複雑・ファジー小説

Re: 失墜 ( No.69 )
日時: 2016/11/13 02:28
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)

16 魔法が使えないなら
 空虚な日々を過ごしているけれど、あなたはどうですか。
 目の前が霞んで何も見えなくなって、道が途絶えるくらいなら、自分から道なんか外れて、どん底まで墜ちてやるわ。

 「……なーんてね」

 なんとなく家から持ち出してしまったカッターを、ポケットに仕舞った。数学の時間は酷く退屈で、放課後の予定を思い出しては、鬱屈した気分になってしまう。それならいっそ忙しい方がずっと良くて、反射する窓越しに、後ろの方に座っている別れた元恋人でも眺めていると、彼はいつも通り、真面目に授業を受けていた。
 私は酷く空っぽで、もう何もなくなってしまった。目の前で繰り広げてある数式も、少しも理解が出来なくなった。夏服のワイシャツは、肘まで捲ってある。まだ日には焼けていない、おそらく焼けることもない白い手首に、今この場所でカッターを突き刺したら、私は放課後彼らの元へ向かわなくてもいいのかなと、うつらうつら考えるけれど、そんなことは私の美意識に反するから、やめた。
 努力することを辞めた私の堕落は凄まじかった。まず、勉強が何もわからなくなった。今はここに平然と座っているけれど、次のテストはもう、どうなるかわからない。次に、ぼーっとしてることが多くなって、紅音達との会話でもうまく立ち回れなくなってきたし、体育でも平凡なミスばかり繰り返すようになった。明日が怖くて眠れず、肌の調子も崩れている。もはや小南柚寿じゃなくなった私に、何の価値があるのだろう。その答えはまだ、見つけられない。

 「……柚寿、ちょっといい? あんたさぁ、翔とやったでしょ?」

 昼休み。紅音は私を、真っ直ぐ見据えている。
 いつものように学食で、紅音達とご飯を食べていた。私はもう体重管理をやめていたので、好きなものを食べてもいいのだけれど、食欲が無かったのでサラダだけを食べていた。すると紅音が、突然、私に用事がある、二人きりで話したいと言い出して、優奈やみちるを放って、私を連れ出したのだ。人気の少ない廊下の窓に体の半分を預けて、長い髪を指先で弄びながら、紅音は私にそう言った。

 「……別れたって聞いたし、向こうが誘ってきたし……」

 紅音が私に敵意を向けるのは初めてだったので、少し怖くなって目を逸らす。
 渋谷くんとは、今でも続いているし、今日の放課後も会う予定だった。でも、付き合っているわけではない。付き合おうよとは言われたけれど、私が返事をしていないので、ずるずると体の関係だけが続いている状態にある。

 「あのさ、元カレとは言えども、そう簡単に取らないでくれない?」

 紅音は、まだ渋谷くんの事が好きみたいだ。私もそれは知っていた。
 渋谷くんとこの前ご飯を食べに行ったとき、彼は、「紅音が復縁しようってうるさくて困る、柚寿ちゃんから、もう連絡してくんなって言ってくれないか」と笑いながら言っていた。彼は情が薄くて、紅音を人間以下と認識しているらしくて、付き合っていた女の子に対するとは思えない暴言をいくつも吐いた。私はそれに若干の恐怖を覚えながら、私もこんな風に言われていたら嫌だなあ、なんて思っていた。
 紅音に本当の事を話したら、もう友達ではいられなくなるかもしれない。
 でも、気を遣ってばかりで、本当のことも話せないなんて、そんなの友達じゃない。
 私は迷ったけれど、思えば私はもう、みんなに愛されていた小南柚寿ではないのだから、なんでもいいや、と考えて、紅音に話すことにした。乾ききった唇を開く。

 「渋谷くんは、もう紅音とは、話したくないって言ってる」
 「……はあ? あんたに翔の何がわかるの? まさか、付き合ってるとか言わないよね?」
 「付き合ってないよ。でも、昨日も会ったし、今日も会う。次の女が出来るまでのつなぎで付き合っただけだから、本気になられると困るんだって。もう連絡しないでほしいって言ってた」
 「……っ、なんなの? 私のこと、そんなにバカにして楽しい? ちょっと翔に気に入られてるからって、生意気なのよ!」

