複雑・ファジー小説

Re: 失墜 ( No.54 )
日時: 2016/10/15 02:11
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)

13 愛の逆流
 そういえば、柚寿とファミレスに来るのは初めてだな、と今さら思う。
 マックとか、チェーン店のファミレスとか、そういうお店に彼女を連れていくのは恥ずかしいことだと思っていた僕は、金も無いくせに、高めのレストランばかり選んでいた。実際のところ、このハンバーグと、あの有名店のハンバーグの違いは、よくわからない。きっと柚寿もそうなんだろうな、と思いつつ、これまで無駄になった金の事を考えては、そんな金があれば何ができただろうかと考える。自分のくだらない見得のために、背伸びしすぎてしまった。

 「最初から、ファミレスで良いって言ったじゃない。お金ないんだったら、無いって言えばいいのに」
 「……ごめん」

 時刻は午後十時過ぎ、男物のだらしない服を着ている柚寿は、疲れた顔で僕に悪態を吐く。いつも僕に会う時は綺麗に化粧をして、髪も天使の輪ができるくらい綺麗にセットしてくるのに、今日は唇も渇いたままで、髪も無造作に結ばれているだけだ。こうしていると、あんなに美人だ美人だと褒めたたえていた柚寿も、人並みくらいの女の子に見えてくる。いや、彼女からしたら、僕なんて並以下なんだろうけど。今まで優しく微笑んでくれていた柚寿が、こうやって明らかな敵意を僕に見せてきたことが、それを苦しいくらいに証明していた。
 僕はブラックコーヒーを飲めるフリをするのをやめた。たっぷりミルクの入ったカフェオレを見て柚寿は、「歯が溶けそうな飲み物」と形容して、ウーロン茶なんて可愛げのかけらもない飲み物をストローで啜っている。女の子は甘いものが好きと無条件で信じ込んでいた僕は、これまで柚寿の事を何も知らずに、甘いものばかりを勧めていた。嫌いなら嫌いって言えばいいのに。僕も柚寿も、嘘だらけの関係だったみたいだ。

 「本当は、甘いものも好きじゃなかったんだろ」
 「……甘いものが好きな、可愛い彼女でいたかったの」

 でも、それももうおしまい。柚寿はピザに手を伸ばす。僕だって、完璧な彼氏でいたかった。そう言うけれど、柚寿から帰ってくる言葉はなかった。だから、諦めてハンバーグをナイフで切り分ける作業に戻る。しばらくして、ゆっくりピザを飲み込んだ後、やっと柚寿は口を開いた。

 「……だめだね、私達。お互い嘘ばっかりついて、馬鹿みたい」
 「……」
 「別れよ、なんか、この機会に全部リセットしたほうが、私にとっても瑛太にとっても、良い気がする」

 疲れ果てた顔の柚寿が、諦めたように言う。僕の手は停止し、あまりにあっけなく告げられた別れの言葉が、沈黙に残る。
 嘘だろ、と言いたくなるのを抑える。一年付き合ってきて、僕は柚寿に、人の金とはいえ大金をはたいたのに、こんなにも簡単に関係が崩れるのが信じられなかった。昔付き合った先輩は、僕が十分にお金を持っていなかったから上手くいかなかったけれど、今度は完璧だったはずなのに。柚寿は真面目すぎるのだ。別に、矢桐の金で僕が遊んでいてもいいじゃないか。矢桐なんかより、僕の方がちゃんとお金を使えるのに。僕が誰よりも柚寿を幸せにしてあげられるのに。

 「いや、気が早すぎだって。僕、柚寿には迷惑かけてないし、矢桐にも、金返すし……」
 「迷惑とかじゃなくて、モラル的にもう駄目だなって思ったの。しかも、ばっちり私にも迷惑かかってるわ、この前も、渋谷くんと会ったんだけど、瑛太のことで弱み握られて、抱かれちゃったんだよ」
 「……え? なんだよ、それ」

