複雑・ファジー小説
- Re: 失墜 ( No.43 )
- 日時: 2016/11/09 03:10
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)
ついに雨が降り出した空を見上げた。灰色の雲と濁った空気と、疲れ切った私。スクールバックから取り出した、ピンクの折り畳み傘を広げる。
これからバイトだからまたね、と渋谷くんは繁華街の方へ消えてしまった。伝えるだけ伝えて、奪うだけ奪って、涼しい顔でいなくなってしまった。ここで寂しいなんて思ってしまうことは、まんまと彼の策略にはまることと同じだけど、それでも瑛太に電話せずにはいられなかった。
駅の中で待ってても良いよ、と電話の向こうで瑛太は言っていたけれど、私は外に一人立っている。そんな気分だった。傘をささずに雨に打たれるのは、意外とすっきりするし、いっそのこと、そうしたかった。これからの事が何も見えない、どうしていいかもわからないまま、良いように扱われている自分に嫌気がさして、全部洗い流したかった。
「……駅の中で待ってて、って言ったのに。風邪ひくよ」
珍しく呆れた顔をした瑛太が、改札の前で傘を閉じようとしている私に言う。私は何も言わずに、通り過ぎる人たちが持っているビニール傘を見ていた。
すべてを知ってしまったからには、聞き出さなくてはいけない。信じたくはないけれど、瑛太が本当に、矢桐くんからお金を奪っていたとしたら、私はどうすれば良いんだろう。渋谷くんの言う通り、別れたほうが良いのか、彼女としてちゃんと更生させてあげればいいのか。生憎私は、自分の事で精一杯だ。完璧な恋人の瑛太と釣り合うために、並々ならぬ投資を自分に対してしてきた訳だけど、その恋人が完璧ではなくなったとき、無理して一緒にいる必要なんてないと感じてしまう自分は軽薄だろうか。
愛なんて、最初から無かったのかもしれない。恋人という、手頃で、周りに自慢できる、自己顕示欲と身体的な寂しさを満たすためだけのアクセサリーが欲しかっただけなのかもしれない。それなら別に、瑛太じゃなくてもいい。私も渋谷くんと同じで、愛とか情とかが薄い人間なんだろう。
「電話してくるなんて、珍しいじゃん。今日はどこ行こっか」
「ファミレスでいいよ。近いし」
ぶっきらぼうな言い方になってしまったかな、と思いつつ顔を上げると、予想通り瑛太は「もしかして、機嫌悪い?」って、にっこり笑って聞いてきた。いつ見ても、端正な顔立ちをしている。透き通るみたいな瞳も、肌も、全体的に色素の薄い髪も、女の子の好きそうなポイントを確実に突いていると思う。どこか中性的な雰囲気は柔らかく、紅音たちが揃って羨むのもわかる。
一年も付き合ったんだから、私だって曲がりなりにも瑛太のことは好きだし、信じてあげたい。デートの時に奢ってくれなくても良いし、高いプレゼントもいらないから、矢桐くんからお金を奪ってるなんて、嘘であってほしい。
「……そんなに言うならファミレスでもいいけど。僕、この近くに良いお店見つけたんだけどな」
「いいってば。お金とか、いつも奢ってもらってばっかりで悪いし」
女の子に出させる方が悪いと思うよ、と瑛太は笑う。結局、適当に入る予定だった駅前のファミレスを通り越し、連れていかれたのは小奇麗な喫茶店だった。それほどお腹は減っていなかったので、コーヒーとショートケーキだけ頼もうとしてメニューを見て、軒並み千円を超えることに愕然とする。さっき行ったマックのアイスコーヒーは百円だったのになと思いながら、雨に濡れた窓ガラスと、色とりどりの傘を差して街を歩く人を見ていた。
「……ねえ、矢桐くんとどんな関係なの?」
なんでもない話をするように切り出した。例えるなら、月九ドラマの行方を予想するみたいな、そんな軽い話のように。でも、それを聞いた瞬間、コーヒーカップを持とうとする瑛太の手が止まったから、やっぱりそうなんだ、と思った。