 紅音が、見たこともないくらい激昂している。廊下を通り過ぎる人たちが、私たちを一瞥して、関わりたく無さそうな目をして、通り過ぎていく。私はそれを何も思わずに見つめていた。ただ、綺麗になったと思っていた紅音が、ぼろぼろになっているのに気づいて、気の毒だな、と感じただけだった。アイラインは歪み、髪は軋みが目立ち、重そうな作り物の二重の瞳には、疲れがありありと見えている。私も似たような物なんだろうけれど、目の前にいる女は、美人では無かったが、健康そうな顔立ちをしていた、前までの紅音とはかけ離れていた。

 「だいたい、翔の周りに、あんたが居たのが良くなかったのよ。翔は事あるごとに柚寿と私を比べて、本当は柚寿と付き合いたかったとか、そんなことも平気で言うし、邪魔なんだってば!」

 振り上げて、私を殴ろうとした紅音の腕を、ぱっと掴む。
 廊下を通り過ぎていく人間は、ついに途絶えた。もともと人気のないところだったから、昼休みも終わりかけている今、わざわざここを通ろうともしない。
 私は、瑛太にすべてを取られてしまったあの子のまねごとのように、無言でポケットからカッターを取り出した。そして、出しっぱなしだった刃を向ける。何よ、と上ずった声で紅音は言う。まさか小南柚寿がここでカッターを取り出すとは思わなかったのだろう。私も、小南柚寿がそんな人間だとは思えない。だけど、私はもう、あんな完璧に取り繕う事が出来る、良い子ではないのだから。

 「……くだらないことで、そんなに騒がないでよ。殺すよ?」

 時の止まった私たちだけの廊下で、私の低い声が響く。
 紅音はその顔を恐怖と驚きと怒りでいっぱいにして、私の腕を振りほどいて、反対側に向かって走り出して、居なくなってしまった。恐らく、人がたくさんいる、暖かい方へ。私はどうにもできなくて、ただカッターを見つめている。
 矢桐くんも私に同じようなことをしてきたけれど、あの時の私もあれくらい間抜けだったのかな。カッターを廊下に投げ捨てて、私は教室に戻ることにした。その日は放課後まで、紅音には話しかけられなかった。



 「調子乗んな、青山くんに振られたゴミクズのくせに!」

 放課後になり、授業から解放された私たちは、一斉に校舎から吐き出される。部活に行く生徒も居れば、友達と遊びに行く女子たちも居るし、家に帰って趣味に精を出す人もいる。
 私は、ゴミ捨て場で倒れ込んでいた。紅音が私の体を思いっきり蹴る、その横で、優奈とみちるが楽しそうに笑っている。汚いゴミに体が埋もれて、何度もお腹を蹴られて、吐きそうなのに胃液すら出なかった。紅音はともかく、優奈とみちるは、私がいつもフォローしてあげていたのに。裏切られたというか、しょせんそんな関係だったんだと思うと、涙ももう出なかった。
 瑛太に振られたんじゃなくて、私が振ったのに。言い返す前に、また強く体を蹴られて、全身に鈍い痛みが走る。私の血で、捨てられていたティッシュに赤が滲む。ゴミ捨て場のドアの向こうに覗く光に向かって、助けを求めて手を伸ばすのに、それは簡単に遮られてしまう。

 「私、あんたのこと、ずっと嫌いだった。ちょっと美人だからってまわりにちやほやされてさあ、かっこいい彼氏も居て、成績も良くて、周りに愛されて。今まで仲良くしてたけど、恋も邪魔されて、もう限界。あんたの存在がずっと私を苦しめるんだ。いなくなっちゃえばいいのに」

 清々しいくらいの全否定を浴びせられる。その後ろで、優奈とみちるが、くすくすと笑う。二人も私の事をそう思っていたのだろうか。
 あーあ、やってらんない。友達だと思ってたのに。私、死ぬほど頑張って、なんでもこなしてきたのに、全部無駄だったんだ。瞳を閉じる。いっそ、このまま気絶してしまいたかった。