 柚寿は冗談を言うタイプではない。少なくとも、こういう時には。全身の力が抜けるような、ひどい感覚に陥る。翔が僕を嘲笑っているような気がして、飲み込んだばかりのハンバーグを吐いてしまいそうになる。
 翔に話したのが間違いだったと今さら気付いた。あの時翔に話していなかったら、いや、その前に矢桐のお兄さんと会って気持ちを不安定にさせられていなかったら、そもそも、矢桐から金を取っていなければ、僕はこんなことにはならなかった。ついに気持ち悪さが限界に達して、手を付けていなかった水に手を伸ばす。僕は、僕の所有物を盗られるのが一番嫌いだ。「柚寿ちゃんは可愛くて美人で羨ましいなあ」と会うたびに言っていた翔は、初めからこのタイミングを虎視眈々と狙っていたのではないだろうか。気持ち悪い。中途半端に切られたハンバーグ、隣の席の煙草の匂い、全部全部気持ち悪くて、本気で吐きそうになって、そんな僕を、柚寿はただ黙って見ていた。ね、別れたほうが良いでしょ? なんて、そんなことを言いたげに。

 「……渋谷くんも、瑛太がそんな人だって、実は見抜いてたんじゃないかな。私、瑛太とすごく似てるからわかるよ。本当に信頼できる友達は、実はいないんだよね」
 「なんで、そんなこと」

 意味のない言葉ばかり、しどろもどろになって吐き出す僕は、もう、誰なのかがわからない。柚寿の前では必死に取り繕ってきた僕が、どんどん崩れていく。これが最後だ。柚寿はもう、僕のもとへは帰らない。翔に汚された柚寿を上書きしたいといくら願ったって、もう戻らない。受け入れなければいけないのに、この期に及んで、僕は柚寿を繋ぐ言葉を探している。もう別れてしまうのなら、せめて最後に一度だけ、僕のものだという証を付けられたら。最低だとはわかっていても、こんなことばかり考えてしまう。僕は柚寿の何が好きで、柚寿は僕の何が好きだったんだろう。こんなに簡単に恋人に別れを告げて、そのピザを全部食べたらすぐにでも立ち去ろうとしている目の前の女は、サイボーグか何かなのかもしれない。人間の情と言うものを少しも感じさせないで言う、「好きだったのになあ」という言葉が棒読みに聞こえてしまう。

 「……帰るね。お金、払っとくから」

 フォークをテーブルに置いて、柚寿は伝票を持って立ち上がる。僕は咄嗟に立ち上がって、その腕を掴む。折れてしまいそうなほど細い腕から伝わる体温は恐ろしく低かった。

 「待ってよ、柚寿」
 「もう柚寿じゃないでしょ、青山くん」

 最後にそう残して、僕の恋人だった女の子は、優しく腕を振りほどいて、ファミレスのレジへ消えていった。
 隣のテーブルに居た大学生の男女が、ちらちらとこっちを見ては、小声で何かを話している。中途半端に残っているピザとハンバーグ、無くなった伝票、僕は、ファミレスで惨めに取り残されて、これからいったいどうすればいいんだろう。ついに本気で具合が悪くなってきて、頭が痛くなってきた。手に残っているのは、柚寿の腕の感触だけで、僕はもう彼女に触れられないのかと思うとやるせなくなる。
 柚寿は、もっと僕の事が好きなのかと思っていた。こんなとき、一緒に再出発しようと言ってくれるような子だと思っていたのだ。虚しいなあ、と心の中でつぶやいたところで、何も満たされない。スマホの充電はもう切れかけで、平然と入っている友達からの連絡も無視して、電源を切った。このまま朝までぼーっとしたかった。外の光が、どんどん目に痛くなってくる。深夜十一時のだらしない空気の中で、そういえば柚寿が着ていたシャツは僕のだったけど、返されるのかなあとか、なんの解決にもならない事ばかり考えていた。
 

Re: 失墜 ( No.55 )
日時: 2016/10/17 02:20
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)

 僕は、僕が思っていたよりも心も体も弱かったみたいで、次の日目覚めたときに襲われた全身の気だるさにも、負けてしまいそうだった。今日から柚寿はあの時計塔に居ない。アイデンティティーだった一部が無くなるって、こんなことだったんだと今になって実感が湧いてきた。そういえば、今日からテストだったけど、結局あまり勉強も出来なかったな、二週間前から勉強をしていた柚寿を、少しは見習うべきだったのかもしれないな、と、何をしても柚寿の事ばかり考えてしまう。
 次の席替えに、今回のテストが関係するとしたら、僕は窓際の席ではいられなくなるだろう。完璧な僕は、確実に崩れてきていた。まだ寝ている姉さんを起こさないようにと配慮するのも忘れて、荒々しくドアを開け、今やったって何の対策にもならない参考書片手に歩き出す。晴天の下、僕の事情など知りもせず、今日がはじまった。

