複雑・ファジー小説
- Re: 失墜 ( No.57 )
- 日時: 2016/10/31 02:40
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)
14 あまい
買ってもらった服を、全部売りに行った。ケイティとか、エニィシスの服を大量にレジに積んだとき、古着屋の店員は凄く不思議そうに私を見ていた。私が高校生だと告げると更に驚いていた。別れた彼氏に買ってもらったんです、それも全部人の金だったんですけど、とは言えなくて、「もう着ないんですか?」と、余計なお節介をかけるかのように聞いてきた店員に、愛想笑いだけ返した。明日にはみんな、店に並んでしまう。ピンクのワンピースも、白のスカートも、思い出がたくさん詰まっているけれど、それは私や瑛太のものではない。
十二と書かれた小さな板を渡された。査定が終わり、番号が呼ばれるまで、古着屋の中をぶらついていようと思ったが、何年振りかに来た古着屋は、ざっと見ても私に布の集まりという印象しか与えなかった。瑛太が高い店にばかり連れていくから、ブランド品と名を掲げているワンピースも、百円のペラペラなスカートも、同価値に見えてしまう、私もかなり汚れている。
しばらくして、端金と言うには多すぎる紙幣が、私のもとへ帰ってきた。茶髪を無造作にまとめて、そんな手抜きを今風だと主張しているような店員は、最後まで私に「いいんですか?」と聞いてきた。面倒になったので、いいんです、これは私のお金じゃないので、と笑う。茶封筒に入ったこの重みは、私じゃなく、彼のものだ。
「……小南さんって、律儀っていうか、ばかだよね。返してくれるんだ」
「当たり前じゃない、悪いことしたんだから」
店の前に立っていた矢桐くんに、封筒を渡す。彼は酷く冷たい目で私を見て、それを受け取った。
瑛太は、アーバンリサーチかユナイテッドアローズか知らないけれど、いつも洒落た服を着ていた。読者モデルの仕事をしていたから、例えばクラス会なんかで、全員私服で集まった時、他の男子とは違って異様に大人びていた瑛太に、やっぱり似合うなあと笑いかけていた柏野くんを思い出す。思えば、その時から矢桐くんは、瑛太をこっそり睨みつけていたのかもしれない。恋人としてそこに気付けなかったのは盲点であり、もし私が早い段階で瑛太を止められていたらとも思うが、問いただしてみたところ中学三年生からこのような関係は続いていたらしいので、既に私の入る余地はなかったし、私にはどうしようもできなかった。
ずっと追い求めてきた絶対的な関係は、私とは別な場所で存在していたのだ。
「小南さんが謝る事でもないのに。全部悪いのは、青山だし。気付かなかった小南さんも相当アホだと思うけど」
「うん。もっと早く気付いてればよかった。お金、これじゃ全然足りないよね。私が使った分だけでも、全部返すわ」
「いいよ。服と違って、食事代なんかは返しようもないだろ。ゲロって返金してもらうつもりなのかよ。金もないくせに、そんな約束したところでさ」
意外とよくしゃべる子である。そして、口が相当悪い。私は矢桐くんを見縊っていた。もう少しおどおどした感じの気弱な少年だと思っていたし、そんな感じだから瑛太に金を奪われていたのだろう、と勝手なイメージがあった。だけど、不愛想に、黒のパーカーのポケットに両手を突っ込んでいる矢桐くんは、なんだか不良少年みたいである。
長い前髪の奥に覗く黒目がちの大きな瞳は、真っ赤に腫れている。白い肌と相まって気になってしまい、私は話題を逸らすように、彼に問う。
「……もしかして、昨日泣いたりした? そこに薬局あるけど、目薬くらいなら買うよ?」
「……んなことないよ。僕より青山の心配しろよ」
ちっ、と舌打ちをひとつ鳴らして、矢桐くんはごしごしと目元を擦る。そういう事をするからさらに充血するのだ。私は夜遅くまで勉強して、寝不足で目が腫れがちな日が多いので、こういった症状に関してはその辺の人よりも詳しい。素直に従っておけばいいのに、矢桐くんは学校に持ってくるものと同じリュックに封筒を無造作に入れてチャックを閉め、私の先を歩き始めてしまった。
いつも車道側を歩いてくれる瑛太とは違って、彼はばっちり歩道側を歩いていた。今頃、瑛太は瑛太なりに私を気遣ってくれていたのだと知る。そう考えているうちに随分先へ行ってしまった矢桐くんは振り返り、ほとんど私と変わらない位置にある目線をばつが悪そうに合わせ、「行かないの、小南さん」と言う。私は慌てて駆け寄った。まだ熱があるのか、ふらつく体をなんとか支える。
