複雑・ファジー小説

Re: 失墜 ( No.64 )
日時: 2016/11/03 22:34
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)
参照: ついにストーブをつけましたNovember

15 犯罪者予備君
 いろんなことが重なりすぎて頭が追い付かなかった。大好きな瀬戸さんが、大嫌いな青山に恋をしている。小南さんの感触は、今も両手にしっかり残っている。冷静になってこの状況を考えてみると、僕らは迷走しすぎている。
 青山の事が好きすぎてストラップを奪う瀬戸さん、僕の金で遊んでることがバレてしまった青山、行き場のなくなった小南さん、今日もノートに青山の名前をなぞっては、これがデスノートにならないだろうかという妄想を広げる僕。窓から見える澄んだ空は、僕らの気持ちとは違ってどこまでも高い。
 もうすぐ夏が来るから、クラスのちょうど半分くらいの生徒は、ブレザーを着用していなかった。思わず目で追ってしまう瀬戸さんも、暑くなってきたねと笑いながら、下敷きで顔のあたりを扇いでいる。彼女のワイシャツの下の、肌の感触は、まだ全然わからない。

 「次の時間、席替えだってよ」

 駆け足でやってきた柏野が、クラス中に聞こえるような声で言う。
 一瞬だけ、わあ、といつも通りの歓声が上がるも、誰かが呟いた「また、成績順なのかな」の声で、教室は水でも打ったように静かになる。席替え。このクラスの席替えは、成績順できまる。テストの総合点が低かった順番に、廊下側から縦に並ばされるのだ。僕の成績はいたって中間なので、下手に目立つようなことはないのだが、大好きな瀬戸さんが廊下側の前になってしまったり、青山や小南さんが非常に得意そうな顔で窓側に席を並べたりするので、この席替えは嫌いだ。
 心配になって瀬戸さんの方ばかり見てしまう。意外と彼女は余裕げに相沢さんと雑談をしていたが、内心怯えているに違いない。なんであんな席替えを実施するのか僕にはわかりかねるし、どうせ今回も青山や小南さんが窓側を独占し、休み時間も授業中もいちゃつくのが目に見えているのだから、あんなの絶対にやめたほうが良い。……ああ、そういえば、別れたんだっけ。ふと青山に視線を向けると、あいつはいつも通り柏野の隣でへらへら笑っていた。
 小南さんはというと、どことなく虚ろな瞳で、こちらもまた友人と雑談をしている。ただでさえ目に生気がないのに、そんな顔をするとラブドールを通り越して能面のようである。周りの女子たちが、早くもこんがり焼けた素肌をワイシャツやスカートの下から覗かせているというのに、小南さんはいたく白いままだった。

 僕の名前は十六番目くらいに呼ばれることになっている。柏野が言った通り淡々と席替えが始まり、僕らは荷物をもって後ろに並ばされた。安心したのは瀬戸さんが一番前から脱却したことで、一番最初に名前を呼ばれた戸羽紅音さんは少し狼狽えながらも、小南さんやその周りの友達が明らかに適当なフォローをして、ふてぶてしい態度で席に着いた。その次に呼ばれたのはいかにも目立たない、名前も知らない男子で、今回は勉強があまりできなかったのか、相沢梓さんの名前も次に呼ばれた。そして柏野、戸羽さんの取り巻きの坂田さんと続き、一番廊下側の席が埋まっても、瀬戸さんの名前が呼ばれる気配はなかった。