 「おはよう」
 「……おはよ」

 最近一緒に学校来ないよな、と話しかけてくる柏野をかわして、僕は前の席の柚寿に挨拶をした。柚寿は教科書から少しも視線をずらさなかった。挨拶くらい笑顔で返してくれてもいいのにな。
 柚寿は、最初から僕の事なんか好きじゃなかったのかと思ってしまう程冷静だった。きっとこのテストでも、いつも通り高得点を取ってしまうんだろう。情に欠けている女である。僕がこんなに憔悴しているというのに、柚寿は涼しい顔で座っていて、今日の放課後も、相変わらず酷い顔をしている戸羽さん達とご飯でも食べに行くんだろう。そこで、実は瑛太と別れたんだ、と話して、僕が今まで隠し通していたことを全部バラして、それをネタにして笑うんだ。明日には全員に広まっているのかもしれない。そう考えると、参考書の文字が、一つも頭に入らなかった。
 僕は、柚寿のことを自己欲求を満たすためのものだと考えていたのかもしれない。柚寿がテストに異様な執着を持っていて、今も最後の追い込みをしているのは知っていたけれど、僕は最後まで、自分の身の方が可愛い最低な奴だった。夏服に変わった柚寿の、細い肩を叩く。長くて真っ直ぐな髪からは、甘いシャンプーの匂いがする。僕は、もう笑顔も作れなかった。心底迷惑そうな顔でこっちを向く元恋人に、これから命乞いみたいなことをする。どれだけかっこ悪くて情けないかは、僕が一番分かっている。

 「柚寿。お願い、僕の事、バラさないで欲しいんだけど」
 「……言わないよ。そんな事話してもつまんないし、同格に見られちゃったら嫌だし」

 教室の喧噪の中で、尖ったナイフを向けられているような感覚。柚寿は、僕と付き合っていたことなんて消し去ってしまいたいみたいだ。「バラしてやる」と言われるよりはマシだったけど、心は少しも晴れない。柚寿だって、完璧な彼氏が欲しかっただけじゃないか。僕より頭も悪いくせに、運動もバレー以外はパッとしないくせに、無駄にいろいろ頑張って、周りから評価されたがっている、本当は何も持っていない空っぽな人間のくせに。
 でも、もし僕がそれに気づいていて、「あんまり無理しなくていいよ」と言えたら。柚寿も僕の事情を察していて、ちゃんと受け入れてくれたら、上手くいっていたのかな。そんなことを考えてしまうほどには情は残っていたし、そもそも完璧な人間など居ないのだから、お互いを過信しすぎてしまったのが良くないのだ。すっと前に向き直って勉強を続ける柚寿を見ながら、そんなことをぼんやりと思う。
 矢桐の方を見ると、カロリーメイトを食べながら問題集とにらめっこしていて、まるで僕だけが取り残されたまま、時間がたっていくようだった。
 参考書で口元を隠して、死にたいなあ、なんて呟いてみる。柚寿はこれだし、テストもだめだし、いつ秘密がバレるかわからないし、僕にはもう背負いきれそうにない。なんで、世界はこんなに僕に冷たいんだろう。こんなに一気に突き落とすこともないのにな。



 テストは惨敗で、自己採点の点数は、隣でソーダを飲んでいる矢桐にすらも及ばなかった。僕は今まで、自分の頭の出来は人並み以上だと思っていたけれど、自頭で勝負してみても全然ダメだった。明日の科目は頑張らないとなあ、なんて絵空事を描いても、家に帰ったら柚寿や僕の社会的立場の事で頭がいっぱいになってまったく進まないのは、もうわかりきっていた。
 翔の事は親友だと思っていたけれど、あいつは簡単に裏切った。最初から柚寿が目的だったのか、僕はしょせん、柚寿に近付くための手段だったのだろうか。遊んだ時の事とか、パーティーを抜けたこととか、楽しい思い出ばかり浮かんできて、嫌いにはなれないのに、生理的な嫌悪には苛まれて、もう翔とは仲良くできないだろうな、と思う。もう僕がいっさいの飾りを無視して本音で語れる人間は、矢桐くらいになってしまった。僕って、友達いなかったんだなあ。
 公園のブランコに乗るのは何年ぶりだろうか。隣の矢桐は、「僕ブランコで乗り物酔いするから」とかなんとか言って、微動だにせずソーダを飲んでいるけれど、僕はなんだかむしゃくしゃして、さっきまで年甲斐もなくゆらゆら揺れていた。団地の公園にブランコはないから、小さいころの僕は公園にブランコを見るたびに、姉さんに怒られるまで乗っていたっけ。

