複雑・ファジー小説

Re: 失墜 ( No.62 )
日時: 2016/10/28 23:19
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)

『初恋(case.B)』
 好きな人ができたのは、中学三年生の時だった。
 周りからは「きょうちゃん」とか、「きょん」って呼ばれている子だった。あまり目立つ方ではなかったけれど、友達思いで明るくて、差別をせず、誰にでも優しい女の子。焦げ茶色の綺麗な髪を二つに結び、小柄な割には胸もあって、少し長めのスカートから覗く太腿も、白くて細くて、教室の隅で花のように笑う彼女を視界に入れるたびに、胸が高鳴った。
 俺はというと、まるで切れかけの電球みたいな、つまんない中学生だった。昔から病弱だったから、過保護な母親には運動を禁止され、ピアノを習わされ、同級生の男子たちと遊ぶ機会なんてほとんどなかった。中学に上がり、やっと友達と呼べる男子が数人出来たものの、そいつらもまた、アニメが好きとか、鉄道を撮影することしか趣味が無いとか、パッとしない奴らで、徒党を組みクラスの中心で楽しげに笑うリア充どもを隙あらば馬鹿にし、どうでもいい趣味の話にだけ花を咲かす、そんな地味な生活を送っていた。

 「瀬戸、おめでとう。学年最高点だ」

 九月上旬の教室では、夏休み明けテストの返却が行われている。
 堅物な英語教師が、珍しく穏やかな顔をして、きょうちゃんこと、瀬戸さんを褒めている。九十六点らしい。瀬戸さんは、とても喜怒哀楽がわかりやすい人で、すごく嬉しそうな顔をして、答案を受け取っている。教室のどこかで、すごいな、と声が上がる。
 対して俺のもとに帰ってきた答案には、何度見ても「三十二」とあって、こんな成績では、入れる高校もろくに選べないことは、そろそろ自覚していた。笑顔のまま席に戻る瀬戸さんに、クラスの中心的な男子が話しかけている。きょうちゃん、ホント英語得意だよね、今度教えてよ。そんな声が聞こえて、俺はゴミでも捨てるように、答案用紙を机の奥に押し込む。
 中途半端に勉強して、中途半端な高校に行くよりは、いっそ下の下でいい。でももし、瀬戸さんが勉強を教えてくれるのならば、同じ高校の門をくぐってみたい。しかし、それは絶対にかなわなかった。瀬戸さんは英語がものすごく得意で、この前ついに英検の準二級を取ったらしい。俺は馬鹿だからよくわからないけれど、これは高校生レベルに相当するみたいで、瀬戸さんは既に、推薦で名門私立校である櫻鳴塾高校の特進科に入ることが決まっていた。そもそも大体、一度も話をしたことが無い瀬戸さんが、俺なんかに勉強を教えてくれるわけがないし、見ている世界が根本から違うのだ、遠くから眺めて満足するだけでよかった。
 淡い初恋は、卒業と共に消え去る。夏が終わって秋が来て、冬を越えたらクラスは解体、俺は商業高校に進学し、瀬戸さんは予定通り櫻鳴塾に入り、赤の他人になった。



 「ほんとに渋谷くん? 変わったね、身長も伸びたし、えーと、高校でびゅ……じゃなくて、かっこよくなったね!」

 そんなきょうちゃんこと瀬戸京乃に、街で偶然会った。俺は変わったけど、彼女は少しも変わっていなかった。着ていたセーラー服がブレザーになっただけで、焦げ茶色のお下げも、ころころ変わる表情も、まったく昔と同じだった。
 想い出の補正だろうか、毎日抱いていたあの気持ちが蘇る。

 「あ、えーっと、久しぶり。元気だった?」
 「うん、私は元気!」

 瀬戸さんは、あの時とまったく同じ顔で笑って、俺を見上げている。忘れていた感情がこみ上げて、ちゃんと返事も出来なくなる。
 高校に上がるときに、俺は変わることに決めた。高校デビューというやつだった。要領だけはよかったから、雑誌を買い漁り、貯めていた金で美容院に行った。服も流行りを買い揃えて、流行っている歌を無理やり耳に流し込み、それにやっと順応してきた頃、雑誌の読者モデルにスカウトされた。そこからは完璧で、ファンだという女の子と付き合ってみたり、美人と有名な先輩を引っ掛けてみたりして、女遊びを覚えた。それでもどこか満たされなかったのは、俺は彼女らの中身を愛しているわけではなかったからで、交際しても一か月程度続けばいい方だったし、二股や三股も日常茶飯事だった。俺に泣きついて、「なんで好きでもない女を抱くの」と、つい最近まで付き合っていた、紅音という女が言っていたのを思い出す。俺だってそんなのわからない。ただ一つ言えることは、俺に擦り寄ってくる女たちに魅力を感じる点が体だけで、そこにしか価値を感じないから、それまでだという事だった。だけど、俺を見上げて笑っている瀬戸さんと目を合わせるだけで、何とも言えないふわふわした気持ちを感じるのはなぜだろう。特別可愛いわけでもない。スタイルだってそんなに良くないのに。
 俺と付き合ってきた女たちも、こんな気持ちを感じていたのかもしれない。やっと、初恋をいつまでも引きずっていることに気が付いた。俺が女と上手に付き合えないのは、瀬戸さんの事がずっと頭の隅にあるから。それならいっそ、これまで使い捨ててきた女たちみたいに、適当にヤって一切の関係を断ったら、俺は今度こそ、初恋を思い出として見れるようになるんだろう。でも、誘う言葉が出てこない。いつもならすぐにホテルに連れ込めるのに、まだ純潔であろう彼女の手を握ることさえできない。好きな人とかいるの? っていうありがちな少し踏み込んだ会話も振れずに、勉強はどうだとか、俺の高校はこうだとか、そんな世間話しかできなくて、まるで、中学の頃に戻ってしまったようだった。
 それじゃあ、またね。瀬戸さんは手を振って、駅の方へ歩き出す。連絡先を聞く勇気さえ出なかった自分がわからなくて、でも、底知れぬ多幸感で満たされていた。たぶん、俺はずっと、あの純真無垢な女の子には敵わないんだろうな。



