複雑・ファジー小説
- Re: 失墜 ( No.84 )
- 日時: 2017/01/09 03:43
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)
22 少女漫画少年漫画
六月十二日。私の死んだ魂が入った入れ物を、線路に投げ出す日だった。一睡もできずに日が昇り、よれてぐしゃぐしゃのワンピースに着替え、洗面台をそのまま通り過ぎて家を出た。ふと目が合った鏡の中の私は、虚ろな瞳をして、首回りで跳ねた変な髪型をしていて、肌の色もくすんで、もはや私では無いようだった。早朝。家族はみんな眠っている。こんな時間に家を出るのは初めてであり、そして、もうここへは戻らない。誰も居ない、冷たい空気の中で、私の足音だけが不規則に鳴っている。
最期に口にするものは、コンビニの暖かいコーヒーが良かった。だけど、私は財布もスマホも持っていなかった。ついてないな。ポケットの中にあった、緑のガムを一枚引き抜いて、煙草を加えるみたいに口に運ぶ。広がるミントの味が、冷えた心にすっと入り込むようだった。だけど、ガムはすぐに味が無くなってしまう。噛み終えた、味が無くなってしまったガムは、まるで自分のよう。そう思うと私はただ、この味が無くなる前に死んでしまいたい、と思うのだった。
わざと、一番大きい駅を選ばなかった。静かに死にたかった。周りに迷惑を掛けたくないくせに、首を吊るのは怖いし、薬を飲む勇気もないし、水は長い時間苦しむし、下に人が居たらと思うと飛び降りも出来なくて、結局、一番楽で、一瞬で終われる電車に投身する道を選んでしまった。家族には死んでもなお迷惑をかけてしまうが、これ以上生きていたら、もっと酷いことになるに違いない。風に揺れる自分の、やけに短くなった髪が、まとわりついて気持ちが悪い。早く消えたい。もう何も考えなくていい世界へ行きたい。ふらふらと、目的の無人駅へ歩いていく。
高校へあがってから、一度も利用することのなかった駅だった。ただでさえ利用人口が少ないローカル線の中でも特に人の乗り降りが少ない、寂れた無人駅。ドアは古錆びて、備え付けの小さな待合室の壁は落書きだらけ。蜘蛛の巣の張ったガラス窓の向こうは、かつて有人駅だった時代、駅員が仕事をしていた事務室だろう。自販機が数個おいてあるだけの寂れた空間だが、昔はよく椿とここの駅から電車に乗って市民プールに行ったっけなあ、という事を思い出して、懐かしい気分になる。待合室、こんなに狭かったっけ。見渡すと、時計とその横の時刻表が目に入った。今の時刻は五時五十二分で、あと十分後に始発がやってくる。つまり、私はあと十分で死ぬ。この気持ちを、ゆっくり自分で鎮めていくことにした。約束の時間はもうすぐだった。
ぬるい風に吹かれて、私はここに立っている。周りにはまだ眠っている民家と、さらさらと揺れる名前もない雑草だけ。
私はどうかしてしまったのか、近頃見えてはいけないものが見える。いや、本当は見えてはいないんだろうけれど、そんなふうに心が錯覚する。ニュース番組に私の高校が出てきたり、マスコミが街に詰め掛けていたり、そんなことがあるはずがないのに、そんなものばかり見てしまう。矢桐くんがどこか遠くへいなくなって、瑛太が苦しそうに助けを求める夢を何度も見る。初夏の陽射しの向こうではしゃぎ回る白い蝶が、現実か妄想なのかも、はっきりわからない私は、ワンピースが汚れるのも気にせずに、日の当たるホームにしゃがみ込んだ。早く、早く電車が来て。壊れた魂の入れ物なんて、早く捨ててしまいたい。この世界にいることが怖い。努力も何もできなくなった私は、もうこの世界では戦えない。
どこか遠くで、電車が来るときのサイレンが聞こえる。かんかん、と、それは鐘のようだった。私の旅立ちはおめでたくなんかはないけれど、これ以上無駄な苦労をしなくていいのなら、それはきっと喜ばしいこと。サイレンの音が近づく。立ち上がり、ゆっくりと歩を進め、黄色い線の少し外側に立ち、目を瞑る。飛び込む準備は出来た。
少しの間だったけれど、良い夢が見れてよかった。お疲れさま、私。途中までは上手くいってたし、来世はもうちょっといい人生になるかな。ううん、もう、来世なんか要らない。なんにもないところで、なんにも考えたくない。
六時二分。始発がやってくる。眩暈のするこの体を抜け出して、飛び立つ。すぐ近くでサイレンが鳴っている、電車の音がだんだん大きくなっていく。何もない世界に飛んでいく。
だけど、どうしてか、最後の最後になって足が動かない。慌てて目を開けて、飛び込まなきゃと手を伸ばそうとする。だけど、電車は私の目の前でぴたりと止まっている。ゆっくりと扉が開いて、ガラガラの車内の奥の運転者席から顔を出して、運転手のおじさんが、不思議そうに私を見ている。
「あ、ごめんなさい。私、乗らないので……」
そう言って手を横に振ると、電車の扉は再び閉まって、私なんか最初から居なかったかのように、ゆっくりと動き出した。
放心状態で、過ぎ去った電車を眺めていた。うそ、なんで飛び込まなかったの、と、後悔が沸き上がってくる。ほんとうに人生に疲れてしまった人は、なんのためらいもなく電車に飛び込んでしまうと聞いたことがある。私はそうはなれなかったのだ。つまり、この世界にまだ、執着がある。
