複雑・ファジー小説
- Re: 失墜 ( No.37 )
- 日時: 2016/09/11 23:26
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
暇そうな矢桐を誘って、柚寿と会うまでカラオケでもしていようかと思ったが、よく考えると僕と矢桐は友達でも何でもない。この前の公園の時みたいに、楽しく話ができるとも思えなかったので、喫茶店を出たらすぐに別れた。
繁華街にゲームでも買いに行くのかと思ってしばらく見ていたけれど、普通に駅に入っていった矢桐は、きっとこのまま家に帰るんだろう。つまんねえな、と思う。暇だから付き合ってやろうと思ったのにな。僕はくるりと振り返って、反対方向に歩き出そうとして、思わず「うわ」と声に出してしまった。
「……君、青山くんだよね?」
矢桐がいた。うそだろ、矢桐は今向こうの駅に入ったばかりだ。少し冷静さを取り戻した僕は順番に今まであったことを思い出す。この矢桐は、さっきの矢桐とは違う服を着ているし、ちょっと背も高い。思い出した、矢桐には兄がいた。僕の前に立っていたのは、矢桐が公園で倒れた時、外車で迎えに来たお兄さんだった。
彼は胡散臭い笑顔を浮かべて、僕を見る。そして、こう言った。
「やっぱり青山くんだ。晴と一緒に喫茶店入っていったから、やっぱりなって思ってたんだ」
僕、待ち伏せとか得意だからさ。矢桐にそっくりな奴が楽しそうに笑っているというだけでも薄気味悪いのに、こんなことを言われると、はっきり言って気持ち悪い。さすが矢桐の兄だ、いや、矢桐の方が全然マシだ。僕の本能が、こいつには極力関わりたくないと告げている。
沢山の人が歩いている街の中、僕らだけ切り離されたように、張り詰めた空気の中にいた。僕はようやく口を開く。無理矢理にいつもの柔らかい笑顔を浮かべる。
「……何の用事ですか?」
「ちょっとだけ、話したいことがあるんだ。君、晴からお金取ってるんだってね」
もう笑えなかった。
足元がふわふわして、一瞬で具合が悪くなる。咄嗟にこの場から逃げ出そうとしても、鉛みたいに動かなくなった身体が言う事を聞かない。ついにバレた。きっと、僕の姉さんが何らかの手段でバラしたんだ。そんなことを考える余裕さえないのに、僕の頭はなんとしてでもこの現実を受け入れたくないのか、酒を飲んでちょっと饒舌になった矢桐とか、僕に向かって笑いかける柚寿とか、余計なことばかり頭をぐるぐるする。そのせいで、どうやって切り抜けようか考えようとしても、ちっとも頭が回らない。「そんな顔しないでよ、せっかく綺麗な顔してるのに」と、投げかけられる言葉に、全身がこわばる感覚を覚える。冷汗が背中を伝う。もう嫌だ、この人は、僕に次、どんな事を言うんだろう。
「やっぱり、心当たりあるんだ。……読者モデルだっけ? 近頃のガキは生意気なことしてんなって思ってたけど、まさか高校生にもなって自分で遊ぶ金も稼げないなんて、ガキすぎて笑っちゃうよなあ」
「……」
矢桐が、僕を笑っている。そんな気がして、僕はついに視線を落とす。視界が歪む。こんなこと言われたのは初めてで、全部僕が悪いのに、なんでそんな事言うんだよって言い返したくなる。ここが人の少ない路地裏なら、殴り飛ばして逃げていただろうに、そういうわけにもいかなくて、ニヤニヤしている彼を直接睨みつけることさえできない。
あからさまに言葉に詰まった僕に、矢桐のお兄さんは優越感を覚えてしまったようで、捲し立てるように話し出す。
「いや、晴も確かにダメなんだよ? あいつクソ暗いし、友達も居ないし。だからって、金取ったりしていいわけないじゃん。青山くん、せっかく今全部うまくいってるのに、僕が警察にチクったら、彼女も友達も全部失うってわかってんの?」
わかってるから、これ以上何も言わないでくれ。僕は、今度から絶対にやめるから、そんな事を消え入りそうな声で呟いても、届くはずもない。こいつだけは許さない、そう思いながら、僕は頭を下げた。
「……ごめんなさい」
「僕は別に謝ってほしいわけじゃないんだ。そんなさ、泣きそうな顔しなくたっていいじゃん。僕が悪いみたいだ、全部青山くんが悪いのに」
だから、謝るなよ。そう言って彼は手を振っている。
彼の目に映る僕は、瞳を真っ赤にして、何も言葉が出てこなくて、がたがた震える足でなんとか立っているだけなのだから、ひたすらに惨めなんだと思う。それでも僕の中の最後のプライドみたいなやつが邪魔をして、言いたい言葉を必死に探し求めてしまう。
そんな僕に、彼は言う。
「そんな、青山くんに朗報なんだけどさ。君の今までやったこと、チャラにしてあげるよ」
「……え?」
コンクリートの一角をずっと睨みつけていた僕は、その優しい言葉に、反射的に視線を上げてしまった。ぱちりと目が合う。やっぱり矢桐にそっくりで、そんな奴にここまで追い詰められたのが恥ずかしくて、すぐにまた視線を逸らした。
「……見返りは?」
「よく聞いてくれたね。やっぱり頭良いんだね、青山くん」
もったいぶらないで、早く言えよ。僕は心の中で言い捨てる。彼は、とても気持ちの悪い表情で、こう述べた。
「君のお姉さんを、一晩だけ貸してよ。それで、全部無かったことにしてあげるよ」
いいだろ、青山くん。彼は僕をのぞき込むようにして、まだ笑っている。背筋がぞくりとした。人間のクズだと思った。身内に対してこんな感情を向けられているって、こんなに気持ち悪いことだったんだ。
絶対に呑みたくない欲求なのに、それでもなお自分が一番可愛い僕は、「わかりました」と頷いて、連絡先を渡し、逃げ出すようにその場を後にしてしまった。あとから、死ぬほど後悔することなんて、この時点で解っていたのに。速足で中心街を離れていく僕は、とにかく矢桐のお兄さんから逃げたかった。