複雑・ファジー小説

Re: 失墜 ( No.67 )
日時: 2016/11/10 02:55
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)

16 リバーシブル—
 シーツを握り締めた手が汗ばんで、この部屋のエアコンが壊れていることを思い出す。
 ラブホテルの中でも一番安い部屋なのだから、多少設備が悪くても我慢しなければいけないのだけれど、今まで全額出してくれた瑛太くんが、「今日は割り勘にしよう」なんて言い出すから、少し損した気分である。でも、こうやっている時が一番幸せだから、お金なんてどうでもいいんだ。くすんだ壁も、ベットとテレビしかない小さな部屋も、ぜんぶ大切な思い出になる。

 「……ねえ、こんな感じでいいの? ほんとうに?」

 うん、上手だよ、と優しく言って、瑛太くんは私の頭を撫でる。それが嘘みたいに心地よくて、今日もずぶずぶに、溺れていく。
 ベットに二人寝転んで、薄いシーツだけ被って、気持ちいい場所を探っては、恥ずかしくて目を逸らす。ときどき小さく漏れる吐息がなんだか可愛くて、背中に手を伸ばして、ぎゅっと抱きしめる。このまま時が止まればいいのに。時計は無情で、どんどん針は回っていくけれど、私はいつまでもこうしていたかった。
 エアコンの壊れた部屋の中、瑛太くんも暑いのか、額にはうっすら汗が滲み、白い頬を薄い赤に染めて、長いまつ毛の下に覗く大きな瞳からは、だんだん余裕が消えていく。乾いた唇を重ねた。わずかな水分を交換し合って、酸素が足りなくなって、頭も体も、この暑さに溶けてしまいそうになる。ねえ、好き、大好き。堪えきれない言葉があふれ出る私を、ほとんど光のない目で見つめる瑛太くんは、とてもきれいだった。
 息が荒くなって、私を抱く腕にきゅっと力が入るのを感じる。ただ触ってるだけなのに、気持ちいいとうわごとのように呟く瑛太くんが愛おしい。漫画とかでもよく見るけれど、女の子がこういった行為で満足感を得るには、ある程度時間もかかるし、相手との相性とか、その場の雰囲気とか、いろいろと面倒なのに対して、男の子なんて、こんな簡単に気持ちよくなってしまうんだ。単純で、馬鹿で、そして、どうしようもなく可愛い。

 「……今日は、瀬戸さんが上に乗ってよ」
 「うん、わかった。今日は私が上」

 まだちょっと痛いけど、好きな人のためなら、こんなの耐えてみせる。指を絡めて、もう一度抱き合って、キスをする。幸せだった。もう、付き合いたいなんてわがままは言わないから、ずっとこの居心地のいい関係に置いてほしい。
 そんなわがままは、最後まで言えなかったけど。

 瑛太くんがシャワーを浴びている間に、下着とワンピースに足を通した。彼はとても優しいから、いつも私に先にシャワーを譲ってくれる。柚寿と来たときは、二人で入ったりするんだろうか。もう別れてしまったという柚寿の事を考えるのはよくないのだけれど、やっぱり一番にはなれない私に、柚寿の存在はいつまでもついて回る。
 奪ってしまったストラップだって、矢桐くんがなんとかしてくれなかったら、私はずっと罪悪感に苦しめられていただろう。そういう意味では、矢桐くんは私の恩人である。もし、素直に矢桐くんの事を好きになっていたとしたら、今よりも気持ちも立場も安定して、ずっと前からの夢だった「彼氏持ち」の称号も手にできる。それでも私は、瑛太くんとの関係に溺れてしまう。いい加減自分の駄目さには気付いているものの、断ち切れずにいた。
 そろそろ諦め時じゃないの、と私は呟いてみる。シーツには、二人分の形跡がちゃんとある。
 ベッドの上に、小さな箱が置いてあるのに気が付いた。最初は灰皿かと思ったが、違うようだ。なんとなくその蓋を開けてみる。避妊具がふたつ入っていた。その生々しさに、私はいけないものでも見ているような気分になり、すぐに蓋を閉める。
 そこで私は、はっとしてゴミ箱に目を向ける。思えば私たちは一度も、つけたことがなかった。今までも、多分さっきも。慌ててスマホを鞄から取り出し、カレンダーのアプリを起動する。瑛太くんと会った日は、思い出としてちゃんと記録してあるから、その数字と、生理日予測を照らし合わせる。今のところ体調に異変は見られないし、とても運が悪くない限り、妊娠しているということはないと思うけれど、次からはちゃんとつけてもらわなくてはいけない。ふう、とため息を吐く。柚寿は大切にされていただろうから、きっと、ちゃんと避妊もしていたんだろうなあ。
 疲れてしまって、ぽすんとベットに倒れ込んだ。