 「え、やだよ。処女とかめんどくさいじゃん」

 あはは、と爽やかな笑顔を浮かべて、ショートケーキの苺にフォークを刺すのは、読者モデルの繋がりで仲良くなった青山瑛太という男だった。
 誰が見ても美青年と認めるであろう顔立ちに加えて、清潔感も人当たりの良さも完備している彼は、金も有れば頭も良いらしい。瀬戸さんと同じ櫻鳴塾高校の特進科で、トップクラスの成績を取り続けている。こんなにキラキラした奴とは、中学の頃は絶対に関わることがなかったから、最初はかなり気を遣って付き合っていたが、今では親友と呼べるほどの仲になったし、むしろ、瑛太はどちらかというと人に合わせがちな性格なので、俺が場所を提案したり、女を紹介したりしていた。
 午後のがら空きの喫茶店の隅、外は雨がちらついている。

 「なんでだよ。瑛太なら、新品の服と中古の服だったら、多少値が張っても新品買うだろ。そんなもんだよ」
 「新品のユニクロか、中古のブランド服だったら、僕は中古のブランド買うけどね」

 薄い唇を開いて、いっぱい生クリームが乗った、歯が溶けそうな甘味を音もなく咀嚼する瑛太は、決して笑顔を崩さない。なかなかえげつない事を言っているのに、こんな表情を保てることが少し怖い。俺は馬鹿だから嘘をつけないし、つかない。だから、言っている事と、浮かべている表情が一致しない奴には、多少の気味の悪さを覚えるのだ。

 「……そりゃさ、適当にヤるだけなら誰でもいいけど、結婚考えて付き合うなら処女じゃね? わっかんないなぁ」
 「ヤるだけでも、手馴れた子の方が良いよ。ほら僕、年上好きじゃん? 年上のお姉さんに甘やかされたいな」

 この前抱いた女が処女だったんだよね、クラスの子なんだけど、やっぱ彼女が一番だって思った。瑛太は、次はカフェオレを口に運びながら言う。目を伏せると、長いまつ毛がさらに際立つ。
 瑛太には、人形みたいな顔をした彼女が居て、もうすぐで一年になるらしい。女が一か月と持たない俺は、羨ましいと思いつつ、絶対飽きるだろ、と心の中で密かに見下していた。そして、今なんとなく、すとんと腑に落ちたのは、彼女とうまくいっているはずの瑛太でさえ浮気をするということ。なんだ、みんなやってんじゃん。初恋の女の子と結ばれでもしない限り、完璧にプラトニックな交際など不可能なのだ。

 「……へー、浮気とかするんだ。意外。どんな子?」
 「浮気ってほどでもないし、頭軽いアホな女だよ。 ……あれ、そういえばさ、翔って北中出身だっけ? たぶん同級生だった子じゃないかな」

 知らないか、目立たない子だし。
 瑛太はまだ笑っているけれど、俺はこのあたりで、なんとなく気付いてしまった。北中から櫻鳴塾に入った奴は何人か居たけれど、瑛太と同じクラス、つまり特進科に進学した女の子には、一人しか心当たりがない。
 意外と冷静だった俺は、世界って狭いんだな、とだけ思った。そして、もうこの初恋と決別することは不可能だと悟った。瑛太は友達だから、恨んだりなんかしない。瀬戸さんに恋していたのも、ずっと昔の話だし、なんのアプローチもしなかったのだから、こうなるのも仕方のないことだった。今の俺はもっと美人な女を何人も抱けるし、それで全部満たされていた。
 でも、こんなに簡単に、それこそ使い捨てみたいに扱われると、やりきれない。俺が今まで抱いてきた女たちだって、もとは純粋だったわけで、誰かが何年も片想いし続けて、それでも敵わない女だったかもしれないわけで。
 瑛太を真似て、笑顔を作るという行為をしてみる。そして、やっぱり嘘はつけないから、素直に全部、浮かんだ言葉を伝える。

 「……きょうちゃんだろ、残念だな。ちょっとだけ、好きだったのにな」