 「私、やればできる子だから」

 そんな事を、笑いながら友達に話している瀬戸さんの名前は、二レーン目が終わっても呼ばれることはない。半分以上の生徒が席についたのではないかという時、僕の名前が先に呼ばれた。喜ぶべきなのだが、なんとなく気持ちが落ち着かない。下だと思っていた、愛護するべき存在だった瀬戸さんが、僕の上を行ってしまった。ちょうど真ん中くらいの席に荷物を置いて、自分でも整理がつけがたい心情をなんとか抑えて、座る。
 まあ、そんな気持ちも、次の一瞬ですぐに晴れてしまう。なんと、僕の次に瀬戸さんが呼ばれたのだ。つまり席が前後。ぱっと後ろを向いた僕と、こっちに向かって歩いてくる瀬戸さんの目がぴったり合って、おたがいに、少しだけ微笑んだ。
 これから、毎日おはようとばいばいが言える。僕はそれが嬉しくて、前に向き直った後も、笑顔が出てくるのを悟られないように、ずっと下を向いていた。やっぱり瀬戸さんが一番可愛い。僕は瀬戸さんが大好きだ。これから後ろにプリントを回すたびに、彼女がそこにいると思うと、嬉しくて息も止まりそうになる。幸せ。僕のさび付いた人生に差し込む唯一の光が、すぐそばにいる。

 「え、どうしたんだよ。調子悪かった?」

 ふいに現実に戻ると、なにやら後ろの方で波紋が起きていた。何が起きているか解らないままそれを見ていると、後ろの瀬戸さんが、「珍しいね、瑛太くんは窓側だと思ってた」と僕に言う。
 今回も窓側の大本命だった青山の名が、ここで呼ばれたらしい。そういえば、一日目の自己採点の点数が僕よりも低かったから、順番としてはこの辺りが妥当だろう。青山の成績なんかどうでもいいし、ざまあみろとしか思わないけれど、平然と後ろに立っている小南さんを思うと、少しだけ不憫でもある。結果、前から順番に、僕、瀬戸さん、青山の順に並んだ。

 「今回はちょっと、いろいろあってさぁ」

 声を掛けられて困ったように笑う青山を、小南さんが醒めた目で見ているのに気付く。彼女はおおかたの予想通り窓側の一番前というそれなりに良い席を獲得し、真ん中あたりに固まった僕らとは、違う世界に存在しているかのように思えた。
 逆に言うと、あんなところまで行ってしまったのか、とも思った。
 彼女は一人だけ高いところにいるけれど、僕にそれは、失墜に感じる。虚ろな瞳で黒板の一角を睨んでいる小南さんは、もうあの日の放課後僕に笑いかけた小南さんではなかった。確かに恋人があんな奴で、被害者である僕にも迫られているのだから、彼女がひどく心を痛めているのは仕方ないことだ。
 でも僕だって、青山に全部盗られてきた。小南さんだって、その分け前を美味しく頂いていたのだから、同罪だ。

 全開になった窓からは、夏めいた風が入り込む。そうか、夏。すべて夏のせいにしてしまおう。僕は昼休み、小南さんとまた一つ約束をした。放課後に、体育館裏。その意味を解っているのかいないのか、小南さんは弱弱しく頷いただけだった。
 僕は頭が回る方だと自負していたが、実はそうでもないらしい。大好きな瀬戸さんを青山に取られた仕返しは、小南さんを奪い返すことだった。好きでもない女を落としに行くなんて、馬鹿げているけれど、それでよかった。どうせ数か月後には青山を殺害して刑務所に入っている身だ、人生なんて最初からあきらめがついている。
 瀬戸さんは僕の事なんか忘れて、優しい人と幸せになってほしい。青山なんかとくっついたら絶対にダメだ。僕が責任をもって青山を殺すから、高校でも大学でもいいから、今度はちゃんとした人を好きになってほしいな、と、後ろを向く。瀬戸さんは次の英語の予習をしていた。やればできる子なら、全部大丈夫だろう。僕が心配するに及ばないだろう。
 さて僕は、もうこの日々に終止符を打つことに決めた。小南さんも青山も限界が見えてきている。今が絶好のチャンスだ。ポケットの中のカッターを握り締め、決行の日を考える、それだけで足が震えてくるけれど、このまま青山がこの世に存在していることの方が、ずっとずっと怖いのだ。
 六月十二日、金曜日。黒板の横のカレンダーに、適当に目星をつけた。この日が、あいつの命日になる。

