複雑・ファジー小説
- Re: 失墜 ( No.29 )
- 日時: 2016/08/31 00:14
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
6.5 とある午後
雨が降っていた。雨宿りする人たちを横目に、折り畳み傘を広げ、仙台駅を出る。大学から出された膨大なレポートを思い出して、ため息を吐く。薄暗い空と雲は、あたしの今の気持ちみたいだった。
あたしの家は生活保護で暮らしている。物心ついたときに、もうお父さんは居なかった。お母さんはラブホテルの清掃のパートをしているけれど、体調が優れない時が多くて、収入なんてあって無いようなものだ。駅からバスで十五分の市営住宅の、一番古い棟があたしたちの家で、お母さんはほとんど帰らないから、二歳下の弟である瑛太とずっと、二人暮らしのような生活を送っていた。
大学へなんか、行ってはいけないと思っていた。国の税金で公立高校を卒業したあとは、それなりの企業に就職し、お母さんと瑛太を養っていかなければいけないと思っていた。だけど、あたしの事情を知っていた高校時代の恩師が、特別にあたしを奨学生として推薦を出してくれたので、今は薬学系の大学で勉学に励んでいる。奨学生という身分上、サボりや手抜きは絶対に許されないし、理系の大学生というのは、意外と忙しい。あたしは毎日昏倒寸前だった。
でも、卒業さえしてしまえば、安定した収入を手にできるし、瑛太を大学に行かせてあげられるかもしれないし、お母さんを旅行に連れて行ってあげることもできるかもしれない。それだけが、今のあたしの支えだった。今日もよく頑張った、と自分を激励しながら歩く。
バス代は極力節約しなければいけないので、家まで歩くことにした。昨日飲み会に参加したから、夜ご飯も我慢しなければ。私の家庭事情を知っている友達は、よく私にご飯を奢ったり、遊びに誘ったりしてくれる。嬉しかった。こんなあたしでも、みんなは優しくしてくれる。だから、絶対にみんなと一緒に卒業したい。あたしが金持ちと結婚して、お金に余裕が出来たら、今までお世話になった人全員に恩返しをしてあげたい。
そう思いながら帰路を進んでいた時、急に向こう側の角から出てきた人に声をかけられた。あまりに突然のことで、あたしは驚いて転びそうになる。こんな雨の日に転んだら、服が悲惨なことになる。少しの苛立ちを抑えて、その人の顔を見上げる。
「……あ、青山さん! 奇遇ですねえ!」
冴えない外見の男の人だった。黒のパーカーにジーパンという格好で、いかにも浪人生です、と言った感じ。ぎこちない笑顔を浮かべて、あらかじめ何度か練習していた台詞を読むように、その人はあたしに話しかけてきた。
あたしは、この人を知っている。この前家に遊びに来た、瑛太の友達の晴くんの、お兄さんだ。晴くんが突然具合が悪くなってしまったから、とわざわざ外車で迎えに来た、あの人だ。
「矢桐さん、こんばんは。お散歩ですか?」
あたしは微笑みを浮かべて、もう一度ちゃんと彼を見上げる。矢桐さんは、何秒かたじろいだあと、「そんな感じです、あはは」と笑った。きっと彼は、そこの角で、あたしのことを待ち伏せしていたのだろう。この近くに予備校はないし、お金持ちが喜びそうな施設もない。そしてこの慌てようを見るに、この人は明らかにあたしが来るのを待っていた。
少し気味が悪いけれど、あたしはこの人相手に強く出ることができない。「これからお茶でもどうですか」とたどたどしく誘われても、笑って頷くしかなかった。
雨の音だけが聞こえる喫茶店で、あたしはエスプレッソを注文して、矢桐さんはコーヒーを頼んだ。店の真ん中のテーブルで丸くなっている店の看板猫を眺めながら、いつ、「うちのバカ弟がごめんなさい」と言おうか迷っていた。
瑛太は、矢桐さんの弟から、何十万円と金を巻き上げている。いつから始まったのかは知らないけれど、この前晴くんがうちに来たとき、それに気付いてしまった。軽く問いただしても、瑛太は否定も肯定もしなかった。うちの経済力じゃあんなにたくさん物が買えるわけがないし、彼女の柚寿ちゃんや友達と毎日遊び歩けるわけがない。
なんて馬鹿なんだろうと思う。あたしは昔から、瑛太のためにいろいろ頑張ってきたつもりだった。毎日銭湯とコインランドリーに連れて行ってあげたし、中学の修学旅行に行くのを我慢して、瑛太を小学校の修学旅行に行かせてあげたし、なにより、「貧乏なのは悪いことじゃないよ、これからたくさん幸せになれるよ」って、沢山教え込んできたつもりなのに、どうしてあんなことするんだろう。少々甘やかしすぎただろうか。
雨はしとしとと降り続けている。
「青山さん、薬学部なんでしょ? すっごいなあ、僕なんか、この前医学部辞めちゃって。東京の大学なんですけど、合わなかったってか、はい」
「そうなんですか……」
矢桐さんの話が、通り抜けていく。大学を辞めた話をしているくせに、矢桐さんはとても楽しそうだ。でも、晴くんはあたしには想像しえないくらい、辛い思いをしている。放ってはおけない。
エスプレッソを飲み込む。そして、思い切って、口に出す。
「あの、矢桐さん」
「え、はいっ! なんでしょうか」
突然真面目なトーンになったあたしにならって、矢桐さんもぴんと背筋を伸ばして、こっちをまっすぐ向く。「なんでもお話してください」と、ぱっと笑顔になる。
これから愛の告白でもすればいいんだろうけれど、生憎そんなおめでたい話ではない。
「……ごめんなさい。うちの瑛太が、晴くんのこと、いじめてるっていうか、お金取ってるみたいで……」
目が合わせられない。矢桐さん、怒るかな。大事な弟の、大事なお金だ。思わず俯いてしまう。泣きそうだ。あたしの弟があんなに馬鹿で、それをあたしが謝罪しなければいけないことがとても辛い。あたしの出た高校よりずっと頭のいいところに通ってるくせに、情けないなあ。
矢桐さんの顔が見れない。喉の奥に鉄みたいな味を感じながら、減らないエスプレッソを見つめる。そんなあたしに矢桐さんが返した反応は、想像していたより何倍も優しくて、そして、温度が無かった。
「そっ、そんな顔しないでくださいよ、青山さん! あいつ、おとなしいからいつもカモにされるんです。瑛太くんは悪くないですよ、ていうか、読者モデルとか、超かっこいいじゃないですか! あいつのお小遣いなんか、全部瑛太くんにくれてやりますよ!」
がたんと椅子を引く音がする。泣きそうなあたしを笑わせようとして、必死で話す矢桐さんの声は大きくて、カウンター席に座っていた上品そうなおばあさんがちらっとこっちを向く。
あたしは言葉を失った。矢桐さんはいたって本気の目で、「ね、だから笑ってくださいよ」と言う。何を考えているのかわからない。普通、弟がいじめられているって知ったら、もっと怒ったり悲しんだりするものではないのだろうか。目の前の女に気を取られて、弟を見捨てるなんて、あたしにはとても、信じられなかった。
そういえばこの前、と矢桐さんは、何事もなかったかのように、違う話を始める。もう笑えなかった。早く帰りたい。その一心で、雨粒で濡れた窓の向こうを見る。まだまだ外は晴れそうにはない。