複雑・ファジー小説

Re: 失墜 ( No.61 )
日時: 2016/10/24 02:52
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)

 目を覚ましたら、見慣れないベッドの上に居て、自分の部屋ではない匂いがつん、とした。気だるい気持ちで、今まであったことを思い出そうとしても、吐いたところから先はなんにも覚えていない。まさか、また違う男にホテルに引きずりこまれたのではと、最悪な予想がぐらつく。だけど、仕切られたカーテンを見て、ここは病院で、私は倒れてしまって運ばれてきたんだ、とようやく理解した。着ていたワンピースの上には簡素な入院服を羽織らされており、特有の不快感も無かったので、無理やり乱暴されたということはないだろう。惰性のように、机の上に放り出されていたスマホを取った。母からは「仕事が終わったらお見舞いに行きます」という趣旨の連絡が入っていて、ぜんぶ無視してもう一度布団に倒れ込んだ。
 このまま死ねばよかったのに。消毒液の匂いも、揺れるカーテンも、やけに軽い体も、もう何もかもに嫌気がさす。ここは三階くらいだろうか。飛び降りたらたぶん死ねる。もう私は明日が怖くて、なにも見たくなんかないんだ。

 「あなた、疲れてるでしょ。ちゃんと寝てる? 疲れが一気に出て、体が耐えられなくなってる状況なのよ。ちゃんと休まないと」

 やってきた看護師が、私に笑いかける。当たり前だけど、重病ということではないのだろう。むしろ、これだけで病院にまで運ばせてしまったことを申し訳なく思う。検査のために今日は入院ね、と言う白衣の天使だって、服を脱げば私とあまり年の変わらない女の子だ。どんな恋愛をして、どんな人を好きになってきたんだろう。こんなにきれいに笑えるのなら、私よりはずっとマシなんだろうなと考えて、また自己嫌悪に陥った。
 安静にしていろと言われたのに眠気はまったく無くて、ここまで来て明日の小テストの事なんか考えてるんだから、私はもう駄目だ。今更頑張ったってどうにもならない。私はいい大学に入りたいわけじゃなくて、「みんなに褒められる」という目先の幸せだけが欲しいのだ。でも、そんなくだらないもの、もういらない。全部投げ捨てて、このまま沈んでいきたい。
 そんな感情を一時的に満たしてくれるのが、女なんだよ。渋谷くんは、私が帰る直前、最後にそう言った。ふわふわと断片的に思い出しては、吐き気をこらえる。

 「瑛太も俺も、みんなそんなもんだと思うよ。なんで男って好きでもない女を抱くのって、紅音とかも言ってたけどさ。悩みがあって、寂しくて辛いからセックスするんだよ。女抱いてるときは、征服感とかで、満たされるからさ。合法かつ手安いドラッグみたいな感じじゃね」

 手安い、と言われてしまった、今まで渋谷くんが抱いてきた女の子に同情しつつ、私もその一人であることを思い出し、もはや自虐するように笑うしかなかった。瑛太と違って、渋谷くんは嘘をつかない。素直に、自分の思うままに生きているから、多分今後もこんな感じに上手く生きていくんだろうな。彼は、私や瑛太が必死で作り上げていた理想の自分をたやすく崩して、プライドをへし折って、一番高いところで笑っている。
 みんなみんな、最低だ。私は寝返りを打って、窓から見える街灯を眺めている。残業しているサラリーマンも居るってのに、こんなところで私はぼうっとしている。やっと、自分が生きるのが下手な事を自覚してきた。社会に馴染めないくせに、今まで馬鹿みたいに頑張ってきたけど、結局最後はこれ。変わりたかった。頑張ったのに、変われなかった。ぼろぼろと勝手に溢れる涙を止めようともせず、私は夜に溶けていく。
 しばらくそうしていた時、がらりと病室のドアが開いた。まず最初に視界に入ったのはお洒落でもなんでもない黒のジャージで、目に見えて息が上がっている彼は、急いでここに来たんだろうなといった印象を与える。椿だ。見捨てられてなかった、そう思って一瞬嬉しくなるのに、申し訳ない気持ちで押しつぶされそうになるのは、私は、椿とちがって汚い人間だからで、柚寿、と名前を呼ぶ声からも、目を逸らしてしまった。