Re: 失墜 ( No.65 )
日時: 2016/11/08 02:12
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)

 来なければいいのに、律儀に小南さんはやってきた。僕に引け目を感じているのか、それともただの同情なのかはわからない。すっかり緑に染まった葉が、僕の少し上で揺れている。それはとても綺麗なのに、地面に落ちて踏みつぶされた葉は、汚れて破れて散々だ。
 六月。僕はついこの前、十七歳になった。まだ大人ではないけれど、決して子供ではない。母さんは、何万円もするジャケットを買ってくれた。これから暑くなって着ることもないのになと思ったが、僕の服を選んでいる母さんはどこか幸せそうだった。で、大嫌いな兄が、夜に僕の部屋に来て渡したのは尾崎豊の「十七歳の地図」で、一通り流しては見たが、十七歳なりたての僕には難しかった。きっとこのアルバムは、僕が大人になった時、十七歳を懐かしんで聴くようなものなのだろう。
 さらさらと、長い髪が風に揺れている。

 「……小南さんて、誕生日いつ?」
 「八月の、二十三日。そんなこと聞いてどうするの?」

 誕生日プレゼントをくれるわけでもないんでしょ。小南さんは、光を失った瞳で僕を見ている。彼女の言う通り、僕は八月にはもうここにはいない。同級生を殺害した男子高校生として、刑務所にでも入るのだ。
 僕が大人になっても、十七歳を思い返し、思い出に浸ることはないのだろう。それでも青山さえ消すことが出来れば、僕の人生に悔いはない。僕は時々僕自身を、青山を殺して、瀬戸さんを少しでも幸せにしてあげるためだけに存在している人間のように感じる。
 それなら、小南さんなんて、別にどうでもいいのだ。どうせ、二週間後にはすべてが終わっている。

 「来てくれてありがとう。この前は、その、キスしたりしてごめん」
 「別に。今度は何の用かしら」
 「……続きしたいって言ったら、どうする?」
 「……どうするって……」

 やっと驚いて目を開いた小南さんの、小さな手に、僕はポケットから取り出した紙幣を無理やり握らせる。五万円なんて、青山にも滅多にやらない金額だ。母さんの買ってくれたジャケットが、思いのほか高く売れたから、僕は金にかなり余裕がある。
 小南さんは、僕を心から軽蔑しているような顔をして言った。

 「……ばかじゃないの? なんでもお金出せばいいってことじゃないんだよ」
 「よく言うよ。着飾るしか能がないくせに。本当は、青山と同じくらい薄っぺらいくせに」

 すると小南さんは、はっとしたような顔になって、そして、気まずそうに眼を逸らした。そんなに青山と一緒にされたくなかったのか。ざまあみろ青山。

 「青山はまだ、好きみたいだよ。君の事」

 でも、私はもう好きじゃないの。小南さんは目を逸らしたまま、僕に言う。その時僕の脳裏に浮かんだのは、公園で俯いていた、小南さんに未練たらたらな青山の表情だった。
 恋愛ってうまくいかないんだな、こいつらでさえこうなのだから、犯罪者なりかけの僕と、あの天使みたいな瀬戸さんではうまくいくわけがない。
 僕は、小南さんの裏に瀬戸さんを見るのをやめた。目の前にいる、ラブドールみたいな、作り物じみた顔をしている女に言い放つ。

 「好きじゃないなら、いいよね? 金だって渡したんだ。五万もあれば、ちょっとした小旅行もできるだろ。いいじゃん、しようよ」
 「……矢桐くんも、そういう子だったんだ。同情してあげたのに」