私は不思議と冷静だった。いちど椅子に座り直して、改めてもう一度聞いてみる。瑛太から説明してほしかった。
「……なんで、そんな事聞くの?」
顔を上げて、大きな瞳がまっすぐ私を見据える。薄く口角を上げるいつもの笑顔が、なんとなく引きつっている。
もはや、腹の探り合いだった。私を最後まで欺こうとしてポーカーフェイスを演じているであろう瑛太と、正体を暴こうと当たり障りのない言葉から攻めていく私。心理戦は苦手だけれど、そうも言っていられない。雨の音が一層大きくなる。
「渋谷くんから聞いたの」
「へえ、あいつ口軽いもんな」
話した僕が馬鹿だったなあ。私から目を逸らして、自嘲するように笑う。認めたようなものだった。信じたくないと最後まで思っていたけれど、それは揺るぎのない事実だった。私も視線を逸らす。続きは聞きたくない。最後の最後まで、渋谷くんが嘘をついていると思いたかった。
「……あのさ、今までごめん。僕、中学校が矢桐と同じだったんだけど、その時から、たまにお金取ったりしてて、まあ、そんな大金でもないし、今後も柚寿には絶対迷惑かけないから。ごめん」
「私じゃなくて、矢桐くんに謝りなよ。高いお店に連れて行ってくれなくても良いし、豪華なプレゼントもいらないから、これからは撮影のギャラを矢桐くんに返すとか、すればいいんじゃないかな」
「……僕んち、生活苦しいから、僕が矢桐から金奪わないと、ご飯も食べられないんだ」
「じゃあなんで、こんな高いお店にばっかり連れていくの? 私、ファミレスでも良いって言ってるし、奢ってくれなくてもお金くらい自分で払えるわ」
「だって、僕に金が無いってみんなにバレたら、」
みんな、僕から離れていくだろ。そう言う声はとても小さく、雨の音に消えていく。口をきゅっと結んで、俯く瑛太を見て、こんな表情もするんだ、と思った。いつも私の前では、柔らかい笑顔を浮かべていたから。私と同じように、瑛太も完璧でいようと必死だったのかもしれない。
だけど、瑛太が取り返しがつかないことをしているのは事実だ。「柚寿に迷惑はかけない」なんて言っておきながら、私はついさっき渋谷くんにほとんど無理矢理抱かれてしまったし、万が一矢桐くんが何かアクションを起こしたら、私にまで被害が及びかねない。恋人のためにここまで親身になれるかと言われると、迷ってしまう。瑛太のやっていることは犯罪だ。それを見て見ぬ振りするのが、恋人かと言われたら、絶対に違うだろう。それはわかっているのに、目の前でそんな顔をされると、私は躊躇ってしまう。一年も付き合った大切な恋人だ。悲しそうにしているのを見ると、優しく抱きしめてあげたくなる。
どうにも救えない、私には手の施しようのない瑛太とは、これで最後にしようと決めた。笑い合うのは、恋人でいるのは、今日で最後だ。だから、今だけは私も共犯でいさせてほしい。
「……私の家で話そうよ。とりあえず、落ち着いて? 私は、離れないから」
子供に話しかけるように、私は笑う。離れないなんて嘘だけど、少し安心したような表情になる瑛太を見ると、私の心配もいくらかは和らぐ。
初めて、お代を割り勘で払った。「これからは、こうしよっか」と照れたように笑う瑛太に、これからなんかないよ、今日で最後だよとは、まだ言えなかった。
- Re: 失墜 ( No.44 )
- 日時: 2016/09/22 03:28
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
玄関で傘に付いた雨粒を落としながら、私は家に誰も居ないことを確認して、ドアの向こうにいる瑛太にオッケーサインを出した。湿気が多いなあ、と感じながら靴を脱ぎ、揃えて、先に階段を登る。私の部屋は二階の一番廊下側で、そういえば、テスト勉強用のテキストが机に上がったままだった事を思い出す。もうこれで最後だし、どうでもいいんだけど。