 「……別れたんだっけ? ご愁傷さま」
 「……うん」

 言葉を交わしたのはそれっきりで、沈黙が流れる。テストが終わったのは十二時だから、まだ小学生すらいない時間帯だ。誰も居ない公園で、僕らは時間を潰している。明日もテストはあるけれど、矢桐が帰ろうとしないのは、きっと僕に言いたいことがあるんだろう。そう思っていた矢先に、「僕も失恋したんだ」と口を開いた矢桐を見て、ああ、ビンゴだな、と心の中で小さく呟いた。

 「……瀬戸さんは、お前の事が好きみたいだ」
 「……ごめん」
 「お前なんか、ただのクズなのに、瀬戸さんは青山が良いって言って、僕に笑うんだ。お前の事だいっきらいなのにさ、瀬戸さんがあんなに嬉しそうにお前のことを話して笑うから、僕は」

 矢桐が立ち上がる。ブランコが揺れる。泣きそうな顔を見上げる。ポケットから乱暴に取り出された小さなものが、僕に思いっきり投げつけられる。それは風鈴みたいな涼しい音を立てて、黒いコンクリートに転がった。

 「青山なんか、死ねばいいのに」

 そう言い放って矢桐は、目元を両手で思いっきり抑えて、嗚咽をこぼしはじめた。僕が返す言葉もなかった。
 僕は、矢桐のこんな反応が見たくて瀬戸さんに手を出したはずだったのに、状況が状況だから、つられてしまいそうになって本末転倒である。泣き出してしまった矢桐から目を逸らして拾い上げる、無様に転がっているピンクの物体は、僕が柚寿にプレゼントしたストラップだった。

 「瀬戸さんさあ、お前の事が好きで、小南さんっていう彼女がいても好きで、自分の物にしたかったから、小南さんのストラップ盗んじゃったんだ。で、罪悪感に耐えきれなくなって、僕に相談してきたんだ。協力しない訳ないだろ」

 そんなことを、嗚咽交じりに矢桐は吐き出す。そして、ふざけんな、死ね、と叫ぶみたいに言い散らかして、それでも目元は抑えたままで。僕はどうすることもできなくて、ごめんとも言えなくて、汚れたストラップを見つめていた。
 青山なんか死ね、僕が殺す、小南さんもレイプして埋めてやる、僕には瀬戸さんしかいなかったんだ、それなのに、こんな奴に惚れるなんて、と矢桐は、ぼろぼろ泣きながら喚いている。しょうがないから、「落ち着けよ」って言って、ストラップを投げ捨てて、しゃがみ込んでしまった矢桐の背中をさする。僕の手を払いのける矢桐の言っていることはめちゃくちゃで、今の僕の頭の中に、とてもよく似ていた。

Re: 失墜 ( No.56 )
日時: 2016/10/20 00:23
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)