 「この後ご飯食べに行かない? ちょっといろいろあって、奢ったりは出来ないんだけど、もうちょっと瀬戸さんと話したいなって」

 いつもは、ホテルを出たあとそのまま解散してしまう瑛太くんが、そんなことを言い出した。外はもう暗くなりかけていて、私は門限的にも家に帰らなければいけないのだけれど、瑛太くんとご飯を食べに行きたいから、笑って頷いた。
 柚寿と別れてから、瑛太くんは私を近くに置いてくれるようになったし、会う頻度も増えた。でも、「付き合おう」という言葉は出ない。つまり、そういうことだった。それまでの関係だったのだ。
 まだ柚寿の事が好きなのか、それとも違う女の子を狙っているのか、それは聞けないけれど、私は一番ではない。二番でもないかもしれない。理解しているはずなのに、通り過ぎていく女の子たちが、みんな羨ましそうに瑛太くんを見ていくのが気持ち良くて、自分から関係を断ち切る気になれなかった。入ったファミレスで、ミラノ風ドリアを頼み、それを待つ間も、周りの目が気になって、私はちゃんと釣り合えているかが心配で、何度も姿勢を正す。
 こんなに好きなんだから、ちょっとは報いがあってもいいのに。そう愚痴もこぼしてやりたくなる。私はまだ少女漫画的な恋愛に夢を見たいのだ。何の変哲もない、ただ英語がちょっと得意なだけの私が、学年でも指折りでかっこいい男の子と付き合う。そんな理想みたいな話が、ひとつくらいあってもいいのに。現実はいつも、思い通りにはいかない。
 ストローでジュースを啜っていた時、瑛太くんは突然、にっこり笑って私に聞いてきた。

 「……瀬戸さんは、誰かと付き合いたいとか、そんな気持ちになる事ってある?」
 「どうかな。良い人が居たら、思うかもしれないけど」

 恋愛の話だった。私はうまく返答が出来ているか解らない。目の前にいるあなたと付き合いたいの、なんて言えればよかったのに、恥ずかしくて言えなかった。もうけっこう告白はしているけれど、いつも曖昧にかわされてしまう。

 「……僕、やっぱり柚寿とやり直したいんだ。だから、今日で終わりにしよう。一方的でごめんね、瀬戸さんは可愛いから、すぐ彼氏できると思うよ」

 そんな私に、瑛太くんは最後の言葉を言い渡す。最初から用意していた文章をそのまま読むみたいな、平坦な声だった。
 私は何も言えなかった。いつかこうなることをわかっていて、この関係を続けていたけれど、私の中で保たれていた気持ちが、さらさらと崩れていく。だよね、そうだよね。ずっと見ていたから、知っていた。席替えの時も、球技大会の打ち上げの時も、瑛太くんは、ずっと柚寿を気にかけていた。どんな事情があって別れたのかは、私にはわからないけれど、悔しいくらいお似合いなんだから、たぶんいつでもやり直せる。

 「……そっか……」

 私に一瞬でも甘い夢を見せてくれた瑛太くんに、逆に感謝でもするべきなのかもしれない。だけど、それなら今日会った時すぐ言ってくれればよかったのに。最後の最後まで、体の関係を求められた、私の存在がどこまでも軽く思えてきて、なんだか、乾いた笑いが出そうだった。

 「うん、わかってたよ。私、好きだったけど。瑛太くんにお似合いなのはやっぱ柚寿だし、仕方ないよね」

 私は笑う。瑛太くんは、少し申し訳なさそうな表情になって、もう一度「ごめん」と謝った。謝ってほしいわけじゃなかったのに。
 これからも友達でいる約束をした。ああいう事をするのは今日で終わりだけど、近いうちに、またご飯を食べに行く約束もした。「今度は、僕と柚寿と、瀬戸さんとあいつで来れたらいいな」と言って、瑛太くんは弱く微笑む。