 その、小南さんの言葉を聞いた瞬間に、僕はコンクリートの壁に思いっきり小南さんを押し付けていた。
 青山も軽かったけれど、小南さんはもっと軽い。そして、すごく柔らかい。人工物と天然の中間みたいな甘い匂いもする。頭がぐらりと持って行かれそうになるけれど、そんなことはどうでもいい。
 同情って、なんだよ。頭に血が上りそうになる。僕は最初から最後まで被害者だ。小南さんも、しょせん俗世に汚れた女だった。青山に毒されて、自分を高いカーストの人間だと勘違いし、僕の金で遊んでいるくせに、僕の事を馬鹿にする。ほとんど無理矢理五万円をふんだくって、また僕のポケットに押し込んだ。その時に、いつも忍ばせている冷たいカッターが手に触れる。その気になれば、僕はここでお前を殺せるんだぞ。

 「なにするつもり? 大声出すよ?」

 小南さんは、一瞬表情を崩したけれど、すぐに気の強そうな顔に戻って、脅すみたいに僕に言う。しかし僕は、そんな言葉ちっとも怖くないのだ。

 「……青山って、すごいよな。僕に暴力をふるう時、絶対誰にもバレない場所を選ぶんだ。今まで僕が泣いても、叫んでも、一度も人に見つかったことはなかったよ。まあ、それが、ここなんだけど」
 「っ、やめてよ!」

 僕の手を振りほどいて逃げようとする、小南さんの腕を抑える。華奢な女が、力で男に敵うわけがない。やっと怯えた目で僕を見上げた小南さんは、一瞬言葉を失うくらい、びっくりするくらい可愛かった。僕はずっと、人間のこういう顔が見たかったのだと思う。濡れた瞳が、僕をとらえて離さずにいる。まだ醒めない女の子へのあこがれが、かっと熱くなって、毒みたいに全身に回る。
 部活とかいうくだらない青春の戯れに勤しんでいる奴らの声は、すごく遠くに聞こえる。小南さんはやっと自分の置かれた状況を理解したのか、いやいやと首を振る。そんなに嫌がらなくてもいいのに。どうせ処女じゃないんだろ。

 「……暴れないでよ。優しくするからさ」
 「……童貞に優しくするとか、そういう概念あるわけ?」

 やっぱり優しくするのはやめよう。どこまで生意気な女なんだろうと思う僕をよそに、こういうのを屈服させるのが楽しいんだろ! と、心の中の青山瑛太が笑う。うるさいな、死んどけよ。
 念のため誰も居ないことをもう一度確認して、僕は小南さんのワイシャツのボタンに腕を伸ばした。その手が微かに震えていることは、僕しか気づかなくていい。愛なんかここにはないから、ムードもくそもない。僕の初体験はアオカンですって、刑務所に入ったら散々ネタにして笑おう。あっちでは友達も出来るかもしれないな。
 ひとつ、またひとつと外していくたびに、真っ白な素肌と、思っていたより大きな胸が見えていく。下着はピンクの花柄で可愛かった。女の子って、こんなところにも気を遣うんだな。小南さんは、これから僕にされることよりも、周りに誰か人が居ないかが気になるらしく、目線がうろうろして落ち着かなかった。
 僕は、服がはだけたままの小南さんを、すぐ近くのもう使われていない体育館倉庫へ誘導した。ここも、青山瑛太が僕をリンチする絶好のスポットである。薄暗いし、マットや机もあるから、最初からここを選んでおけばよかった。小南さんも、「ここなら、まあ」と満足そうである。満足はしてないだろうけど。

 「……もしかして、青山と、ここでしたことある?」

 そう聞くと小南さんは、控え目にこくりと頷いた。青山の事だから高級なラブホテルにしか連れて行かないものだと思っていたが、青山も僕らと同じで、性欲には勝てない馬鹿な奴だった。どうせ学校帰りとかに寄ったんだろうなあ、と、少し冷静になって考える。普段なら殺意を抱くところだが、もうどうでもよかった。青山の所有物が手に入る。これほどうれしいことはなく、高鳴る気持ちが収まらない。
 ここならできるかもしれない。僕は小南さんにばれないように、スマホを取り出して、カメラのアプリを起動し、無造作に置いてある跳び箱の段差に立てかけて、録画を開始した。そして、彼女に微笑みかける。

