複雑・ファジー小説

Re: 失墜 ( No.50 )
日時: 2016/10/04 02:28
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: 0K8YLkgA)
参照: 大ファンなので第四次川谷絵音ショックを受けています

『はじめまして罪と罰よ』
 僕はいつか、青山瑛太を殺すつもりだ。
 酷く澱んだ六月の空が間近に迫り、今年は梅雨明けも遅いのか、ぽつりぽつりと雨が頬を打つ。そろそろ受験というものを本格的に考えなければいけない僕らの気は重く、ここから見上げる二階の図書室では、何人かの生徒が教科書とノートを開いていた。その静寂の何メートルか下にいる僕らを、風に揺れる木々さえ嗤っている。
 壁際に倒れ込む僕と、道端のゴミを見るような目線を僕に向ける青山。ポケットから財布を取り出し、渡すと、更につまらなそうな顔をされる。ケンカが弱い青山は、更に弱い僕を痛めつけて遊びたいらしい。

 「……三千かよ、すっくねえ」

 舌打ちと、とすん、と僕の財布がコンクリートに落ちる音がする。破れた穴から落ちた十円が転がっていく。青山は野口英世を三枚学ランのポケットに押し込んで、次は五千だからなと言って、ガムをぐっと噛んで、端正な顔をゆがめる。
 まさか誰も、僕らがこんなことをしているとは思わないだろう。青山は学年でも指折りに勉強が出来て、つい最近までテニス部の副部長を務め、中体連ではダブルスの県大会まで勝ち進み、さらには生徒会からも声を掛けられているという、正真正銘の優等生だ。対して僕は、勉強はそれなりにできるけれど、あとはてんでだめで、友達もろくに居ないから、暇とストレスを持て余した優等生のサンドバック兼財布になっている。
 最初に呼び出されたのは、今年の五月の事だった。中体連に向けて練習している奴らの声がうるさくて、帰宅部の僕は放課と共に自転車に乗って速攻家に帰るような生活を送っていた。
 忘れもしない五月十六日、酷いくらい空は晴れていた。四時間目が終わった後、前の席の青山が、「放課後体育館の裏に来てよ」と笑いかけたことを鮮明に覚えている。それが、僕と青山の初めての会話だったかもしれない。教室の隅の日陰で涼んでいる僕と、眩しい太陽の下で友達と笑い合っている青山は、それほどまでに関わりが無かった。話しかけられたとき、なんとなく、嫌な予感はしていた。青山はいつだってクラスの真ん中に居る奴で、僕はそもそもそういった男が嫌いだ。「矢桐」と僕を呼んだ時も、目を逸らしたくてしょうがなくて、だけど無理矢理合わせた瞳は、大嫌いな僕の兄にどこか似ていた。
 終わったなあ、と思った。僕が崩れていく音がした。これまでも僕は、無意識下で「搾取される側」の人間だったけれど、それをついにはっきりと認めさせられた気がした。青山は、その辺の友達が多い男とは少し違う。薄々とはわかっていた。いくら女の子に好かれても、テストの点数が良くてみんなの前で先生に褒められても、青山が浮かべる笑顔は全部、心からの物には見えなかったし、むしろ、楽しそうに笑っている奴らをどこか冷めた目で見ながら、「お前らはそんなので満足してるんだな」なんて言いたげにしているような、そんな印象があった。
 心の中で、僕は青山を怖がっていたのかもしれない。放課後、矢桐の家って金持ちなんだよね、と切り出した時の青山は、五月の爽やかな空の下、真っ直ぐで、そして狂った瞳をしていた。

 「僕、彼女できたんだ。高校生の人なんだけどさ、デート代足りないから、貸してくれない?」

 千円でいいからさあ、と青山は笑う。手の込んだことをするな、と思った。周りからは上手く隠れられて、上はちょうど誰も居ない理科準備室で、逃げようにも後ろにあるのは壁。青山は、ずっと前からこの場所を探して、完全犯罪を成し遂げるつもりだったらしい。もちろん、最初は断った。だけど、お前の家は金持ちなんだろ、と迫られた時の、今まで見たことのなかった人間の顔に、僕はなんだか圧倒されてしまって、気付けば財布を差し出していた。その時の僕の所持金は五千と少しだったと思うけれど、そのうちの一枚を引き抜いて、お札だ、と呟いた青山の恍惚の表情は、たぶんずっと忘れられない。今まで誰にも見せなかったであろう、心から満足したような顔だった。学年で噂になるくらいの美少年が、白い肌を上気させて、薄い唇をだらしなく開いて笑っている。この異様な光景は、僕に恐怖しか植えつけなかった。そして、千円札を広げて、本当に、心から嬉しそうにしている青山を見て、うっすらと悟ってしまった。
 後で聞いた話だが、僕が思っていた以上に青山は貧乏だった。父親は生まれた時にもういなくて、病気持ちの母親はラブホテルの清掃のパートをしているけれど、給料と呼べる額すら手にできなくて、さらに高校生の姉も居て、生活保護で暮らしているらしい。想像もつかない話だけど、全部本当だ。そうでもないと、千円札を見て宝くじが当たった人みたいに喜んだりはしない。
 ありがとう、これで、今度は嫌われないで済むよ。青山は、ぱっといつもの作り笑いみたいな顔に戻って、僕に言った。この時点でもう、この千円札は帰ってこないし、これからもたかられるんだ、ということを、ぼんやりと感じていた。僕も青山も、もう戻れない。大切そうに千円札を財布に入れる青山を見て、可哀想だなと思ってしまう僕を、可哀想はどっちだよ、と別の僕が叱る。
 人の多い方へ消えていく青山を見つめながら、僕はそんな事だけを延々と思っていた。