公園まで歩き、ブランコを通り過ぎ、自販機で矢桐くんはソーダを買い、私は麦茶を買った。今日の目的は服を売って金を渡すことだけれど、もう一つだけ用事があるから公園まで来てくれないかと、矢桐くんに頼まれていた。
それで、用事って。私が言い出す前に、彼はポケットからピンクの光るものを取り出し、私に押し付けるみたいに渡した。よく見ると、それは私がスクールバックにつけていた、瑛太から貰ったストラップだった。無くなっていたことにも気づかなかった。なんでこれを矢桐くんが持っているのだろう。
「……拾った。青山に渡そうとしたけど、小南さんに返してくれって言われたから、返す」
「ごめんなさい。こんなの、持ってたくなかったでしょ」
「ほんとだよ、いつから僕は伝書鳩になったんだよ、ほんとに」
割とマジで意味わかんねえ、と矢桐くんは繰り返すように呟いて、ソーダを四分の一くらい、一気に飲んだ。六月、もうすぐ夏が来る。外は暑く、矢桐くんはパーカー姿だけど、私は安物の薄いワンピースを纏っている。この気温では喉が渇くのも当たり前で、冷たい麦茶がきん、と体の芯を冷やしていくと、思わずため息が出そうになるくらい、体力が回復していくのを感じた。高級店で飲むシャンメリーより、公園のベンチで飲む麦茶の方が美味しいと感じてしまう私は、やっぱりどこまでも庶民派で、そっちの方が性に合っている気がした。
「……ごめんね、瑛太が」
「……だから、小南さんは悪くないって」
「悪いと思ってるから謝ってるのよ。さっき渡したお金じゃ、全然足りないでしょ? 私、お小遣いから削って、ちゃんと矢桐くんにお金返すから」
「金なんか要らないよ」
矢桐くんの声が、午後のまどろみに小さく響く。金なんか要らない、その言葉は、私が逆の立場ならば絶対に言えない。
なんで、と問おうとして、矢桐くんが何か言いたそうにしていることに気付く。さっきまでずばずば私に毒を吐いてきた彼とは違って、言いにくいことを言うような、本当は言いたくないことを無理やり述べるような、そんな表情をしていて、私も少し身構えてしまう。
やがて、さっきよりも格段に小さくなった声で、彼は言った。
「……ここでキスしてよ。僕の好きだった女の子も、そうやって奪われたんだ」
「……え?」
「金なんか要らないから、お願い」
あまりのことに、私は瞳を見開いて、なんで、どうして、という事ばかり、矢桐くんに聞く。好きな子が居るのに、私なんかとそんなことをしていたら、それこそ渋谷くんと一緒だ。渋谷くんが異常で、それ以外が正常だと思っていた私としては、好きでもない女と唇を重ねたがる意味が解らない。でも矢桐くんは本気の目をして、じっと私を見つめている。
金を渡さなくてもいいのなら、と揺らぐ。矢桐くんのことは好きでも嫌いでもないけれど、それで彼が満たされるのなら、一回くらい良いか、という気にもなってしまう。あんなに謝っておいて、「それはちょっと」と断ることも出来ないし、瑛太の事で引け目を感じずにはいられなかったから、私は「わかった、一回だけね」と言い放ち、こういう時は瞳を閉じるものだという認識に倣い、目の前を真っ暗にさせる。
ほんと、ラブドールみたいな女だな。暗闇の中で、彼が吐き捨てる。従順でなんでも言う事を聞くだけの女になってしまったことを知る。今までしてきた努力は、と考えると、本当に私は精神を保っていられなくなりそうだったので、がんばって、がんばって、その矢桐くんの言葉を頭の中でかき消した。
小さく息を吸う音が聞こえて数秒、洗剤の香りと一緒に、唇に柔らかいものが触れた。そして、私のワンピースの袖がぎゅっと握られる。酸素が足りなくなるたびに、少し離して息を吸って、また重なる。一回だけって言ったのになあ。私の背中を抱いて吐息を漏らす彼を見ていると、瑛太とする時みたいに舌でもねじ込んでやったらどんな反応をするんだろう、とか思ってしまう私は、たぶん意地悪なんだろう。
ここがホテルなら確実に次に行っていたんだろうな、と思いながら、ぷは、と唇を離した。矢桐くんは、初めてこういう事をしたのか、酷くとろけそうな、甘いものを欲しがるような瞳をして、柔らかすぎ、とうわ言のように呟いた。瑛太も渋谷くんもやけに手馴れていたから、こういった反応は逆に新鮮である。面白い子だなあと思うと同時に、ばかなことをしたなあ、と罪悪感もこみあげてくる。