 「小南さんも、はやく帰りたいだろ。さっさと終わらせようよ」

 全部ボタンをはずしたワイシャツが、はらりと床に落ちた。スカートの脱がせ方はわからなかった。ふう、と深呼吸をした後、胸に触れると、そこはとても柔らかかった。
 頭の良い小南さん。学年で可愛い子といえば、必ず名前が出る小南さん。電車で僕に笑いかけた小南さん。青山と一緒に、賑やかな方へ消えていく小南さん。彼女は全部僕の物になる。触れるたびに、控え目な声が漏れる。目が合うと、恥ずかしそうに逸らされる。これが恋人ならば、僕は彼女にキスをして、可愛いよ、なんて褒めて、抱きしめて、幸せで満たしあうんだと思う。
 でも僕は、そんな真似事は最初から望んでいなかった。想像の中の存在だった女の子がいる。何度も妄想してきた、女の子の体に触れられる。そして、青山の大事な大事な所有物を奪える。それに言い表せない幸福を感じて、目の前のこの女の子は、ただの記号にしか見えなかった。だけどそれでいい。

 「僕は今、すごく幸せだよ」
 「……私は、とっても不幸」

 太もものあたりに手を伸ばしたとき、僕が呟いた独り言に、小南さんが嫌味っぽく返事をした。それまでは凄く控え目ではあるが、指を肌に滑らせると喘いでくれたのに、全部演技だったらしい。うるさいな、演技でもいいから最後までバレずにやってくれよ。
 ムードも何もない中、決められたプログラムみたいなキスをした。そして、僕の方が持ちそうにないので、スカートの中に手を入れて、下着を脱がせた。恋人でもないし、こっちが気持ちよくなればそれでいいから、前戯なんかいらない。兄の部屋から勝手に取ってきた避妊具を、ポケットの中の財布から取り出す。本当にするのね、と小南さんはついに諦めたようにため息を吐く。
 そこから先は一瞬だった。すごく熱くて溶けそうで、それだけだった。ぐったりとマットに横たわっている小南さんが、乱れた髪もそのままにして、嗚咽を零している。ろくに前準備もしなかったので、痛かったのかもしれない。別にどうでもいいけど。
 今までで一番熱かった射精を終えて、驚くほど冷静な自分がやってくる。やっと卒業したなあとか、青山瑛太を今すぐ殺しに行きたいなあとか、ああそうだ、瀬戸さんに会いたいなとか、そんなことばかり浮かんできて、僕は何も言わずに、気分転換のつもりで体育館倉庫を出た。やっとスマホの録画を停止して、その動画を「ざまあみろ」という文面と共に、青山のメールアドレスに送信する。おかずを提供してあげているのだから、喜んでほしいな、とか思いつつ、僕は煙草でも吸うように、自販機で購入したコーヒーを一気に飲み干した。
 倉庫に戻った時、小南さんはもう服を着ていた。もう一戦交える気はなかったけれど、なんとなく残念な気分になる。そして、目が真っ赤に晴れている彼女に、一緒に買ってきたソーダを手渡した。

 「青山なんかと付き合った、自分のバカさを一生呪いなよ。あんなに高いところにいたのに、僕なんかにこんなことされてさ、小南さんも失墜したよね」

 僕は、口元にだけ笑顔を張り付けて、言った。さらに泣き出してしまった小南さんを無視して、今度こそ荷物も全部持って倉庫を出る。当然だけど、小南さんは引き留めなかった。
 後悔が無いわけではないが、どうせ明日になればこんなことも昨日になる。小南さんをレイプしたって、青山を殺したって、全部過去になる日が来る。それを思うと不思議と気持ちは軽い。もう僕に怖いものは、何もない気がした。