後ろから、階段を登る音が聞こえてくる。私はドアを開けて部屋に入り、荷物を投げてベットに座り込んだ。外の雨は強くなるばかりで、窓を閉めて出かけて正解だったと考える。
私は自分の事で精一杯だから、お母さんの家事を手伝うなんてことは、生まれてこの方したことが無い。だから、外に干してある、雨で濡れていくばかりのタオルとか、衣類とかを見ても、どうにもできない。勉強ができていい大学に入ったとしても、これじゃあいつまでたっても親不孝な娘のままだ。
少しは手伝ってあげたいけれど、そんな時間があったら、英単語の一つでも覚えていたほうが、なんて思ってしまう私は、時々何と戦っているのかわからなくなる。こんなことが起きると、特にそう思う。私がいろんなものを捨ててまでしてきた努力は、一体誰のためだったんだろう。
「……柚寿」
入り口で立ったままの瑛太が、怪訝そうに私を見ている。私はいつもみたいに微笑んで、「どうしたの」と言う。
なんでもないよって、つられるみたいに笑って瑛太は、私の隣に座る。二人で一つの傘に入ってきたから、少し濡れてしまった右側の髪に手を伸ばす。甘い香りがする。香水でもなくて、制汗剤でもないその匂いにくらくらする。
ごめんね、と小さく呟くその声は、誰も居ない私の部屋にはちゃんと響いた。脆くて、すぐに崩れてしまいそうだった。支えるように抱きしめる。これからの事に責任はとれないけれど、今だけでもこうしてあげるのが、恋人としてしてあげられることだと思った。今だけは、安心して笑っていてほしかった。
「今日は、何もしなくていいから、ずっとこうしてよっか」
「……うん。ありがとう」
私の体にもたれかかって、いつもより強く抱きしめる。瑛太の表情は見えないけれど、きっと私よりも追いつめられていることは確かだろう。背中を撫でながら、私は「気付いてあげられなくて、ごめん」と言葉をかける。首を振る瑛太を窘めて、冷たい手を握る。雨に濡れて、体も随分冷えてしまった。
落ち着くまでいくらでも待とうと思っていた。手を握ったまま、どんな話でも聞いてあげるつもりだった。楽になるまでこのままでいいよ、と言うと、顔も上げずに弱々しく頷かれる。こんな瑛太を初めて見た。本当は、すごく弱くて、簡単に壊れてしまうんだな、と今更知った。
ここで情に流されてしまえたら、私は瑛太を許して、このままずっと抱きしめていただろう。本気で愛する人なら、相手がどこまで失墜したとしても、一緒に地獄までついていける。だけど、強欲な私は、今までの努力が無駄になってしまった気がして仕方ないのだ。高級店でのディナーも高いプレゼントもいらないけれど、人から奪った金が無いと生きていけないような人も嫌だ。手に入れるのは普通の幸せで良かったのに、私が死ぬ気で頑張っても、普通にすらなれない。
ベッドの上には、瑛太から貰ったぬいぐるみがたくさん置いてある。苦手だと言っていたユーフォ—キャッチャーで取ってくれたうさぎも、誕生日に家まで持ってきてくれた大きなくまも、白いシーツに並んで座っている。壁にかかったハンガーの、お気に入りのピンクのワンピースだって、瑛太から貰ったものだった。これらは全部、瑛太じゃなくて、矢桐くんのお金で買ったものだ。私が持っていたらいけないものばかりである。正気になれと自分に言い聞かせる。私と瑛太は立派な共犯だった。抱きしめるその腕を、優しく振りほどいた。
不安げに瑛太は私を見る。瞳の奥の光が揺らぐ。これで本当に、最後の最後。私は小さく呟いて、そのまま瑛太にキスをした。
触れるだけのキスなんて、いつぶりだろうか。潤んだ瞳は、私を見つめたままだった。そして、何かに縋るように、助けを求めるように、吐き出した。
「柚寿は、僕から離れないよね。ずっと一緒にいてくれるよね」
