い気がする。真っ白な肌も、ぱっちりした二重まぶたも、細い体も、全部が非現実みたいな僕の恋人は、まるで暴力的に感じるほどの少女性と、触れれば壊れてしまいそうな危うさで出来ている。学年で可愛い子の話題になると必ず名が出てくる、僕の自慢の恋人だ。でも柚寿は、僕よりも数学と定期模試に夢中である。もっともっと、いろんなものを買ってあげればいいのだろうか。そういうわけでもないらしい。
賭けみたいなものだった。僕は、できれば柚寿に、笑って頷いてほしかった。
「あのさ、柚寿も来ない? 気分転換にはなると思うよ、ケーキとかもあるだろうし」
恐る恐る、隣の柚寿を見る。いいよって言ってほしい。数学も定期模試も散々な結果でいいから、僕と一緒に居てほしい。そんな願いを託したけれど、柚寿は、やっぱり、あんまり乗り気じゃないようだった。
一年も付き合っていればわかる。どうしようかな、と視線をずらす柚寿は、明らかに、行きたくはなさそうだった。
雨がさらに強くなって、僕らの傘に雨粒が当たる音だけが大きく聞こえる。車道側を歩く僕の声は、通り過ぎるトラックにかき消されそうだった。
「……冗談だよ。柚寿が忙しいのは知ってるし、応援してるから。頑張ってね」
僕は笑う。うん、ありがとうね、と柚寿も笑う。さっきのふやけた半笑いじゃなくて、心からの笑顔に思えた。
もう僕は、柚寿のことがわからない。駅の向こうで手を振る彼女をただ眺めていた。雨に濡れないようにと渡した傘が、遠くなっていく。