 「……わ、びっくりした」

 意識が朦朧としてきたとき、突然、紅音と優奈とみちる以外の人間の声が聞こえた。眼を開くと、待ち望んでいた光の向こうに、よく見知った女子が居た。同じクラスの瀬戸京乃だった。今日は掃除当番でゴミ捨て担当だったのか、手には二つ、緑のビニールのゴミ袋が握られている。夕方の光を浴びている彼女が、救世主のように見えた。

 「ね、今見たことは全部黙っててくれない?」

 紅音が、営業スマイルを浮かべて京乃に近づいていく。京乃は、倒れ込んでいる私と、紅音と、優奈とみちるを順番に見て、大抵の事情を察したのか、微妙な表情になる。
 お願い、助けて。そう言おうとしても、口がもう開かない。紅音への恐怖と、あと口の中が切れて、腫れてしまって、上手く動かないのだ。
 立ったまま硬直している京乃と目が合う。綺麗な色をしている瞳が揺らぐ。助けて、と口を動かすと、京乃はさらに困ったような顔になっていく。でも、見て見ぬふりは出来ないのか、紅音に何かを言いかける。その瞬間、いつもより高くて調子のいい優奈の声に遮られた。

 「あたし見たんだけど、京乃、青山くんと一緒にラブホテル行ったでしょ? 一昨日くらいだった気がするー。好きなの? 付き合ってる訳じゃないでしょ?」
 「……そ、それは」

 京乃は、ぱっと優奈に向き直って、ビニール袋を持ったまま慌て始める。図星みたいだ。
 なにそれ、と私は、ぐらぐらした頭を更に混乱させる。京乃が、瑛太と? 瑛太は付き合っている間、京乃の話なんて一切しなかったし、したとしても、特別好意的な温度は感じなかった。ただひとつだけ心当たりがあるのは、この前矢桐くんに体育館裏で無理矢理襲われたとき、彼はひっきりなしに、無意識下で私じゃなくて京乃の名前を呼んでいたことで、多分矢桐くんの好きな人は京乃なんだろうなあ、と思ったくらいである。瑛太と矢桐くんの関係なら、矢桐くんの好きな人くらい、瑛太は知っていそうだけど、それでも簡単には理解できない。

 「なにそれ、面白ーい。柚寿も結局浮気されてんじゃん」

 紅音が、甲高い声で笑う。京乃は気まずそうに眼を逸らす。そして、「ごめん、柚寿」と謝った。京乃が謝る事ではないし、瑛太とはもう付き合っていないのだから、誰と何をしようが勝手である。だけど、なんだかとても気分が悪い。綺麗だと思っていた京乃が、歪んで見えてくる。

 「こいつさ、人の男すぐ取るビッチだし、もう京乃が青山くんと付き合えばいいじゃん? そっちの方がお似合いだよ。京乃もよく見ると可愛いしさ、いいんじゃない?」
 「……」
 「京乃もやりなって。実はあんたも心の奥底で、柚寿のこと嫌いだったでしょ? いいって、誰にも言わないから」

 紅音が、京乃の持っているビニール袋を取り上げる。そして、結び目を解いた状態にして、また渡した。これを私に浴びせろ、ということらしかった。

 「……ごめん」

 小さく謝る声が聞こえた後で、がらがらと大きな音を立てて、私にゴミがなだれ込んでくる。弁当の空や、ティッシュや丸めた紙はともかく、ペットボトルに残っていたジュースまで私の全身に降り注ぎ、べたついた髪が頬に張り付いて気持ち悪い。
 あはは、と紅音達は笑っている。柚寿なんて、クラスの誰にも好かれてなかったんだよ、残念。優奈が笑い飛ばす声が、とても遠くに聞こえる。ごめんなさい、私はもう駄目みたいです。キラキラして、輝いていたあの頃の私が、今の私を見て泣いている。そんな夢を、日が暮れるまで見ていたような、そんな気がした。放課後はループのように、いつまでも続いた。

Re: 失墜 ( No.70 )
日時: 2016/11/14 02:13
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)