ざあざあと、外の雨だけが強くなる。私の心の炎は消さなければいけないのに、そんな風に言われると、揺らいでしまう。だけど私は、私と決別がしたい。繋いだ手を離す。もう触れられない。触れてはいけない。笑顔を作って、言葉を並べた。
「ちょっと、考えさせてほしい」
□
「……久しぶりじゃん。どうしたんだよ、こんな天気の日にわざわざ来ることないだろ」
テスト勉強をする気がなかったので、すごく久しぶりに、幼馴染の中川椿の家に来てしまった。こんな日に来られても迷惑だってことは解っているけれど、聞いてほしいことが山ほどあった。椿は優しいから、嫌そうにしながらも、タオルを渡してくれる。その優しさにいつも、頼りたくなってしまう。
私は小学校も中学校も椿と一緒だったし、女の子の友達がいなかったから、ほとんどの時間を椿と過ごしていた。だから、学校の友達には話せないことも、なんでも話せる気がしたし、今回の瑛太の件も、こっそり聞いてもらおうと思った。あまりにも事が大きすぎて、紅音達には相談できない。ひとりで抱えるのは、とても辛かった。
傘をさしていたのに、それなりに濡れてしまった自分にやっと気付く。白いタオルで肌と髪を拭きながら、帰りは面倒だなとぼんやり思う。いっそ、今日は家に帰らなくてもいいや。なんて思ってしまうくらい、私は上手に思考が出来なくなっていた。
「あ、借りてた漫画。今度持ってくるね」
「まーた忘れたのかよ、アホ柚寿。俺全部読んだし、別にいいけど」
男の子の部屋に上がったことはない。椿の部屋を除いて。今思うと、当たり前である。生活保護で暮らしているという瑛太は、自分の家が貧乏だという事を何があっても知られたくなかったのだから、私を家に上げてくれる訳が無かった。
椿の部屋は、物が多いから狭く感じる。パイプのベッドの上には読みかけの漫画が置いてあるし、テーブルには食べかけのお菓子が広げてある。ふと目に留まった小型のダンベルを見て、「鍛えてんの?」なんて、どうでもいい話を振ると、そんなんじゃねえよと返される。瑛太もよく渋谷くんとジムに行くらしいから、男の子も色々と大変なんだと思う。体系を維持するために努力をするのは、女の子だけではない。
「んで、今日はどうした? エータくんとケンカしたんだろ。なんとなくそんな感じする」
「……ケンカっていうか、もう別れるんだと思う」
あはは、と私は笑う。椿は驚きもせずに、床に落ちた雑誌を拾い上げる。「そんな事だろうと思った」と、瑛太よりも低い声が部屋にこぼれて消える。
細かい事情は話せなかった。だけど、私が瑛太のためにしてきた努力と、空白になりそうなこれまでの一年間を思うと、急に空しくなってきて、私はぼろぼろに泣いていた。 私はこんなふうになりたかったんじゃない。憔悴しきった私に漬け込んで、ホテルに連れ込んだ渋谷くんも、すごく馬鹿だった瑛太も、何も知らなかった私も、みんなみんな、最低だ。消えてしまいたい。言葉になんてなりきれない思いをそのまま吐き出す。嗚咽が、雨の音に絡まる。
椿はついに、私に何があったのかを悟ったのか、作業を止めて私の隣に座った。そして、ぽん、と頭を叩く。
「……だから、柚寿に恋愛とか向いてないって言っただろ。めんどくせえな」
視界が曇って何も見えない。声をあげて泣く私の隣に、椿はずっと居た。まるで、さっきの瑛太と私みたいだったけれど、体を預けられなかったのは、やっぱり、私たちは幼馴染という関係だったから。今横に居るのが、渋谷くんみたいな適当な男だったら、理由を付けて抱かれていただろうし、私も寂しさを無理に埋めようとしていた。椿はそれさえできないのに、心は不思議と楽になる。次付き合うとしたらこんな人が良いけれど、しばらくは恋愛なんかしたくもない。
しばらく、私たちはそうしていた。雨の音だけになってしまった部屋で、何にも寄りかかれず、行き場のない思いをぶつける宛てを必死で探していた。