 矢桐にかける言葉を探していた。背中から伝わる体温は酷く熱くて、あの公園で酒を飲んだときみたいだった。気が動転したとき、体内の温度がぐっと上がったり下がったりするような感覚を覚えることがある。今の矢桐はまさしくそれで、僕はそれなりに心配してるっていうのに、矢桐はこっちを見もせず顔を伏せたまま、時々鼻をすするだけだった。
 午後一時を回り、母親と手を繋いで散歩をしている小さな女の子が、不思議そうにこっちを見ている。
 そろそろ痺れを切らしてきたころ、矢桐は鞄を手繰り寄せて立ち上がり、「帰る」と一言だけ僕に言い放ち、乱暴な手つきで目元を拭って、そのまま背を向けて歩き出してしまった。一瞬だけ合った目は赤く腫れていて、僕が泣かせたんだと思うと、とてもやりきれなかった。女の子を泣かせないのは得意だったし、柚寿は人間離れして涙を見せない子だったから、生身の人間が目の前で泣いている、という体験を久しぶりにした。
 泣かせたいわけじゃなかった。むしろ、僕は矢桐の手助けでもしてやればよかった。瀬戸さんも馬鹿だな、僕みたいなのに引っかかって。瀬戸さんの事が泣くほど好きで、僕よりずっと金持ちの矢桐とくっついてれば、彼女は幸せになれた。僕は、いったい何人の幸福な生活をぶち壊してしまうのだろうか。……いや、人生に最初から負けていた僕が、誰かを幸せにできるわけがなかったというわけか。
 父さんや母さんが悪い。生活保護でしか暮らせないのなら、子供なんか作らなければよかった。僕だって普通の中流家庭に生まれていたら、自分の金だけで遊んでいたと思うし、金持ちに変なコンプレックスを感じて、高い服や高い食べ物にばかり手を出したりしなかった。僕は何も悪くない。矢桐のお兄さんとか、翔とか、悪い奴等に利用されて、ちょっと地位は落ちてしまったけれど、僕はまだ僕のままだ。違うとしても、そう思いたかった。僕が青山瑛太を演じられなくなったとき、残っている物は何もないだろう。それを痛いほどわかっているからこそ、さっきの矢桐みたいな気持ちにもなったりするんだ。
 こんな時、無条件で僕の事を好きと言ってくれる、盲目みたいに恋をしている瀬戸さんみたいな子が居てくれたらいい。寂しくて死んでしまいそうだから、適当に温め合えたらそれだけでいい。柚寿の代わりにもならないけれど、「僕の事が好き」という確証がある瀬戸さんだけが、こんな時は愛おしく思えるのだ。ただ何も考えずに、愛されたかった。
 矢桐に申し訳ないな、なんて一瞬思うけれど、もうなんにも考えないことにした。この生ぬるい夢が醒めてしまう日は近い。聞きたくない言葉を無視して、一時の幸せにだけ手を伸ばす、それだけでいい。自分で作った底なしの沼に嵌っていくような、どろどろになった気持ちだけぶら下げて、彼女に会いに行こう。



 「瑛太じゃん! 元気? 元気じゃないか、すっげー疲れてんな、あ、テストだっけ? 聞けよ、翔くん今日ガッコ休み。土曜日創立記念式典だったから、振替休日なんだぜ」

 瀬戸さんに「時間ある?」とラインを送ったその直後、駅前で翔に会ってしまった。金髪に薄く入った銀のメッシュ、女子が使うようなヘアピンで留められた前髪、ホストの私服みたいな、モノトーン調のブランドで固めた恰好。遠くに見えるガラの悪そうな奴をとらえた瞬間に、あれは翔だ、と本能で悟ってしまった。そのまま見なかったふりをして立ち去ろうと思ったのに、向こうは僕と目が合った瞬間、何事もなかったかのように話しかけてきたから、運が悪いな、と思う。
 僕はもう癖になってしまった愛想笑いを浮かべて、「そんなに元気ないかな」と言う。目の前の男は、僕が好きだった、僕だけの物だった、柚寿の味を全部知っている。それだけで具合が悪くなってきて、正直、一秒も顔を合わせていたくなかった。抱かれちゃったのよと柚寿はさらっと言ったけど、どんなことをしたんだろう。僕が秘密にしてきた事を話して、突然の事に頭が追い付かない柚寿をホテルに連れ込んで、なんの愛も無いキスをして、僕が買ってあげたワンピースのボタンをひとつずつ外して、そこまで考えたところで、本当に頭が痛くなってきたのでやめた。矢桐もこんな気持ちだったのだろうか。
 駅の中のスターバックスで二人、いつもの甘い飲み物を頼む。瑛太っていつもそれだよな、と言う翔とこの店に来るのは、これで最後にしたい。二週間くらいで彼女が変わる翔とは違って、僕は矢桐を犠牲にして、柚寿を幸せにしてきたつもりだった。コーヒーの香りが漂う。
 席に座って、改めて翔を見ると、クマ一つない白い肌を引き立てているグレーの瞳に、爛々とした光をたっぷりと宿らせて、すごく元気そうだ。何にも考えないで生きている奴はいいな。隣のサラリーマンが吸う煙草の煙に咳き込みたくなるのを抑える。