 何度も何度もやめてと叫んだけれど、私は解放されなかった。これまでの恨みを、全部ぶつけられているらしい。京乃がそそくさと姿を消した後も、紅音達はやめてはくれなかった。
 球技大会を途中で抜けてしまったこととか、そんな昔のことまで、わざわざ掘り出して、紅音は私を口汚く罵る。ゴミで埋もれた視界に、光は映らない。モノクロになった世界には、何も残っていなかった。
 そんな私の世界に、鮮やかな赤が飛び込んでくる。はっと瞳を見開く。紅音が振りかざしていたのは、大きなハサミだった。家庭科室から持ち出したのか、普通に筆箱に入っているようなハサミとはわけが違う、人だって殺せてしまいそうな、大ぶりのものだった。後ずさりをしようにも、手に粘つくゴミが、そうさせてはくれなかった。

 「もう、あんたにはなにもないんだからさぁ、なにされたって、なんともないんじゃない?」

 どうしよう、殺される。思いっきり目を瞑った瞬間、ゴミでまみれていた、私の長い髪が、強い力で引っ張られた。痛みに悲鳴をあげそうになる前に、ハサミ特有の、物を切った時に鳴る、さくりという音が、耳のすぐ近くで聞こえる。

 「……うそ、なんで」

 切り落とされた私の髪が、ゴミと一緒に散らばっていた。肩よりも短くなってしまった右側の髪の毛先が、頬に突き刺さるように張り付く。

 「その綺麗な髪も、自慢みたいで嫌いだったんだよねー。ああ、すっきり」

 紅音が、あはは、と高い声で笑う後ろで、同調するように優奈たちも、私を見下している。
 この時、やっと涙が頬を伝った。ずっと伸ばしてきた髪だった。嬉しかったことも、辛かったことも全部一緒に覚えている。瑛太に綺麗だと何度も褒められて、それが好きで、手入れを毎日欠かさないようになったんだっけ。私が私でなくなってしまったことが、今度は視覚としてはっきりと伝わる。
 私が泣き始めて、ついに我に返ったのか、優奈が、「ねえ、やばくない?」と紅音に耳打ちをする。私は痣だらけで、ゴミまみれで、髪も変な位置で切られて、長いところも短いところもある。紅音が私にこんなことをしたと知れたら、確実に停学である。私は大人に告げ口する気はないけれど、さっきまでここにいた京乃はこの現場を目撃したわけだし、このままゴミ捨て場で騒がしくしていたら、バレるのも時間の問題だ。
 紅音もそれを察しているのか、はたまた私で遊ぶのに飽きたのか、舌打ちを残して、後ろのふたりを引きつれて、ゴミ捨て場を去っていった。
 ばたんと扉が閉じて、嘘みたいな静寂が私を包む。
 明日から、どうやって生きていけばいいんだろう。ていうかまず、どうやって帰ればいいんだろう。私は絶望の中、投げ出されていた鞄からスマホを手に取り、ラインで会話した履歴を確認する。並ぶ名前は渋谷くん、紅音、優奈、みちる、瑛太、椿、あとは家族くらいで、私って全然友達が居なかったんだな、とまた、知りたくもないことを知ってしまう。ふっと消えてしまった心の炎が、スマホごと手放して、何も考えたくない頭が無意識に言葉として送り出し、「死にたい」と口でなぞる。