あの子もこれくらい柔らかいのかな、と心の声を零して、白い頬をピンク色に染めて、パーカーの裾を引っ張っている矢桐くんは、そんな私の胸中を知る由もなく、上気しそうなほど、ほわほわしていた。馬鹿はどっちよ、と言いたくなるのを抑えて、私は悪びれもせず、麦茶のボトルを開けて、三分の一くらい一気に飲みほした。矢桐くんは最後まで、それ以上ソーダには手を付けず、私をちらりと見ては、何かを言おうとしてやめていた。
瑛太も言っていたけれど、男というものは、中途半端に許されてしまうと、その先をどうしても期待してしまう。愛のないただの下心だとしても、その時だけはその女が世界一可愛く見えてくるのだ、と冗談のように笑っていた。私はいつもその被害に遭う側の人間だった。渋谷くんとまた会う約束をしていたことを思い出し、吐きそうになる。それに比べたら、矢桐くんとキスしたことなんて、全然大したことないのに、全然大したことないとは少しも思えない。私って、結局なんなんだろうか。私という人間は、こうやって、手が届かない誰かの代わりとして消費されていくことしかできないのだろうか。
- Re: 失墜 ( No.58 )
- 日時: 2016/10/23 03:25
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)
矢桐くんは、さっきまで私を馬鹿だのアホだのラブドールだの言っていたのが、まるで嘘のような表情をしていた。男というのは実に簡単で、たぶんこれが私じゃなくても、彼はこうなっていたんだろう。矢桐くんを本当に満たせるのは、その誰かに奪われた好きな子だけであり、私じゃない。それなのにこんな顔をするのだから、なんにも信頼できるものなんかない。
私は最後まで誰かの一番にはなれなかった。瑛太だって、矢桐くんだって、渋谷くんだって、みんな、私の裏に誰かを見ていた。それこそ手軽なラブドールと同じで、私はなんでもいう事を聞くだけの人形。またね、とやけに友好的に、変な笑顔を作る矢桐くんを見ていると、こっちも半笑いしか返せなかった。
次は渋谷くんのもとへ向かわなければいけなかった。死にたい、とついに口に出してみる。渋谷くんとも関係を持っている以上、紅音に相談することはできなかったし、私を出し抜いて紅音に気に入られようと企んでいる優奈やみちるにも言えなかった。いつも瑛太と待ち合わせをしていた時計塔の下に渋谷くんを見つけて、彼が大きく手を振る。私がゆっくり溶けていく。もう、どうでもいい。なんにもなくなってしまった私の残骸は、頭の悪い奴等に最後まで食い散らかされ、そのまま消えてしまうんだ。私は完璧な小南柚寿にはなれなかった。渋谷くんは無邪気な笑顔で私の手を取り、ラブホテル街に向かって歩き出した。さようなら、私。
「……柚寿?」
目を伏せて、カップルが多くなってきた道を歩いていたとき、一人で歩いてきた男の子に声を掛けられた。瑛太より少し低くて、どこか懐かしいような、今、一番聞きたくない声だった。ばっと顔を上げると、予想通り、制服姿の幼馴染が居た。
私は今、渋谷くんと手を繋いでいる。視線はしっかりお互いをとらえて、私は思わず彼の名を呼んだ。
「え、なに、椿って、シャンプー?」
渋谷くんが振り返る。そして、足を止めた椿と私にやっと気付く。「え、知り合い?」と、渋谷くんは面白そうに私たちを見比べ、舌にたくさん刺さった銀色のピアスを見せて笑った。椿は、そんな私たちを見て、繋がれた手もちゃんと見て、「いえ、別に」と吐き捨てて、そのまま人混みの方へ歩いていく。私は何もできずにそれを見ていた。
ふと我に返って、なんだかとても辛くなった。昔からずっと仲の良かった幼馴染に見捨てられたのだ。瑛太と別れて数日もたたないうちに、新しい男とラブホテル街へ向かっていく私は、彼の目にどう映ったんだろう。考えたくもない。誤魔化しも出来ない。渋谷くんは、なにあれ、へんな奴、とへらへら笑って、ぐいっと私の腕を引っ張った。早く行こうよ、あのホテル風呂超豪華なんだぜ。渋谷くんはいつも楽しそうに笑う。お風呂なんてどうでもいいし、早く帰りたい。そのまま沈むように眠って、朝も来なければいい。私がそんなことを思っているのも知らずに、「奪う側」の彼は、私という人間を完全にダメにして、それを楽しんで、笑っている。
