複雑・ファジー小説
- Re: 失墜 ( No.39 )
- 日時: 2016/09/16 00:24
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
疲れ果てて眠そうに瞼を擦っている柚寿に、無理やり服を着せる。着せ替え人形と遊んでいるようで、少し虚しかった。それでも僕は柚寿と一緒に居たかったから、もう遅いからと言って家まで送ることにした。
いつもなら一緒にシャワーを浴びて、柚寿の好きそうな飲食店でご飯を食べた後、ゆっくり話をしながら家まで向かうのだが、今日はいろいろなことが重なりすぎて、僕は柚寿の手を握ったまま、すぐ電車に乗ってしまった。ほとんど無言だった。柚寿は特に気にした素振りは見せず、電車の窓に反射して映る自分の前髪を直したり、月九ドラマの話を振ってきたり、いつも通りだったのだけれど、隣に立つ僕は、普段より三割増しくらいで暗い顔をしていた。
「……じゃあね、また明日」
「うん、また明日」
白い街灯に照らされて、柚寿は笑う。その上では赤や黄色の星たちが、夜空でいくつも光っていた。明日は晴れるだろう。
柚寿の家は閑静な住宅街の一角にあって、茶色の屋根と白い壁が特徴的な、どこにでもありそうな家だった。お母さんもお父さんも働いていて、収入もたぶん、人並み以上にはあるから、柚寿は東京の私立大学に進学することを目標にしているみたいだ。僕も同じ目標を掲げたかったけれど、家計の事情でとても東京へは行けないし、姉さんみたいに、学校でも指折りの成績をとって、奨学生に選ばれない限り、大学へ行くことも不可能である。
僕だって、柚寿のような普通の家に生まれていれば、矢桐から金を取ることはなかったし、瀬戸さんに手も出さなかった。僕は何にも悪くない。すべては、子供を育てられないくらい貧乏だったくせに姉さんと僕をおろさなかった母さんと、知らない女と駆け落ちして突然いなくなった父さんが悪い。
母さんも父さんも居なかった、僕がまだ小さかった頃の夜。十年に一度と呼ばれる豪雨がこの街を襲い、僕は家で一人、毛布を被って怯えていた。雷が家を壊してしまうのではないかと思って、大事な荷物を全部ランドセルに詰めて、絶対に離さなかった。こんな時に限って姉さんは、手当たり次第に親戚に電話をかけて、「このままじゃ私も瑛太も避難できなくて死んじゃう」って泣き叫んでいて、僕の相手をしてくれなかったから、僕は怖くなって、雨の音が聞こえないように耳をふさいでいた。それでも頭に直接響くような雨の音はいつまでも鳴りやまなかった。
僕の両親は親戚の間でも煙たがられていたから、僕らを避難所に連れて行ってくれる親戚は、とうとういなかった。姉さんは諦めたように座り込んで、そのまま電池が切れたみたいに眠ってしまった。テレビも無い僕らの部屋には、雨の音だけが響いていた。何事もなかったかのように晴れた朝はやってきたけれど、この世の終わりを見たかのような姉さんの表情は、きっと生涯忘れられない。
あの時の寂しさを、今でもまだ、僕は引きずっている。だから、必死で柚寿や友達を繋ぎ止めようとしているのだ。僕は、僕が思っている以上に、他人に支えられなければ生きていけない。みんなに囲まれて、幸せを感じるために、僕は今日も明日も、青山瑛太でいなくてはいけない。それなのに、矢桐のお兄さんにはとうとうバレてしまったし、連絡先さえわかればこのまま柚寿や柏野にも簡単に僕の秘密をバラすことができる。また具合が悪くなってきた。
僕は、僕の終わりを確かに感じていた。
「ごめん、翔? 今暇?」
限界だった。住宅街を引き返しながら、僕は翔に電話をかけていた。話を聞いてもらいたかった。お互いを信頼しきっている僕らは、学校も違うから、踏み込んだ話も軽いノリでできるだろう。すぐに出た翔の声を聞いて、安心する。
時刻は午後十時で、翔のバイトがちょうど終わったくらいの時間帯だろうと思う。電話で十分だから、話聞いてくれないかな、と僕は笑いながら言う。すると、電話越しの翔は、急にまじめなトーンになった。
『今どこ? 会えるんなら会おうぜ、瑛太が電話してくるの珍しいし。なんかあった?』
「あー、大したことじゃないんだけど。ちょっと聞いてほしいことあって」