 渋谷くんもたまには役に立つもので、彼と行った、学校から一番近いラブホテルを借りる、という決断に至ることができた。それまでの道のりは、できるだけ人の少ない道を選んだけれど、疲れ切った顔をして、服も髪も汚れきった私を見て、すれ違う人間たちはみんな、ぎょっとしたような顔をしていた。これまで赤の他人に羨望の視線を向けられていた私が、今はそんな、蔑む目を向けられている。堕ちるところまで堕ちてしまったと、思わずにはいられなかった。
 安っぽい風呂のシャワーで、体を全部洗い流す。傷口に染みて、もうどこが痛いのかもわからない。白い腕が大きく擦り剥けて、赤く変色していた。シャワーを少しだけ緩めて、汚れてしまった部分に当てる。ひりひりして、思わず目を瞑りそうになった。
 幸いなことに、私はいつも絆創膏を持ち歩いていたから、多少の傷はなんとかなる。体育があったから、ジャージも持ち帰ってきていたので、汚れた制服で帰らなければいけない、ということもない。
 だけど、鏡の中に映っているこの女は、もう私では無かった。泣きすぎて腫れた瞼も、眠れない日々が続いて消えなくなったクマも、そして、肩の少し上で跳ねている、ぐしゃぐしゃの髪も、まるで別人のようだった。保っていた四十五キロよりすごく不健康に痩せた体を自分で抱きしめる。ぬるいシャワーはまだ、傷だらけの体に降り注ぐ。
 頼れそうな人を、順番に思い浮かべてみる。渋谷くんは論外、紅音達もだめ、椿にこんな自分を知られたくない、親には迷惑を掛けたくない。瑛太は無関係の人。じゃあどうすればいいだろう。目の前に横たわる現実から逃れる手立てを考えて、何もないことに気付き、シャワーをやっと止める。そして、それを首にぶら下げてみる。流石にこんなに短いヒモじゃあ死ねないけれども、こんなことをすれば、怖くて仕方がない明日も、もう永遠に来なくなる。そう思うと、自らの手で明日を絶ちたくなった。
 もうすぐ、私は死ぬのだろう。今までは、死の淵のぎりぎりを歩いて来ていると思っていたが、もうそれすらかなわないようだ。小南柚寿という女の子は死んでしまった。あとは、今ここにある、残骸みたいに残っている体をどこかに投げ出すだけ。
 それだけなのに、なんで涙が止まらないんだろう。鏡の中の女は、ひどく崩れた顔を隠しもしなかった。そんなことさえもできなかったのだ。

Re: 失墜 ( No.71 )
日時: 2016/11/18 03:11
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)

 家に帰った時、ぼろぼろの私を見て、お母さんはすごく慌てていた。紅音たちとの事を全部話そうかと思ったが、実の親に、彼氏である瑛太以外の男と、自分の意志で体の関係を持っていることをどうしても知られたくなかったので、「帰り道にレイプされた」と嘘をついた。無表情のままの私を、辛かったね、ごめんねと言いながら抱きしめるお母さんの体温は私よりもずっと暖かく、「そんなこと言わないでよ、本当は全部私の自業自得なんだから」と、思わず言いたくなった。
 もう一度風呂に入り、傷の手当てをしてもらって、汚れた制服をクリーニングに出しに行った帰り道、お母さんは警察に相談することを提案してきた。だけど、もう思い出したくもないから、忘れさせてほしいと、また嘘をついてしまった。車はゆっくりと家の敷地に駐車し、私はふらつく足取りで部屋に向かう。
 今日は、柚寿の好きなハンバーグにしようねと、台所でお母さんが、無理やり明るさを装っている。外は夕焼けが滲み、夜が来て、また朝が来る。それを考えるだけで吐きそうになるのに、「明日からはお母さんが車で学校まで送り迎えするから」と真剣な顔で言うから、私は休むことも許されないのだった。
 少しだけ眠って、起きたら午後七時だった。今までの私なら、この時間はまだ瑛太と遊んでいるか、紅音達とご飯を食べていた。もう全部失った私は、スマホを見る気力もなくし、ベッドに死んだように横たわっている。
 体重はどうなっているだろう。美容のサプリも、もう一週間はサボっている。明日の小テストだってきっとボロボロだ。どうしたんだよ、小南と問いかける、不安そうな顔の担任が思い浮かぶ。ごめんなさい、私はもう小南柚寿ではないの。魔法が使えなくなった私は、その辺にいる女の子よりちょっとどんくさくて何もできない、有無現象みたいな存在なんです。

 「柚寿、椿くん来てるけど、どうする?」

 洗濯物を持ったお母さんが、私の部屋の前で、不安そうな表情を浮かべている。はて、と私は首をかしげる。
 借りていた漫画を返せとの催促だろうか。なにも、今日来ることもないのにと思う。私は、「椿なら大丈夫よ」と、何が大丈夫なのか解らない言葉と共に笑顔を残し、部屋着のまま階段を降りていく。言葉通り、ビニール袋を手に提げた幼馴染が、玄関のドアの前に立っていた。