 「……だから言っただろ、無理すんなって。なにが四十五キロだよ、あと十キロあっても全然普通だろ」

 椿はそう言いながら、私のもとへやってきた。私は泣いていたことを悟られないように、長袖で目尻を拭う。
 椿の右手に握られているビニール袋には、お菓子がいっぱい入っている。ポテトチップス、チョコレート、私が今まで食べたくても、我慢してきた甘味が溢れそうになっていた。それを投げつけるように渡されて私は、ただ「ごめん」と言うだけ。誰に対してのごめんなのかはわからなかった。椿に言ったのか、はたまた、自分の体を酷使している私自身に言ったのか。椿としては後者の意味でこの言葉を受け取りたいんだろうと思って、やっぱり私は心から心配されているんだと思うと、申し訳なかった。
 私はもう、椿の横で笑えていた幼馴染ではない。私はすごく馬鹿でクズでどうにもならない人間だ。それに比べて椿は、優しいし、顔だって意外とまともだし、瑛太よりはお金も誠実さもあるだろうし、私なんかに構っているのは勿体なさ過ぎる。だから、お願いだから、もう見捨ててほしかった。私のしたことを全部知れば、椿だって私の事を嫌いになる。そう思ってはいるのに、なんにも話せずに、無表情で「ありがと」と言う事しか出来ない私も同時にそこに居て、椿に見放されるのが怖いんだということを今さら自覚する。

 「……私、椿と付き合ってたら、よかったのに……」

 あはは、と気の抜けた笑い声が病室に響く。絶対的な関係は、お互い心から安心できる場所にしかないことを知る。もう手遅れだってのに、いや、手遅れだから、渡されたお菓子を床に落として、シーツにまた、ぽたぽたと涙を零していく。
 椿はそれでなんとなく察しがついたみたいで、ため息をひとつ吐いて、見舞い用の小さな椅子に座った。消毒液の、アルコールの匂いがした。

 「……さっきすれ違ったあの男は?」
 「あの人、恋人でも何でもない」
 「……だろうと思ったよ。どうしたんだよ、柚寿」

 あんなに楽しそうに笑ってたのにさ。私の方をしっかり見て、椿は問う。本当の事を言うのが怖い。心臓の音がどんどん早くなる。言いたくない事は言わなくていいんだよと笑っていた、優しいようで面倒ごとから目を逸らしていた瑛太とは違って、椿は私を心から心配している。それを知っているからこそ、怖い。

 「……私、もうだめみたい」

 呟いた言葉は、虚空に消えていった。そこから先は話せず、私はシーツの一角を、死んだような瞳で見つめる。
 小南柚寿は、完璧な女の子だった。絹みたいな黒髪を伸ばして、ぱっちりした二重で、長いまつ毛がくるんとカールして、制服は少しだけ着崩すけれど、不真面目には決して見えないようにして。勉強も満遍なく出来た。世界史や地理が得意で、数学が少し苦手で、それでも総合成績はクラスで三番目で、この前の成績順に並ばされる変な席替えでも、いちばん窓側の席を獲得した。運動もできるから、球技大会のバレーではメインのアタッカーとして活躍し、結果去年優勝、今年は準優勝を飾った。そして、青山瑛太っていう、これもまた完璧で、読者モデルなんかやっちゃうような、少女漫画の王子さまみたいな男子と付き合っていて、彼女は毎日幸せそうに、笑っていた。
 私は、ぜんぜんダメだ。黒髪は絡まり、化粧は崩れ、薄いワンピースは汚れ、この前のテストも明日の小テストもきっと点数は最低で、球技大会も一番いいところで活躍できなかった。そして、最低だった恋人と、その周りの人に振り回され、こんなにもぼろぼろになってしまった。
 私はもう小南柚寿ではない。それを、近くで見てきたであろう椿も、何も言わなかった。重苦しい沈黙に、私の嗚咽だけが聞こえる。