複雑・ファジー小説
- Re: 失墜 ( No.34 )
- 日時: 2016/09/09 18:52
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 07Anwjr8)
午後六時を過ぎたころやっと練習が終わり、私たちは解散の運びとなった。柚寿や紅音たちはこれからカラオケに行くらしいけれど、私と梓はわざわざどこかへ寄る気にはなれなくて、体育館でそのまま解散した。
タオルとスポーツドリンクを持って、女子更衣室へと続く階段を降りていく柚寿たちを見送ったあと、置きっぱなしの制服を取りに行くために教室棟へ歩き出した。
私たちのクラスは二年一組で、一応、特別進学クラスの名を掲げている。だからと言って別段優れているというわけでもなく、部活が制約される代わりに授業時間が他クラスより一時間だけ多かったり、夏休みや冬休みに定期講習があるくらいで、進学実績は普通クラスとさほど変わらないのが現状だった。
私の上履きが、誰も居ない廊下に鳴る。テスト前の二週間は部活が強制停止になるから、部活をしている人たちの声も、今日は聞こえない。放課後の学校は、異様だ。いつもみんなが笑い合っている場所ががらんと空いて、私だけが存在している。よく、七不思議だったり、怪談話だったり、誰も居ない学校は不気味なイメージが付きがちだけれど、本当にそうだと思う。二年一組の教室の中には、誰も居なかった。
男子の机にはまだリュックや鞄が置いてある。だから、鍵もかかっていなかったのだろう。廊下側の一番前が私の席だった。最初は嫌だったけれど、黒板は見えるし、隣の席は梓だし、それなりにいい席だと思えてきた。でも、窓側の後ろの方で、柚寿と瑛太くんが楽しそうに喋っているのを見ると、少し胸が痛くなる。
瑛太くんの席は、窓側の後ろから二番目で、つまり、このクラスで二番目に頭が良い。一番後ろを勝ち取った八巻くんという男子は、クラスの副委員長で、附属の小中を出ている秀才だから、みんなからも一目置かれている。そんな八巻くんの次が瑛太くんなのだ。カミサマは不公平で、なんでもできる人間っていうのは、わりとどこにでも存在する。
制服のワイシャツに袖を通す。Tシャツはさっき替えたばかりだから、このまま上に制服を着て帰っても大丈夫だろう。あの日から、スカートは二回折るようになった。少しでも視界に入りたかった。ちょっとでいいから、意識してもらいたかった。
「……まだ終わってないのかな、男子」
男子が練習している体育館は、ここからは見えない。大きな窓の向こうには、グラウンドが広がっているだけだ。そのさらに向こうには街があって、柚寿たちがこれから行くであろうカラオケも見える。
海が近い街だったらよかったのに、と思ったことがある。学校帰り、夕暮れの砂浜で恋人とはしゃいでみたい。波に誘われて、深い青とオレンジのコントラストを眺めていたい。でもここはただの市街地で、海まで行くにはバスを沢山乗り継がなければいけない。今年ももうすぐ夏が来るけれど、一緒に行ってくれる恋人は、まだ未定のままだった。
寒色系の、使い勝手がよさそうなリュックが、瑛太くんの席にあがっている。無造作に制服を脱ぎ捨てていく他の男子とは違って、きちんと畳まれた制服も置いてある。瑛太くんは、とても几帳面で綺麗好きだ。ロッカーがいつも丁寧に整頓されているのを、いつも見ているから知っている。
そのリュックにぶら下がっている、小さなストラップが目に入った。水色に光る、控え目なデザインのそのストラップは、確か、柚寿の鞄にも付いている。お揃いで買ったのだろう。やっぱり何があっても、一番目は柚寿なんだ。わかってるけれど、まだわかりたくはない。
瑛太くんのすぐ前が、柚寿の席だった。柚寿もまだ帰る気はないのか、机の上にイーストボーイのスクールバックが置いてある。その中からは、大量の参考書が覗いている。例のストラップもあった。柚寿のはピンクで、やっぱりデザインとしてはすごく控え目だけど、それは確かに、ふたりが恋人同士であることを主張していた。
窓側に向かって歩き出す。私は、こんな行動に出てしまうくらい、瑛太くんが好きだ。柚寿の鞄のストラップに指をかける。誰も見ていないことを確認して、するりと輪っかに人差し指を通す。ピンクのストラップは、私の手の中にすとんと収まった。
「ごめん、柚寿」
何もない夕暮れに向かって呟く。
さっきまで、私と一緒に笑っていた柚寿が、頭の中にふわりと浮かぶ。私に飲み物を渡して、頑張ろうねと言ってくれた、優しい柚寿。私は少女漫画のヒロインにはなれないらしい。こんな姑息な手で、瑛太くんを手に入れた気分に浸ることしか出来ない。柚寿なら許してくれるとか、そんな甘いことは少しも考えてない。
スカートのポケットにストラップを滑り込ませようとして、ポケットがほとんど機能していないことに気付く。二回も折ると、入り口はふさがれてしまって、うまく手が入らない。仕方なく私はいったん折ったスカートを元に戻して、確かめるように、柚寿のストラップを奥まで押し込んだ。
すぐに教室を出た。更衣室から出た柚寿たちとすれ違う可能性を考えて、わざわざ遠回りして玄関に向かった。下駄箱の前にしゃがみ込んだとき、急に罪悪感に襲われた。こんな事をしたって、瑛太くんと結ばれるわけじゃない。でも、返す気は無くて、このまま私が大切にしよう、そう思いながら、私はついに学校を出てしまった。柚寿はいつ頃気付くだろうか、もしかしたら、もう気付いていて、紅音たちと騒いでいるかもしれない。歩が早まる。早く家に帰ろうと思った。自転車に乗り、私はいつもよりちょっと速いスピードでペダルを漕いだ。
家にさえ着いてしまえば、誰かに見られてさえいなければ、私が犯人だとバレることはない。制服を脱いで、部屋着に着替えて、薄い化粧を落として、妹たちが話しかけてくるのにもろくに返事もせず、自室に入って鍵を閉め、ぎゅっと手で握っていたストラップを、ついにちゃんとこの目で見ることができた。
ソファーに座り、鞄を置いて、テレビを付けるのが日課だったけれど、私はその日課を二つも飛ばして、立ったままそのストラップを見ていた。綺麗。薄いピンクの透き通るようなそのストラップは、よく見ると、有名な服のブランドの名前が彫ってある。何の気もなしに、スマホを取り出して、そのブランド名で検索をかけてみる。四、五万円はする高級な洋服がずらりと並ぶ中、「人気商品」の欄に、まったく同じストラップを見つけてしまった。
ペアセットで、二万円。たかがストラップ二つで、二万円。その数字に私は驚いてしまって、言葉を失った。瑛太くんって、本当にお金持ちだったんだ。高くても千円くらいだと思っていたこのストラップが、まさか、二万円もするなんて。それじゃあ私は、柚寿から二万円相当のものを奪ってしまったことになる。急に頭がぐるぐるしてきて、とんでもないことをしてしまったという実感がわいてきた。二万円なんて、私のお年玉にも相当する。返さなきゃいけない、でも、瑛太くんとのお揃いが欲しい。結局何も考えられなくなって、私はそのストラップを箱に入れて、厳重に鍵を閉めた。あんなことしなきゃよかったな、と今さらになって思うのだった。