 「どうしたの? 椿の方から来るのって珍しいね」
 「さっき、駅前で柚寿っぽい奴見たけど、やっぱりお前だったのかよ。髪切ったんだ」
 「まあね」

 無理やり明るさを装って部屋まで誘導し、私はベッドに座って、椿は学習机に付属してある回る椅子に座る。部屋に来ると、すぐ私の隣に座ってあれやこれやと甘い言葉をささやいてくる瑛太とは違って、私たちの間にはいつも一定の距離感があった。付き合っているわけではないので当たり前なのだけれど、ここ最近は渋谷くんや矢桐くんなどという人たちに好き放題されてきたので、感覚が麻痺しつつある。椿はそんな人たちとは比べられないくらい優しいから、一緒にいると少し気分も落ち着くのだった。

 「それで、なんか疲れてそうだったから気になったけど、この前よりは顔色も良くなってるし大丈夫だな」
 「それだけのために家まで来たの?」
 「別にいいだろ、通りかかったんだから」

 何の用事もないのに、女の家に上がり込むなんて。私は少し面白くなって、声を出して久しぶりに笑った。椿は、私がなぜ笑っているのか解らない、と言った感じに目を見開いて私を見つめる。
 私は、その変な笑顔のまま、ずっと一緒に過ごしてきた幼馴染に言う。返答次第で、これからの関係が一変する質問だと、わかっていてもなお、聞いてしまった。

 「ねえ、こうやって部屋に来るとさぁ、期待ってするの? もしかしたら、えっちできるかもしれないとか」
 「……は? どうしたんだよ」

 ふやけた半笑いの私と、突飛な質問をぶつけられて明らかに目が泳ぐ椿。なにしてるんだろうと、自分でも思うけれど、私は気を抜けば寂しさに負けて目の前の椿に抱き着いてしまいそうだったのだ。
 もう、誰とでも関係を持ってしまう自分への嫌悪感は消えていた。むしろ、どろどろになるまで溶かされて、全部忘れたいくらいだった。男の子が、こうするとみんな落ちるのは知っている。潤んだ瞳で、もう後には引けない幼馴染の彼を見上げる。
 しかし、数秒おいて、ため息のあとに帰ってきた返答は、私の予想を大きく逸していた。

 「ばっかじゃね。柚寿はそういうんじゃねえよ、そもそも付き合ってないし、俺好きな子じゃないとたたねーし」

 椿の声で、はっと我に返る。変にはだけた自分の服装が急に恥ずかしくなり、外はもう夏なのに、慌てて厚いタオルケットを体に巻き付ける。
 思えば、そうなのだ。椿の言っていることは正しい。こういう事は、好きじゃない子とはしてはいけない。私は、ちゃんとわかっていたはずなのに。だんだん醒めていく気持ちの中で、さっきまでのふやけた自分を殴りたい衝動に駆られる。
 全身の力が抜けて、その場にへたり込みそうになった。そして、それを誤魔化すような照れ笑いを浮かべた。

 「だよねー……。なにやってんだろ、私。ごめん、最近いろいろありすぎて、ちょっとおかしくて……」
 「知ってた。いきなり髪切るのもおかしいと思ったし、この前も病院で突然泣き出すし」
 「……優しいんだね」

 まだ私の事をこんなに気遣ってくれる人が居るとは思わず、そんな言葉が息のように漏れる。今日だって、私を気遣って、お菓子を買ってきてくれたらしい。
 「椿と付き合ってたら幸せだったのかなあ」なんて余計な事まで、口を滑らせてしまう。私は、こういう人並みの幸せがずっと欲しかった。椿のためなら、このどん底からもスタートできるかもしれない、そんな期待すらあった。
 そして椿は、小さく口を開く。

 「……もう、おせーよ」
 「……え?」
 「俺だって、柚寿と付き合いたかったけど、柚寿はエータくんと付き合ってるから、諦めたんだ。それで、ちょっと前に、やっと彼女が出来た」
 「……」
 「今はその彼女が大事だから、柚寿のことはそういう目では見れない」