 「あいつって誰? 瑛太くんの、お友達?」
 「うん。もう聞いてるかもしれないけど、僕、矢桐と仲良いだろ。だから、今度は四人で来よう。あいつ、瀬戸さんと話したがってたから、仲良くしてあげてよ」
 「……二人も楽しいけど、四人っていうのも、賑やかでいいかもね。賛成」

 夜のファミレスで、二人で笑い合う。
 この瞬間から私たちは、汚れた関係から普通の友達になった。だから、もう恋はおしまい。やめなきゃいけない。まだふっきれは出来ないけれど、ケンカ別れよりはずっと良い。これからも楽しく笑い合えるのは、嬉しいことでもあるのだ。
 でも、適当に弄ばれて、都合のいい存在で、飽きて捨てられてしまったという事実は、これからずっと消えることはない。ファミレスを出たら、外は肌寒く、瑛太くんは逆方向に帰っていき、私は一人になった瞬間に、不意に泣いてしまいそうになる。
 恋愛って、こんなに切ないものだったのね。そういう台詞を吐けるほど、綺麗な関係では無かったのだけれど。
 公園のブランコに腰かけて、スマホを出して、親友の梓に電話を掛ける。まだ家には帰りたくはない。全部聞いてほしかった。馬鹿にされても良いから、今はとにかく、誰かと話していないと本気で泣いてしまいそうだった。

Re: 失墜 ( No.68 )
日時: 2016/11/11 03:04
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)

 「ばっかじゃないの? ほんとどうかしてる、死ね、さいってい、最悪、あんな奴、もう同じ空気吸いたくないっ」
 「……言い過ぎだよ、梓」

 電話すると、梓はすぐに来てくれた。梓は両親が共働きで、夜の遅い時間まで姉と妹しか家にいないらしい。だから、門限というものが制定されていないみたいで、私は梓と顔を合わせるなり、さっき出たばかりのサイゼリヤに連れ込まれてしまった。
 つい二十分前に食べたばかりのミラノ風ドリアの匂いを嗅ぎながら、店員と目を合わせないようにして、通された席に座った。適当な私服の梓が大人っぽく見えたのか、それともだらしなく見えたのか、テーブルの表示を見ると「喫煙席」とあった。すごく自然に禁煙席を選んでくれた瑛太くんとは違って、女同士で来るとたまにこういうことがあるから困る。居心地は良いけれど、男の人と居るときとはちがって、大切にされている感じはしない。
 梓は私の話を無言で聞いていたが、「避妊具を使ってなくて」くらいまで話が進んだところで、徐々に苦虫を噛み潰したような表情になって、さっきのやりとりまで話を終えると、激昂して先ほどのようなことを、周りも気にせず言い出したのだ。「死ね」という不穏なワードが聞こえたらしい。隣の席でタバコを吸っていたくたびれたサラリーマンが、ぎょっとした顔で梓の方を向く。

 「死ねばいいのに。私、前からだいっきらいだったけど、今回のでもう無理。京乃、なんであんな奴に騙されてたわけ? あんた小南の代わりにされてたんだよ?」
 「梓にはわかんないと思うけど、好きになったらそんなこと、考える余裕なんて無くて」
 「そんなゴミみたいな奴との恋愛なら、一生わかんなくて結構。ほんとムカつく、誰かに刺し殺されないかな、青山瑛太」

 はー、気分悪っ。梓は吐き捨てるように言って、酒を飲むようにウーロン茶を半分くらい飲み干す。学校で会う時よりも跳ねが目立つ茶色の髪も、適当に合わせてきただけの服も、サンダルも、「急いで来ました」という感じだった。瑛太くんと会う時は、私は私なりの最大限のおしゃれをしていたので、こうしていると私たちは周りから見ると不自然な二人かもしれない。もっとも、深夜のファミレスはすでにガラガラである。だから、梓が「刺し殺されないかな」なんて割と大きな声で言っても、隣のサラリーマンが吐き出した煙に溶けてしまう。
 現実主義で、いつも冷めている梓がこんなに怒るのを初めて見た。そんなに瑛太くんが嫌いなのだろうか。

 「……前からおかしいと思ってたのよ。顔が良くて勉強も運動も出来るくせに、自惚れもせずに周りに愛想ばっかり振りまいてさ。そういう完璧人間って、絶対裏ではいろいろやらかしてるわけよ。ああ、すっきりした。小南もだけど、ああいう人間味を感じない奴って、何するか解らないから怖いのよ」
 「……梓が言う程、悪い人じゃないよ」
 「なにそれ、まだ好きなの?」
 「……わかんない、けど」

