複雑・ファジー小説
- Re: 失墜 ( No.33 )
- 日時: 2016/09/08 21:09
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
8 あなたのあのこ、いけないわたし
体育館を出て、廊下に出るまでの通路にうずくまって汗をぬぐう。球技大会の女子バレーが、こんなに本気だとは思わなかった。
じっとり濡れたTシャツが、背中に張り付く。ついた息は熱く、火照った体はドアの隙間から入る風に吹かれても、全然落ち着かない。まるで、キスされた時みたい。そう思いながら、向こう側の体育館でバスケをしている男子を見る。あの中にきっと、瑛太くんもいる。
バレーは好きだ。サーブが上手く入れば気持ちいいし、コートの中の六人で協力し合うのも楽しい。そんな軽い気持ちで、球技大会の女子バレーのメンバーに入ってしまったけれど、思っていたよりもピリピリした雰囲気に、私は早くも狼狽していた。
去年もうちのクラスの女子バレーは優勝している。今回も負けは許されないといった状況だ。元バレー部の柚寿がいる以外は、平平凡凡なチームの私たちが、去年勝ち取った優勝の名を、今年でなくしてしまうわけにはいかない。それはわかっているけれど、こんなにつらい練習をさせられると、さすがに参ってしまう。
「京乃、おつかれ」
後ろから軽い足音が聞こえ、振り返る。柚寿だった。
長い髪をひとつにまとめて、涼しげな彼女は、シンプルな白のシャツに学校指定外の黒の短パン姿で、そのシャツの裾が、少しだけ長いことに気付く。瑛太くんのを借りているのだろうか。柚寿ほどスタイルが良いと、男物を着てもあまり違和感が無い。
あげる、と微笑んで柚寿は、私にペットボトルを差し出した。青いラベルが特徴的なスポーツドリンクだった。ついさっき自販機で買ったのか、掴んだそれは冷たくて、今すぐ喉に流し込みたい感覚を覚えた。
「……いいの?」
「うん。疲れたでしょ、私のおごり」
「ありがと」
見ると柚寿も一本自分の飲み物を購入していて、私たちは二人ほとんど同時にキャップを開ける。キンキンに冷えたスポーツドリンクが、全身に流れていくのを感じる。こんなに飲み物が美味しく感じたのは、久しぶりかもしれない。
隣に座った柚寿も、疲れたと言って笑っている。中学の頃部活に入っていただけあって、柚寿はすごくバレーが上手い。紅音や優奈が上手くボールを回すと、柚寿はいつも綺麗にスパイクを決める。去年もほとんどこれで優勝したようなものだった。
今年の作戦は、私たちがボールを拾い、最終的に柚寿に回して、スパイクをばんばん打ってもらおう、らしい。少しずるい気がするし、柚寿が疲れてしまうのではないかと思ったけれど、私たちは基本的に紅音には逆らえない。当事者の柚寿さえも、半笑いで「いいよ」としか言えないチームが、優勝なんかできるわけないと私は思う。
「紅音も私達も、今年は本気で勝たなきゃって思ってるみたい。あとちょっとがんばろうね」
「うん、がんばろ」
それでも決して紅音の悪口を言わない柚寿は、とても優しい。こんなに美人で、頭も良くて、運動も出来て、性格もいいのだから、瑛太くんも好きになったんだろう。
かなわない、そんなこと心のどこかではわかっていたけれど、認めようともしたけれど、こんなにはっきり現実として柚寿という女の子を見せられると、私の自信は無くなる一方だ。瑛太くんとキスしたことも、実は夢だったのではないか、なんて思ってしまう。そんなの嫌だ、お願いだから、もう一度だけ夢を見せてほしい。何も知らないで、私の横でたわいもない話をする柚寿が絡めているその指は、何回瑛太くんに触れたんだろう。羨ましい。私は、もし誰かになれるとしたら、間違いなく柚寿を選ぶ。そして、ちゃんと瑛太くんと幸せになるのに。
「ねえ、柚寿。私が失敗しても怒んないでよ」
溢れそうな水色の下、日陰で涼んでいる柚寿に、冗談みたいな口調で私は言う。半分以上飲んでしまった、ペットボトルを強く握る。
「もちろん。私は、あくまでも楽しむつもりだから」
全部バレーの話だと思っている柚寿は、乾いた笑いを浮かべて、また飲み物を口に運んだ。瑛太くんを、私がまた誘ってしまっても、それで柚寿と瑛太くんの間に何かがあったとしても、私を責めないでね。そんな意味を込めて言ったのだけれど、柚寿はそれを知る由もないだろう。ぬるい風が吹いて、柚寿の髪が束になってふわりと舞う。それに見とれることも、もうしたくない。視線をずらして、遠くを見る。向こうの体育館で行われていたバスケも休憩に入ったのか、コートには数人が残っているだけだった。
私も瑛太くんのことが好きって言ったら、柚寿はなんて言うんだろう。もうキスもしたんだよとでも付け加えたら、柚寿はたぶん、私の事を嫌いになる。少女漫画の恋愛はだいたいこんな感じで、好きな人を友達と取り合う展開を何度も見てきた。結局いつも主人公が幸せを勝ち取るけれど、現実はこんなにうまくいかない。私は言いたいことを抑えて、柚寿に言う。
「私も! 楽しもうね、球技大会!」
楽観的なセリフを吐いて、私と柚寿は笑った。
もうすぐ夏が来るのか、吹く風も生暖かくて、ちっとも涼しくならない。あと少し休んでいたかったけれど、柚寿が「そろそろ練習再開だよ」と言うから、私は重い腰を起こして立ち上がる。この練習が何時まで続くかはわからない。本音を言うと、かなり疲れたのでできれば早く終わってほしい。でも、下校中に寄る本屋で、好きな少女漫画の新刊を買うことを決めていたから、そのために少しだけ頑張ろうと思った。