 外は、どんよりと深い青に包まれていた。氷みたいな椿の声が、夏の暑ささえ冷やしていく。理解の及ばない頭が、熱くなったり寒くなったりして、私にはどうにもできない。

 「なんで、今なんだよ。あと二週間早く言ってくれよ」
 「……ごめん……」

 やりきれない沈黙が、部屋の空気を重くしていく。なにか言いたくても、何を言ったらいいかわからない。椿も同じらしく、目が合って、そして逸らして、を何回か繰り返した。そのうちにお互いとうとう間が持たず、交わした言葉は、
 
 「……お幸せに」
 「……うん、ありがと」

 で、当事者ながら、気の抜けた、社交辞令みたいなやり取りだと思った。
 お母さんが、椿くんも夜ご飯を食べていかないかと、優しくドア越しに問いかけている。いらないと私は言い放つ。椿はまだ気まずそうに、私の本棚に並んでいる、安っぽい少女漫画を見ていた。



 「髪、短い方が似合ってんじゃん。僕はそっちの方が好きだよ」
 「……それはどうも。矢桐くんと同じくらい短くなっちゃったけど」

 次の日の朝、下駄箱で矢桐くんと会った。私が家で、自分で切って長さをそろえた髪は、肩の少し上で跳ねている。長い髪は私のチャームポイントだとひそかに思っていたけれど、トリートメントをしなければ艶は保てないし、所詮素人が切ったのだから、長さも綺麗には揃わなかった。
 矢桐くんは一瞬私の事をけなしているのかと思ったが、彼は回りくどい言葉は使わない印象があったので、素直に褒められたのだろう。全然嬉しくないけど。
 靴を履き終えた私は伸びをする。皺のない夏のワイシャツが、ぴんと伸びた。

 「……あー、ねむい」

 昨日は全く眠れなくて、夜中まで布団の中で震えていたので、朝の光が眩しくてかなわない。矢桐くんも夜遅くまでゲームをしていたのか、眠そうに、その大きい瞳を擦っていた。教室までの道を一緒に歩きながら、私は小さい欠伸を何度もした。
 そして、ふう、と息を吸って、機会があれば彼に聞きたかったことを問いかける。

 「京乃の事が好きなんでしょ? あんなに名前呼んでたもん」

 意地悪のように、私は笑顔を浮かべる。矢桐くんは、思っていたより、その無表情を崩さなかった。

 「……そうだけど、だからどうしたんだよ」
 「頑張ってね、京乃可愛いから、競争率高いかも」
 「もう、あの子の事は諦めるよ。だって僕、近々青山を殺すんだ」
 「あはは、矢桐くんって面白い。そうだよ、あんな奴、殺しちゃえばいいんだ」

 だって、私ももうすぐ死ぬしね。そこまでは言えなかった。
 矢桐くんは時々面白い冗談を言う。冗談の割には、瞳の奥にはかつてないほどの決意が見えているし、この前差し出してきたカッターは、頑張れば人も殺せそうだった。一瞬、もしかしたら本気なのではと思うけれど、矢桐くんにそんな殺人をやるだけの度胸があるとも思えないし、あんなだめ人間のために、自分の人生を投げ打つ必要性もない。
 矢桐くんと階段を登りながら、スマホの手帳のアプリを開く。デザインが可愛くて、気に入っていたアプリだが、友達も恋人も居ない私には、もうずっと予定が無い。あるとしたら渋谷くんや矢桐くんとの体の関係だけど、そんなもの、ここにわざわざ記録しておくに値しない。
 目星をつけたのは、六月十二日、金曜日。朝の電車に体を投げ出そう。小南柚寿は、やっとちゃんとした形で、終わることができる。
 僕はあいつを殺して英雄になるんだと語る矢桐くんの隣、ありふれた生活、教室の冷たさ、全部、あと少しでおしまい。魔法の使えなくなった私は、もう死んでいるようなもので、今日も魂の抜けた体を引きずっている。「あ、そういえばさぁ、今日の放課後、また体育館倉庫に来てくれないかな」と、階段の途中で突然矢桐くんは私の腕を掴んだ。
 にっこり笑って頷いた。生暖かい風が、私たちの間を吹き抜けていった。