 梓は、呆れたように私を見ている。私の返答が曖昧なのを見て、それはだんだん苛立ちに替わっていく。
 私は、梓が怖くなってきた。目の前の人間が、怒っている。怒りを露わにしている人に対して、私がこれまで覚えてきた対処法は、とにかく機嫌を取ることしかなかった。しかし、今の梓は、瑛太くんに怒っているのか、私に怒っているのかがわからない。

 「……ごめん」

 取り繕いのつもりはなかったけれど、出てきた言葉は謝罪だった。

 「なんで、あんたが謝るの」

 はあ、と、静かな店内に、ため息がひとつ、こぼれて落ちた。梓と目を合わせるのを怖がっていたけれど、いざ顔をあげて視線が絡むと、彼女は怒りを通り越して、諭すみたいな表情に変わっていることに気付いた。
 そして、口調の強さはそのままに、梓は話し出した。

 「私は、あんたのこと、大事な友達だと思ってるの……! あんたは他にも友達がいっぱい居るんだろうけど、私には京乃だけ。だから、もっと自分の事大事にしてよ。京乃がくだらない奴と関係持って、辛い思いするのは嫌だし、それをなんとか止めてあげることが、親友として、できることだと思ったの!」

 声が震えていた。最初は私の方をしっかり見据えていた視線もだんだん下がり、調子も弱くなっていく。それでも、梓が私に伝えたかった事は、下手な少女漫画よりも綺麗な感情だった。さっきまで怖がっていたことも全部忘れて、珍しく感情をあらわにした表情をしている梓を見ていた。

 「……京乃は私よりもずっと可愛いし、男子にも密かにモテてるんだから、あいつよりもかっこよくてまともな彼氏、すぐできるから。だから、早くまともな男作って、私におこぼれ紹介してよ」
 「……うん、ありがと、梓」

 私は、笑顔を浮かべて梓に言う。そして、「梓が仲のいい友達で良かった」と付け足した。すると梓は、とたんに顔を赤らめて、なにそれ、いきなりそんな事言わないでよ、と取り乱し始めた。梓だって、十分可愛い女の子である。カフェオレを口に運んで、私はあたふたしている梓をずっと見ていた。
 私は、思っていたよりもずっと、周りに恵まれていたらしい。心配しなくても、瑛太くんとの関係はもう終わっているようなものだし、あとは遊んで全部忘れて、次の恋に向かうだけだった。
 しかし、梓は「避妊しないとかありえない、なんか仕返しをしないと気が済まない」と言っている。

 「仕返し? なにするつもり?」
 「……あ、そうだ。あんた、青山に『生理が来ないんだけど、どうしよう』ってラインしてよ。それで、無様に京乃に謝ってるところに、私が現れてネタバラシ」
 「梓、性格悪っ」
 「むしろ、あいつに架空の中絶費用払わせよっか? その金で、夏休みは二人で旅行に行こうよ。どうせあいつ金持ちだし、それくらいぱっと払ってくれるって。慰謝料だと思ってさ、ね」
 「……あはは、梓って面白い」
 「冗談で言ってる訳じゃないの。京乃はそれだけの事をされたんだから、それ相応の仕返しをしなきゃ」

 私を見る梓の瞳は、こっちを黙らせてしまうくらい本気だった。
 責任は取らないからね、梓がやってよ。私はそう言いながら、スマホを梓に渡す。難しいことは解らないけれど、これって架空請求にあたるのではないだろうか。
 しかし、確かに瑛太くんはお金持ちである。今までも何回も奢ってもらった。私との関係は、周りにも隠し通したいだろうから、梓の言う通り、ちょっと脅せば簡単に金をくれそうではある。さっきの態度を見る限り、私に対しては本当に申し訳なく思っているだろうし、体だって何回も差し出したんだから、少しくらい、いいよね。

 「どこ行く? ディズニー? それとも、名古屋の方まで行っちゃう?」

 パンフレット貰ってこなきゃ。私たちは笑顔で、未来の計画を語り合う。梓が、ぽちぽちと画面に文字を打ち、「送信」をタップする。
 深夜のファミレスは、相変わらず閑古鳥が鳴いていた。