複雑・ファジー小説

Re: 失墜 ( No.40 )
日時: 2016/09/21 17:08
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)

10 従属ふりったー
 六月。雨で濡れた通学路を辿る。曇っている日は空が低い。この町全体にかかる圧力のようなもやもやに、私は疲れ果てていた。
 渋谷くんと待ち合わせをしていた。瑛太に内緒で来てよと言われた。きっと、なにかサプライズの企画の相談とかなんだろう。誕生日でもないのにな、と思う。すごく偏見だけど、渋谷くんのような派手な人間は、突然のサプライズが大好きだ。周りを盛大に巻き込んでプロポーズしたり、飲食店を全部貸し切ってしまったり、そういう事を平気でする。私としては、普通にやってもらえたらいいんだけど。瑛太もそっち側の人間だったら困るな。そう思いながら、ぼんやりと街を眺めていた。

 「柚寿ちゃん、おまたせー」

 いつも瑛太と待ち合わせをしている時計塔の下。向こう側からやってくる、着崩した学ラン姿の男の子。今日はバイトも無いのか、耳や口元にはピアスが光っている。
 私は手を振る。少し駆け足でやってきた渋谷くんは、ごめん、待ったでしょと八重歯を見せて笑った。恋人同士みたいなやりとりである。

 「とりあえず、どっか店入ろうぜ。柚寿ちゃんにさあ、とっておきの話があるんだよ」
 「……え、なんだろー」

 渋谷くんは、瑛太よりも五センチくらい身長が高い。きっと、百八十センチくらいだろう。私が百六十五だから、ちょうどいい身長差である。私の視線も、心なしか上にあがる。渋谷くんはモデルなだけあって顔もかっこいいから、すれ違う女子たちも絶対に彼をちらっと見る。そして隣の私を見て、何事もなかったかのように目を逸らすのだ。そんな顔しなくたって、私達は付き合ってないのにな。
 隣に並んで歩いてくれる瑛太とは違って、渋谷くんは少しだけ前を歩く。紅音はそういうところに、愛が無いと感じたのだろうか。そうしているうちに連れていかれた店はマックで、自動ドアが開いたとき、あまりに久しぶりだったから、私は少し笑ってしまいそうになった。やる気の無さそうな店員さんも、赤と黒の制服も、長らく見ていなかった。

 「瑛太はいつも、もっといいお店に連れて行ってくれるんだっけ? いやー、ごめんねマックで。俺は高級店でもマックでも味の違いとか分かんねーけどな」
 「……私も別に、高いお店に行きたいわけじゃないの。公園でしゃべってるだけでも十分楽しいのに」
 「へえ、あいつ、柚寿ちゃんの事なんにもわかってないんだな。……柚寿ちゃんも、あいつの事全然わかってないけどね」
 「……え?」

 窓側の席に向かい合う。ナゲットにバーベキューソースをたっぷりつけて、渋谷くんは不敵な微笑みを浮かべる。グレーの瞳の奥は、新しい悪戯を思いついた子供のように怪しく光っている。
 嫌な予感がした。浮気かな、と悟る。一瞬で張り巡らせた想像だけど、渋谷くんは、他の女の子と一緒にいる瑛太を見たのかもしれない。私は目の前のファンタにストローを差すのも忘れて、渋谷くんに「どういうこと?」と問う。

 「……あいつ、金持ちでもなんでもねえよ。家は生活保護で市営住宅に住んでるから友達も柚寿ちゃんも呼べないし、クラスの陰キャラから奪った金で、柚寿ちゃんにいろいろ買ってあげてたんだって。真面目な話だから、これ」
 「えっ、なにそれ。それって誰?」
 「俺は知らねえけどさ、ヤギリくん、って子じゃない? 前その子と電話してた。いや、ほんと、知らねーけど」

 ナゲットを頬張る渋谷くんと、次の言葉もリアクションも思い浮かばない私。
 正直、浮気よりも最悪だった。今までの瑛太の不可解な点が、渋谷くんの主張で全部つじつまが合うから怖かった。認めたくはないのに、認めざるを得ない。今まで一度も家に入れてくれなかったし、場所すら教えてもらえなかったし、バイトもしていないのにやたら金があるし、私にも沢山物を買ってくれる。全部全部、他人から奪ったお金だった。私は偽りの幸せだけを見せられていた。
 気持ち悪くなってきた。ファンタを飲めそうになかった。

 「……どうしよう、信じたくないけど、信じるしかない気がする」
 「だよな、俺も前からちょっとおかしいと思っててさ。真剣にバイトで稼いでる身の俺から言わせてもらうと、ありえねえんだわ、あーいうのは」

 だからさ、と渋谷くんは、テーブルに頬杖をつく。グレーの瞳が輝く。

 「別れなよ。そんで、俺と付き合お」



 ラブホテルの一番安い部屋で、天井を見つめる。酷いくらいの虚しさしか残らないのは知っていたし、そういうことをする精神状態でもない。だけど、脆くなった私は簡単で、引きずられるようにしてこの部屋のベッドに倒れこんでいた。
 瑛太を信じたいのに、疑う要素しか浮かばない自分が嫌だ。そして、ここまで努力してやっと釣り合っていた恋人の正体があんなのだった自分も嫌だ。私は私が大嫌いだ。どうしてだろう、なんでこうなったんだろう。私は何のために頑張ってきたんだろう。渋谷くんの手頃な相手になる気はないし、不当なお金で飾り立てられて喜びを感じたいわけでもない。いっそのこと消えてしまいたい。だけど、泣きそうな私の肩を抱いて、「あの程度だったんだって思いなよ」と笑う渋谷くんは、すごく嬉しそうだ。

 「あいつも、どーしよもないクズだよなー。彼女一人幸せにできなくてどーすんだよ」
 「……渋谷くんだって、紅音のこと」
 「あんな女、どうでもいいよ」

 真っ白のシーツに、いくつも皺を作ってしまった。
 もう紅音とは正式に別れたんだろう。おめでたいことである。笑う渋谷くんは子供みたいで、また虚しくなった。私もどうでもいい女の一人になってしまった。それを自覚するころには遅くて、ぐちゃぐちゃの感情だけがそこに残っていた。

 「てゆーか、話には聞いてたけどやっぱ柚寿ちゃん上手いよね。瑛太と別れたらさ、真剣に考えてよ、俺とのこと。俺なら絶対幸せにするから」

 頭に手が置かれる。渋谷くんの乾いた笑い声が聞こえる。
 あふれ出る虚無感に耐えられない。頭の中を支配するおかしい電波にやられて、思考すらまともにできない。この人の言っていることは最低で、瑛太も私も同じように最低だ。だから、もういっそ、どこまでも最低でいよう。「考えとくね」と言う私の声は震えていた。渋谷くんはやっぱり嬉しそうだった。
 もう一切信用してはいけない瑛太に電話したくなった。まだ恋人として彼を好きなんだと思うと、苦しかった。