Re: 失墜 ( No.66 )
日時: 2016/11/08 07:25
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)
参照: 一週間フレンズ

 「なんかいいことあった?」

 家に帰って、荷物を部屋に運び、ベッドに倒れ込み、お腹が空いたとすぐに起き上がる。一昨日父さんの仕事の知り合いから、どら焼きの詰め合わせをもらったので、兄に食い散らかされる前に僕が食べてやろうと思った。廊下を抜けて、階段を降りているとき、偶然にもその大嫌いな兄とすれ違い、僕は舌打ちをする。階段の向こうでは、家を建てるときにどうしても付けたかったという、玄関先のステンドグラスが夕方の光を反射していた。
 立ち止まり、にやにやしながら問う兄から、視線をずらした。

 「……いいことなんか、ないけど」
 「そう? 顔に出てたぞ。どーせ、好きな女の子と話が出来たとか、そんなんだろ。いいなー、高校生は若くて」

 年なんて、少ししか変わらないのに。言い返したくなったが、こんな奴と会話をするのも嫌なので、僕は無視して階段を降りる。「今のうちに淡い青春の想い出作っとけよ」と、後ろから声が飛んでくる。
 今日は予備校はどうしたんだろう。僕と青山でなんとか撃退はしたものの、まだ青山のお姉さんにストーカーじみた行為をしていたとしたら、青山のお姉さんがいたたまれない。僕は意外とお人好しな人間なのだ。青山や兄のような、調子に乗った人間のクズが失墜していくのは大好きだけど、罪のない人間が不幸になるのは、単純に胸糞が悪い。
 冷蔵庫を開けると、すでにどら焼きの箱は空になっていた。

 好きな女の子とは、ろくに話も出来なかったけど、好きでもない女の子とは、さっきまで情事に及んでいました。お前がまだ知らない、女の味っていうのを知ってしまいました。
 なーんてね、と、鍵のかかった兄の部屋の前で呟いて、僕はくるりとUターンして、自分の部屋がある東の方の廊下へ向かって歩き出す。空になったどら焼きの箱には、カステラ、ポテトチップス、あとソーダが入っている。僕の家に常にスタンバイしてあるお菓子たちだった。
 もう一度ベッドに転がって、袋を開けて、真っ白の天井を見つめながら、一つずつ口に運ぶ。こんな穏やかな日々も、もうすぐ終わる。
 壁に立てかけてあるカレンダーの、「一日」のところには、赤ペンで花丸が書いてある。母さんが年初め、「はい、今年のカレンダー」と手渡したそれを、なんとなく使っていたけれど、僕の誕生日に印をつけてくれるなんて、粋な計らいをしてくれるものだ。気付いたときは少しうれしかったものの、それを母さんに伝えることは、まだできていなかった。
 青山瑛太殺害決行の十二日を睨みつけ、どうやっておびき出そうか、なんて、計画の細かいところまで考えはじめて、もう後には引けないことを知る。だけど左手に持つのはポテトチップスで、今諦めれば、僕はこれからもずっと、この生活を続けることができることにも、心が揺らぐ。
 僕は本当に、生活を投げ出してまで、青山を殺したいのだろうか。いやいや、今まで息をするみたいに、「僕は青山を殺す」と言ってきたじゃないか、何を今さら。頭の中で議論を交わす僕同士が、うるさくてかなわない。殺したい。殺さなきゃいけない。僕のためにも、瀬戸さんのためにも。だけど、考えただけで足がすくむのはなんでだろう。ここにきて怖がるなんて、ここで諦めるなんてことをしたら、今までのただ日々に文句を吐いて何もしなかった僕と変わらないじゃないか。
 やたらと楽しそうに笑う青山ばかりが頭の中で再生されるのを断ち切ろうと、カステラの袋に手を伸ばしたとき、鞄に入りっぱなしだったスマホが、ありがちな着信音を奏で始めた。

