複雑・ファジー小説
- Re: 失墜 ( No.38 )
- 日時: 2016/09/14 16:23
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: KVjZMmLu)
事情を何も知らない柚寿は、待ち合わせ場所にやってきた僕に優しく笑いかけた。「大事な彼女も失うんだよ」と言っていた、矢桐のお兄さんを思い出して、また頭が痛くなる。彼女とのデートくらい、気楽にこなしてしまえたらいいのに、今日はどうしても矢桐のお兄さんの存在が付いて回る。
柚寿はなんでも似合うから、今日着ている花柄のワンピースも、ため息が出るほど可愛い。今年はこの柄が流行っているみたいで、僕と同じ事務所の女の子とか、駅前をうろついている女の子も似たような服を着ているけれど、誰も柚寿には敵わない。夕暮れの中に立っている、幻想的なくらい綺麗なこの女の子は、何があったって僕のものだ。
もし、彼女が僕のもとから離れてしまったらと思うと、とても耐えられないだろう。無駄に勉強や運動を頑張りすぎたり、それなのに人形みたいにつんと冷めていたり、ちょっと変わっているけれど、可愛い恋人である。僕は、所有物を横取りされるのが一番嫌いだ。ここまで必死に繋ぎ止めてきた柚寿を失うって、矢桐のお兄さんは笑って言っていたが、僕にとってそれは、考えただけで息が出来なくなりそうになるくらいの大問題なのだ。築き上げてきた周りからの評価や地位が一瞬にして崩れていく、失墜しきったそのどん底で、僕に残っている物はあるんだろうか。
「行こっか」
柚寿が手を伸ばす。縋るようにその白い手を掴む。どうか、離れていかないように祈った。
映画を見に行く約束だった。土曜日の夕方という事もあって、駅に一番近い映画館はとても混んでいたけれど、事前にチケットを予約していた僕らはすんなり席に座ることができた。ポップコーンを持った柚寿が、楽しみだねと小声で言う。シャンプーの香りがする。
話題の恋愛映画のチケットを、無音のカメラアプリで撮影して、あとでツイッターに載せよう、と思いつつ保存した。これから見るのは僕の周りでもかなり多くの人が絶賛している映画で、感動するとか、こんな恋がしたいだとか、みんな口を揃えて言っているのを何度も聞いた。柚寿もきっと見たがっているだろうなと思って誘ったけれど、なんだか柚寿は、さっき宣伝されていたホラー映画の広告を見た時の方が、瞳を輝かせていた。僕は絶叫系は一切苦手なので、できれば友達と行ってほしい。女の子はこういう純粋な、よくできた恋愛映画が大好きだろうに、僕は時々柚寿のことがわからない。
パッと照明が点いて、視界が一気に明るくなる。
結論から言うと、退屈な映画だった。エンドロールが終わって立ち上がる人々の中には涙ぐんでいる人もいるが、僕は終始矢桐のお兄さんの言葉と、姉さんになんて説明しようか、そればかりが気になって、全然集中できなかった。でも、隣の柚寿が、「面白かったね」って言うから、僕も合わせて笑うしかない。
恋愛が、あんなに上手くいくわけがない。平凡なヒロインが、同じクラスの男に恋して、紆余曲折あったあとに結ばれて、最後は結婚するという、なんともありがちな話だ。完璧なカップルが、完璧なタイミングで成立して、ままごとみたいな喧嘩だけして、最後はライバルでさえも二人を祝福する。馬鹿らしい話だ。もし僕が男のポジションだったら、ヒロインと付き合っていても、いかにも性格が悪そうな顔をしているライバルキャラに言い寄られた瞬間浮気しているだろう。あんなにプラトニックな、絶対的な関係だけ見せられて、幸せを語るなんて、僕には理解しえない。……そう思ってしまうという事は、僕はあまり素直な恋愛をしてこなかったんだろうな。現に今僕は、隣で瞳いっぱいに照明の光を宿した柚寿を、早くホテルに連れ込みたくて仕方なかった。
「面白かったけどさ、あんなにきれいな恋愛、僕らにはできそうもないね」
映画館を出た。さっきとは違うホテルで、一番高い部屋を借りた。そういえばさっき瀬戸さんも抱いてしまったことを、この時やっと思い出した。向こうにとっては一生に一度の経験だっただろうに、と消えていた罪悪感がまたこみ上げてくる。今日は厄日なのかもしれない。
電気も消さずに、柚寿を白いベットに押し倒す。嘘も秘密も、今日あったことも何一つとして柚寿には話せないから、こんな形でぶつけるしかない。甘い香りがする唇に触れると、もう、制御は効かない。僕の腰に腕を回す柚寿が、愛おしい。好きだよと耳元で囁く。頭を撫でて、そのまま強く抱きしめる。潤んだ瞳で、「私も、好き」と僕を見上げる柚寿だけが、僕を無条件で愛してくれる。このまま溺れてしまってもいい、ずっと永遠にこうしていよう。花柄のワンピースに手を伸ばす。恋愛の行きつくところは、いつもこれだ。そのひらひらしたスカートの中にだけ、絶対的な関係がある。