 「神様も不公平だよなあ。矢桐なんかが金持ってたところで、ゲーム買って終わりだろ。僕なら、周りの人を喜ばせてあげられるのに。この金も、最初から僕の物だったら、矢桐も余計に殴られたりしなくて済んだのに」

 六月。あの日から、青山は定期的に僕を呼んでは、金をせびるようになった。僕も馬鹿ではないから、だんだん大きくなる欲求額に、「それは無理だ」と言い返すようになった。すると、それまでは申し訳なさそうにしていたのが嘘みたいに、「僕は追い詰められてるんだよ」と、怖い顔で迫って、それでも拒否すると殴られる。青山はケンカはそんなに強くなさそうだけど、でもやっぱり痛かった。
 倒れ込んだ僕に、最初からこうすればいいのにと冷たく言い放ち、財布を取り上げる青山は、いつも他人のせいにしたがる。自分が貧乏なのも、僕から金を取るのも、仕方のないことだと思っているらしい。馬鹿みたいだ。僕は、もう青山が大嫌いだった。電話が来ると吐き気がするし、教室ですべてを隠して笑う姿も見ていられなかった。でも、僕から金を取るようになってから、青山の人生は順風満帆そのもので、友達と遊びに行くことも増えたし、年上の彼女とも仲良くしているみたいだった。僕はさらに腹が立って、受験勉強どころでは無かった。
 だけど、卒業さえしてしまえば、僕と青山は会う事もなくなる。幸いなことに僕らは三年生だった。このころの僕と青山は大体成績が同じくらいだったけれど、あいつの家じゃ到底いけないであろう私立高校に入ってしまえば、同じ学校になるという事はないだろう。特に勉強する必要もない中堅どころの私立高校を希望して、僕は青山から解放されるのを待っていた。高校生活に夢も見ていた。気の合う友達が二、三人くらいできて、一年生の時に少しだけ気になっていた女の子と、二年生の夏に付き合って、みたいな妄想もした。というか、それだけが生きがいだった気がする。青山に金を取られるようになってからは趣味のゲームも買えなくなったし、学校帰りにコンビニで肉まんを買う些細なぜいたくさえ厳しくなった。でもこんな生活も、ちゃんと終わる。金を渡すたびに、「僕はお前なんかとは違って、幸せになってやる」と心の中で呟いていた。

 そんなある日、青山は初めて、土曜日に僕を呼んだ。日曜にまたデートがあって、その金が足りないらしい。中学生の彼氏に金を出させるなんて、彼女の方もなかなかに狂っていると思うのだが、しょせん青山の彼女だ、そいつも同等のクズなんだろう。しかし、中学生のうちから変な女と付き合っていると、もう少しすると本気でラブドールとかと付き合いだしそうで怖いな。いっそ、そうでもしてくれた方が、金もかからなくていいかもしれない。向こう側のバス停からやってきた青山を見ながら、僕はそんな事を考えていた。
 いつものように金を渡し、そのまま帰りたかったのだけれど、青山は唐突に、駅までの道を歩きながらこんな話を振ってきた。

 「矢桐って、高校どこ受けるの?」
 「……え、高校? 桜鳴塾のつもり」

 青山が日常会話を振ってくるのはこれが初めてだったので、動転して咄嗟の嘘も出なかった。
 へえ、そっか、私立なんだ。金持ちだしね、と青山は言い聞かせるみたいに言う。その調子には、少しの焦りも含まれていた。そして、帰り際に、とても不安定な瞳の色を見せて、こう言ったのだ。

 「僕は、矢桐と同じ高校に行くつもりだから」

 殺すしかないな、と、この時初めて思った。僕の描いていた高校生活は崩れ去り、青山瑛太はこれからも僕に近くて遠いところで笑いつづける。その現実を受け止めた瞬間、僕は居てもたってもいられなくて、部屋にあったカッターを取り出していた。要求の金額はどんどん上がっていく。千円から、二千になって、三千になって、ついに五千になる。僕の家だって無限に金があるわけではない。こんな時は、大人に告げ口をしたら良いんだろうけれど、その時の僕に、もう理性はなかった。
 あいつを殺したい。僕のこの手だけで、突き落としたい。そうでもしないと、あいつは一生ついてくる。僕の大嫌いな青山の息の根をこの手で止められたら、どれだけ気持ちいいだろう。そんな感情だけが僕を支配して、他の事をなんにも考えられなくなる。あいつを殺したい。殺さなきゃいけない。僕がこの日々に終止符を打たないといけない。カッターを学ランのポケットに押し込んだ。幸せな高校生活の妄想は、大嫌いな男をずたずたに引き裂く妄想に変わった。
 今日も明日も、全部を隠して青山は笑う。僕は金を渡す。その裏で、何を考えているかも知らずに。ポケットの中のカッターを、いつか取り出せる日を夢見ていた。
 さあ、僕らはすでに共犯だ。気のすむまで、馬鹿げた駆け引きを続けよう。