 「……もしもし、矢桐です」

 いかにも、「めんどくさい」という気持ちを前面に押し出して、僕は鞄からスマホを取り出して、電話に出る。相手の名前は見なかったけれど、もし瀬戸さんから連絡が来た場合、着信音はデフォルトではなく、僕の好きな「ロビンソン」が流れる仕様にしてあるので、瀬戸さんだという事は百パーセントありえない。

 『……あのさ、なんのつもり? あの動画』

 青山だった。出なければよかった。
 さっき小南さんをレイプした動画を送り付けたことを思い出し、「そんなこともあったなあ」レベルの僕は、頭の中で流れるロビンソンを嫌々停止して、ベッドに座って、諭すように言った。

 「この前言っただろ、レイプするって。埋めなかっただけ良かったと思いなよ」
 『……僕、今すごく機嫌悪いんだ。五万持って、駅前来てよ。十五分で』
 「……無理に決まってんじゃん……」

 家から十五分で駅まで行けるわけがないのに、飼いならされてしまった僕は、重い腰を上げるしかなかった。もう癖のような物だった。
 さっきまで躊躇っていたのが嘘のように、僕は醒めていた。カレンダーの「十二」と目が合う。どうせ、あと一週間もしないうちに、青山はこの世とはおさらばである。

 『一分でも遅れたら、殴るから。覚悟しとけよ』

 ぷつん、と一方的に電話が切れる。
 もう、小南さんはお前の女じゃないのにな。僕は急ぐ気もなく、のんびり準備をして、お手伝いさんに帰りの買い物のメモまで貰って、家を出た。



 はじめて、血が出るほどの暴力をふるわれた。青山はいつもやり方がうまくて、傷が残らない加減に僕を殴ったり蹴ったりしてくるのだが、今日はいつもとは違った。ただ力任せに僕を蹴り飛ばし、それに抵抗もせずにただ睨みつけている僕に、「いつからそんなに生意気になったんだよ」と、綺麗な顔を歪ませて何度も言い散らした。
 待ち合わせの時間には七分遅れた。僕にしては大健闘したほうだ。だけど、青山はすぐに僕を人のいないところに連れ込み、子供が手に入らないおもちゃを欲しがるみたいな暴力で僕をねじ伏せてきた。
 僕は、もう哀れにしか思えなくなってしまって、今も一方的な喧嘩に疲れて肩で息をしている青山を、コンクリートに横たわりながら、見下していた。さっきの小南さんも僕と似たような気分だったに違いない。

 「……ねえ、なんであんなことしたの?」

 汚いコンクリートにぽたりと、頬を伝った血が落ちる。青山はすぐ目の前にしゃがんで、猫なで声で僕に問いかける。ぱっちり開いた瞳の向こうに、どんな感情を抱いているのかは、三年くらい一緒にいるのだから、なんとなくわかる。

 「……」
 「ごめんごめん、もう怒ってないよ。ただ、もう別れちゃったけど、僕のものだった女の子が、あんな風になってるのが許せなかっただけで」
 「……じゃあ、お前はなんで瀬戸さんに手を出したんだよ」

 青山は、少し面食らった後、「へえ、それも知ってたんだ」と頬を緩めた。まるで、僕がこんな表情をするのを待ってました、と言わんばかりに。認めたくはないけど、認めなければならないくらい、整った顔立ちをしているからこそ、絶対的な恐怖を感じて、背筋が凍る。
 次は何を言い出すつもりだろう。身構えるつもりで、コンクリートから体を起こした。全身に痛みが走る。