 「もう別れた?」
 「……翔のせいでね」
 「最高だったよ、柚寿ちゃん」

 上手いし綺麗だし性格も控え目で最高、好きになっちゃったなー。翔はそう言って、テーブルに片肘を乗せて、僕に笑いかける。身構えていても、やっぱり襲われる生理的な気持ち悪に、もう飲み物すら口に入れる気にはならなかった。つい最近まで僕と柚寿は付き合っていたっていうのに、わざわざこんなことを言う翔の気が知れない。僕はこんな奴とずっと、親友と言う間柄で、つまり、こいつと同程度だったわけだ。

 「最初から狙ってたんだろ、柚寿のこと」
 「バレた? まあ、瑛太ならすぐ次いけるって。あんまり金に執着しない子ならすぐ落とせるよ。ああ、でもバイトくらいはしとけよ。生活保護はまずいって」
 「……僕だって、好きで貧乏なわけじゃないのに」
 「貧乏な家に生まれちゃったんだから仕方ないだろ! 俺の紅音はいつでも貸すから、瑛太もいつまでもヤギリくんに甘えてないで、自分で稼ぐってことを覚えないと……」
 「うるさいなあ」

 やっとキャラメルマキアートを口に運ぶ。早く飲んで帰ろうと思った。瀬戸さんからの返信もあるかもしれない。崩れたメイクを施して、毎日大きな笑い声をあげている戸羽さんよりは、馬鹿で夢見がちなだけの瀬戸さんの方が百倍くらいマシだ。そして柚寿は、それより一億倍は魅力的な女の子である。人間の情に欠け、長く付き合った恋人を一瞬で切り捨てる点以外は、なんだかんだで、好きだったんだ。

 「でも、前も言った通り、俺は瑛太のこと仲良い友達だと思ってるし、困ってんなら金貸すよ。親友だからこそ、お前と柚寿ちゃんの、完璧すぎて一切弱みを見せない関係に疑問盛ったわけでさ」
 「だからって、人の恋人奪わなくてもいいのに」
 「ごめんって! 今度焼肉奢るから、な」

 柚寿は焼肉ごときとは釣り合えない存在だっていうのに、翔はいつだって軽すぎる。今回のは自業自得だと思いなよ、と笑う翔を、金輪際許せはしないけれど、僕も合わせて笑っておくことにした。思えば僕だって、矢桐や瀬戸さんからしてみると、搾取する側の人間なのだ。



 「柚寿と別れたって、ほんと?」

 シャワーを浴びてきた瀬戸さんが、ベッドの上でスマホを見ていた僕に問う。安いラブホテルの一番安い部屋で、誰のものでもない瀬戸さんは真っ白のバスタオルに身を包み、濡れた遅れ毛を頬にぺたりと貼り付け、無邪気な表情をしていた。照明も相まって、いつもより五割増しくらいで可愛く見えてくる。
 そうだよ、少し前に別れたんだ、と僕は言って、スマホをベッドの縁に置く。瀬戸さんは、嬉しさを無理やり抑えたみたいな表情になる。

 「じゃあ、私にも、ちょっとはチャンスあるかな」
 「……今はさ、まだ柚寿と決別できてないし、他の子と付き合うとかは考えてないんだ。でも僕、瀬戸さんの事好きだよ」
 「……嬉しい」

 彼女はついに、口元を緩めて笑う。意外と大人っぽい表情も出来ることに気付く。僕はと言うと、また嘘をついてしまったなと、ぼうっとする心の中で、そんな事を考えていた。
 柚寿よりも幼い体を抱き寄せる。ふんわりと甘い匂いがする。こういう子はそこまでタイプじゃなかったけれど、本気で照れながら僕に「すき」って囁いて、僕のためならなんでもしてくれそうな彼女は、今だけは、いちばん可愛かった。このまま、どこまでも堕ちていこう。寂しさも、悔しさも、全部全部、瀬戸さんが受け止めてくれる。一瞬だけの幸せに、いつまでも浸っていたかった。