暇だし今から行くわ、と翔が言うから、僕らは急遽、駅で会うことになってしまった。いつだって、すぐに物事を決めてさっさと行動してしまうのは、翔の長所であり短所でもある。僕は、呆れたように笑ってため息を吐いた。
電話を切って、少し歩を早める。嬉しかった。バイトで疲れているのに、僕のために時間を割いてくれる友達がいる、それだけで、いくらか満たされる気がした。
駅は酔っ払いが闊歩していて、柱にもたれ掛って倒れているサラリーマンに、警察が声をかけている。その横を、スーツ姿のOLと、定職に就いていなさそうな派手な髪をした男のカップルが通り過ぎていく。僕はいつも翔と待ち合わせをする、切符売り場の前に立っていた。姉さんから入っている「何時に帰るの?」という連絡を無視して、切符を買っている中学生くらいの女の子を見た。家出少女だろうか。僕だって、遠くに逃げることができたらいいのにな。
人の多い中央口方面からやってきた翔は、直前まで居酒屋でバイトしていたのか、酒の匂いがした。店員と言う立場上飲んではいないだろうけれど、散々すれ違った酔っ払いと同じ匂いを漂わせていて、笑ってしまいそうだった。そんな僕をよそに、黒地に金ラインが入ったジャージ姿で、やはり大量にピアスをつけている翔は、「マック行こうぜ、マック」と僕の肩を叩く。
一人で歩いている酔ったお姉さんに話しかけられたり、女子大生集団に逆ナンパされそうになったりしながら、なんとか駅を出て隣接しているマックに入った。ここもまた世紀末と言った感じで、死んだ目でスマホを見つめる女の人や、パソコンの画面に突っ伏して寝落ちしているサラリーマンがいたりして、ガラガラの店内をよりいっそう哀愁漂うものにしていた。僕らは窓側の席に座り、すぐに運ばれてきたハンバーガーのパッケージを開いた。
久しぶりに、こういったファストフード店に来た。柚寿と居る時は、ファミレスやファストフード店は極力避けていた。金が無い男だと思われたら嫌だし、女の子の好きそうな洋食店や話題のお店を調べるのは結構楽しい。結果として柚寿も喜んでくれるから、自然とこういった店からは足が遠のいていた。懐かしいな、と思いながら、夜中だというのに忙しなく働いている、制服姿の店員を見る。
ダブルチーズバーガーを食べつつ、翔はさっそく切り出した。「聞いてほしい話って、なんだよ」と。
僕は、少し迷った後、言った。
「……僕の家、実は生活保護で。貧乏なんだ、すごく」
消え入りそうな声だった。昔から、僕は都合が悪くなると、相手と目を合わせられないし、普段通り話も出来ない。嘘を吐くのは上手い方だと思っていたのに、これほどまで重大な問題になると、とっさの誤魔化しも出来ない。
きょとんとしている翔に、僕は続ける。全部を話す気はなかったけれど、一度話してしまうと、止まらなくなりそうだ。吐き出すみたいに言葉を述べる僕を、翔はただ見ていた。
「それで、かなり前から、クラスの金持ちの男からカツアゲしてたんだけど、ついにそれがそいつの兄さんにばれちゃってさ」
どうしよう、僕ってこんなダメな奴だったっけ、そう言って、僕は笑う。黙ったままの翔が、ついにそこで口を開いた。怒られるかと思って身構えたけど、彼の言葉は優しかった。
「……そっか、まあ、そういうこともあるよな! 俺だって昔はいじめとかやってたし、瑛太もそういうことくらいするよな!」
まるで当たり前のように言って、翔は笑っている。その言葉に、ほだされてしまったらどれだけ楽だろうか。みんな同じことをやってるから、僕だって矢桐から金を取っても良いし、瀬戸さんを奪っても良いし、それでもなお、柚寿の事が好きだと寝言を言っても良い。とにかく許されたかった僕にとっては、こんなに薄っぺらい言葉でさえも薬になる。衝動的に喋ってしまったが、間違いではなかったのかもしれない。
「あんまり気にすんなって、なんかあったら俺に話してくれていいよ。俺、できるだけ協力するし」
「……ごめん、ありがとう」
「俺と瑛太の仲だろ、いまさら遠慮とかいらないって。まあ、俺も頭悪いから、やりすぎんなよ、くらいのアドバイスしかできないけど」
白い八重歯を見せる翔が、この時は救世主のように思えた。僕がどん底に落ちた時、翔なら、一緒にまた戦ってくれるかもしれない。その確証を得られた気がした。
僕はもう一度礼を言う。僕は最後まで、僕という人間を生き抜こうと思った。そのために犠牲になる矢桐や瀬戸さんの事を考える余裕は、とっくの昔になくしていた。