 「……かまってもらいたかったんだ、矢桐に」

 静かな空き地の路地裏に、消え入りそうな声が、夏の暑さに溶けていく。
 思っていたより、凄くストレートな言葉だった。青山は、僕から目を逸らさないで、笑っている。

 「……は?」
 「矢桐だってそうだろ、僕の反応が見たくて、柚寿に手を出したんだろ」
 「それは、そうだけど」

 驚いた僕の口から、思わず滑り出る本音を聞いて、青山はふっと微笑んだ。なんだか嬉しそうだった。僕は青山が嫌がると思ってあんな行為に及んだのに、なんだ、これ。暑さで頭がよく回らない中、大嫌いな青山は、僕の手を取った。しっとり汗で濡れた手から、小南さんよりも熱い体温が伝わる。

 「矢桐も悪い奴で良かった。一途な女の子を弄んで、人間のクズだよな、僕ら」
 「……」
 「……今までの事、全部謝るから、これからも仲良くしてよ。僕にはもう、友達も柚寿も、なにもないんだ」

 コンクリートにつけた血の跡の上に、ぽたぽたと、大粒の水が落ちていく。僕はゆっくり、青山を見上げる。透き通った、角度によっては濃い青色にも見える大きな瞳から溢れる涙は、ソーダを零しているみたいで綺麗だった。ドラマの一部分のようで、僕はしばらくそれをじっと見ていたけれど、青山の方が僕から目を逸らして、薄いワイシャツの袖で目元を拭ってしまったので、僕も強制的に現実に戻り、青山の言葉を冷静に考え始める。
 これからも仲良くしてよって、今まで仲良くなかっただろ。僕と青山は絶対的敵対関係にあったはずだ。しかし思い起こされるのは、公園で酒を飲んだこと、恋の話をしたこと、球技大会を抜けたこと、兄を撃退したこと、なんだ、友達みたいな事ばっかりしているじゃないか。こんなはずじゃなかったのに。
 自分で傷つけておいて、「最初からこのつもりだった」と言いながら、青山はリュックから包帯と消毒液を取り出して、怪我を負った僕の手足に合うようにカットしはじめる。「中学校の時テニス部で、よくみんなケガしてたから、こういうのは得意なんだよ」と、泣き笑いみたいな表情を浮かべる。

 「……僕は、ちょっと矢桐のこと気に入ってるんだ。だから、お願いだから、僕が失墜して何もなくなっても、見放さないでよ」
 「……全部、お前が悪いのに」
 「そんなの、嫌って程わかってるよ。これから頑張るんだよ。金も取らないし、瀬戸さんともちゃんと、決着付けるし」

 白い肌が、少しだけ赤く上気している。青山が、「金を取るのを辞める」と明確に言ったのは初めてだった。なんでもできる青山は、その気になれば僕から自立することも、簡単にできてしまうんだろう。うっすら腫れた瞳と目が合う。目薬は持っているけれど、差し出していいのかはわからなかった。
 前髪を抑えられ、出血していた額に、大きな絆創膏が張り付けられる。濡れたティッシュが、血が伝ったのであろう頬をなぞる。
 僕は青山が大嫌いだ。こんなことで許すほど、器の大きい人間ではない。殺意はちっとも収まらないどころか、火に油を注いでいる。
 なんで、やっと殺そうとしたときに、こんな言葉をかけてくるんだ。最後くらい、笑顔で終わらせてくれ。僕が正義で、青山が悪だってことを証明したいのに、なのに、そんな風にされると、まるで僕が悪いみたいじゃないか。
 これだから、青山はずるい。天性の人たらしである。その人懐っこい言動に、今まで何度も騙されてきた。だから、今度は僕が騙す方だ。今の青山なら、僕でも欺ける。そんな自信がどこかにあった。

 「いいよ、仲良くしよう」

 ただし、一週間後に、僕はお前を殺すけど。
 途端に嬉しそうな顔になる青山を見ていると、馬鹿らしくてこっちも笑いそうになる。この瞬間をもって、僕らは「敵」から「友達」に昇格した。そして一週間後には、「加害者」と「被害者」になる。人生最後の一週間くらい、夢を見させてあげよう。そこから突き落とすのなんて、楽しいに違いないじゃないか。