だいたい優しくしてくれた瑛太と違って、この人は痛いし雑だしやってらんないな、と思いながら、白いシーツを握りしめて、自分でも気持ち悪くなる嬌声をあげていた。「綺麗にすましてる子ほど、ぼろぼろにしたくなるよね」ととんでもない性癖を暴露し、風呂が豪華だのほざいておいて、部屋に入るなり押し倒してきた渋谷くんの目に私は、都合のいいラブドールにしか映らない。椿の軽蔑したような顔を思い出しては、痛くて泣いている私を、渋谷くんは快感で涙を零していると勝手に勘違いして、私の名前を呼んでは、じっとり濡れた体を抱いていた。「好きだよ」の言葉に、なんの意味も込められていないことを私は知っている。だから、私も何の意味も無い「好き」を返す。悲しくてつらくてどうにかなりそうで、それでも必死に抱きついている私は、一体誰なんだろう。死にたい、このまま飛んでいきたい、唾液と一緒に流れる涙でシーツにいっぱい染みをつくって、私は嗚咽交じりの酷い声をあげていた。
……その、十分後の話である。渋谷くんは部屋にあった小さな自販機からチューハイを購入し、「柚寿ちゃんも飲む?」と勧めてきたけれど、断った。ベッドの上でぐしゃぐしゃになったシーツだけ身にまとって、放心したように私はそこにいる。豪華だという風呂には渋谷くんが先に入ってしまい、ベッドの上に投げ捨てられているコンドームを見ては、一応避妊してくれたんだなと心底安堵した。どこまでも堕ちた私は、そんな些細なことでさえ、最後の救いのように思えたのだ。
「やっぱさ、よく言われるけど、俺のほうが上手いだろ? そんなしけた顔してないで、瑛太のことはもう忘れなって! あんな奴より、柚寿ちゃんは俺の方があってるよ」
瑛太は生活保護で最低、と渋谷くんは、流行りの歌に乗せて歌う。その妙に上手い歌を聞きながら、私や渋谷くんだって同じくらい最低だよなあ、と思う。死にたい。消えてしまいたい。そうやって呟いてみると、楽しそうにしていた渋谷くんは歌うのをやめて、「わかるー、ほんと死にたいよな、親友があんな奴だったとか、恥だよな」と、またけらけら笑う。
だから、そういうことじゃないんだってば。私はホテルを出る支度を始める。床に落ちていたブラジャーを拾い上げて、ばかみたいね、とホックを留める。そういえば瑛太は、私の服を脱がせるとき、これをほとんど一瞬で外していたことを思い出して、ああいうのってどこで習うんだろうな、とふと考える。こんなに手馴れている瑛太や渋谷くんみたいな人も居れば、矢桐くんみたいな人もいる。なんだか面白いけれど、こんな面白み、知りたくもなかったわ。渋谷くんが全額出してくれるという言葉に甘えて、一人でホテルを出た。幸せそうなカップルと入れ違い、あいつらはちゃんとした恋人同士なのだろうかと思うと、また泣きそうになってきた。
私はもう、私が誰なのかわからなくなってきた。家に帰ったらまず体重計に乗り、四十五を越えたら夕食を抜き、友達と通話をしつつ勉強もこなして、美容のサプリを飲んで、そうやって作り上げてきた私はもう、どこかへ消えてしまった。今思うと、なんであんな盲目的に努力できたんだろう。あれは誰のためにしてきたんだろう。少なくとも、こんな私になりたかったわけではない。
夜道を歩く。夏なのに、薄いワンピースを透かす風が冷たく感じて、気持ち悪い。仙台駅前は人で溢れ、手を繋いで歩く男女、仕事帰りのサラリーマン、ベビーカーを引く若い女の人、いろんな人間が、それぞれの道を歩いていく。私はどこへも行けずに、人気の少ない路地の裏をめざして歩く。
限界だった。コンクリートに手をついて、ついに全部耐えきれなくなった。明るい街がすぐそこに見える、薄暗い建物と建物の間の、何のために存在しているのか解らない狭い空間で、私はおもいっきり、嘔吐する。何も食べていないせいで胃液しか出ないけれど、この気持ち悪さは未来永劫、ずっと消えない。矢桐くんとしたことも、渋谷くんが笑っていたことも、ぜんぶぜんぶ、もどす。触れられた感触、漏れた言葉、すべて汚いアスファルトにぶちまける。うずくまる私を、明るいところからのぞき込むように見ていた人間と目が合った。見てはいけないものを見てしまった顔をして、そいつは賑やかな方へと消えていった。最悪。私は呟いて口元を拭う。そして、さらに暗いところへ向かって歩き出す。家に帰る気にはなれず、誰にも縋れはしない。さようなら、私。私は私と繋いでいた手を離して、ふわふわと、まるで意識を失ったように歩いた。