どうして、と私は、遠くへ走っていく電車の音を聞きながら、またコンクリートに座り込む。夏が始まろうとしているだけあって、そこはほのかに熱を持っていた。どうしてどうして、自問自答を繰り返す。この世界には何も執着などないはずなのに。私はこの場で死ねたはずなのに。
次ここに電車がやってくるまでは一時間ある。それまでに決意が変わってしまったら。またあの、足の震えと、一瞬見えた死の恐怖がやってくる。どうしよう、死ねない。座り込んだまま、私はきりきりと痛む頭を押さえる。泣きたいのに、泣けもしないし、ここまで思いつめているのに死ねない。所詮その程度の決意なら生きたほうがマシなんだろうか。こんな酷い人生を、これ以上何を頑張ればいいの。
何でもできる気分になりたかった。ホームの下に降りて、誰かに怒られるまで遊んでいたい。そして、説教を始めるその人の前で、電車に轢かれて死にたい。
今度は躊躇しなかった。私は、黄色い線のさらに先に足を延ばしてみる。少し高いけれど、線路に降りられない事もない。下は枯れた草花が横たわっていたり、電車に何度も轢かれてすり減った石が転がっていたりで、ほとんどサンダルのような靴を履いてきた事を後悔したけれど、これから死のうとしている奴が、そんな事も気にしていられない。
その時、足音が聞こえた。利用客だろうか、電車は今通り過ぎたばかりなのに。私は慌てて、普通の客を装おうとするけれど、そんなのすでに遅かった。
「柚寿!」
ああ、叱らないでよ。私は振り返りもせずに、ホームの縁に足をぶらつかせながら、その声を遮るように耳をふさぐ。警察にでも通報すれば良い。取り調べで出されたカツ丼の箸を喉に突き刺して死んでやる。近付く足音から逃げたいのに、ホームの下しか逃げ場がない。しょうがないからその声のする方を向いてやろうとして、ふいに腕を掴まれた。
「ここにいたんだ」
「……え?」
目を疑うような光景だった。できすぎていると思った。また幻覚を見ているか、もしくは私は死ぬことに成功して、天国にいるのかと思った。
私の腕を握っている元恋人は、もう二度と会う事もないと思っていた彼は、こんな朝から、家からもずっと遠いであろう僻地の駅まで、私を探しに来て会いに来た。いつも丁寧に整えられていた髪は乱れ、纏っている服も、適当に合わせてきましたという感じで、私と同じくらい酷かった。ああ、私と同じ。腫れた瞳と目が合う。前はもっときれいな色をしていたのに。泣いていたのだろうか、それだって私と同じ。とたんに力がぬけて、その場から動けなくなる。
「……なんで」
「病院抜け出すの、大変だったんだよ? 僕のとこは三階なんだけど、中川の奴、ベランダから降りて来いとか言うしさ、困ったよ、ほんとに」
「……」
瑛太は少し困ったように笑いながら、ぐしゃぐしゃなままの私の頭に手を伸ばす。ひとに、こうやって優しく頭を撫でられたのはいつぶりだろう。もう付き合っている訳じゃないし、新しい彼女も居るかもしれない。良くないとはわかっているのに、疲れてしまった私は、そのまま気の抜けたように座り込んでいた。
聞きたいことはたくさんある。なんで病院に入院しているのか、椿とは知り合いなのか、どうやって私を探したのか。「まあ、後で話すから」と微笑む瑛太を見て、こんなに暖かい人だったっけ、と思ってしまう。髪も着ている服も、付き合っていた時とは全然違うのに、矢桐くんに長い間酷いことをし続けていた最低な人なのに、縋ってしまおうとする私はやっぱり最低だった。だけど、落ち着いてきた私に、瑛太が淡々と告げた近況報告は、死ぬことを決めた私でさえも「ご愁傷さまです」と言わざるを得なかった。
「……あんなに有名になってたのに知らなかったんだ。僕、ついに矢桐に殺されそうになったんだ。あいつ、僕に相当恨みがあったらしくて、僕のスマホで全国配信してさ、それで警察が来てくれたわけだけど、結局どっちも退学になるし、名前は悪い意味で全国に知れ渡るし、最悪」
スマホを見ていないので知らなかったが、そんなことがあったらしい。そういえば、お母さんも何か言っていたような気がする。大変だったのね、と呟くと、柚寿もだろ、と笑われる。私だって複数の男と流されるまま関係を持ったり、友達だと思っていた人たちに裏切られたりしたけれど、そんなのいくらでも更生の余地があるよと言われそうで、私は何も言えなくなった。
「せっかくだから中川くんに来てほしかった? ごめんね、僕で」
「……別に良いけど……」
二人でホームの縁に座って、それから長い間、離れていた時間の話をした。瑛太は私に何があったのかは聞かなかったし、私も矢桐くんの事は聞かなかった。早朝、こんな寂れた駅に他に人が来るはずもなく、私たちはひさしぶりに、声を出して笑ったりもした。病院食は美味しくないし、一人でラブホテルに行くのは虚しい。髪は自分で切ってもうまくいかないし、学校と言う組織は、不祥事を起こすと話し合う余地も与えずに退学になる。
ああ、くだらない、とってもとってもくだらない世界だ。お腹が痛くなるまで笑いあう。無駄に頑張った時間も、辛いことに心を悩ませていた時間も、全部ちっぽけなものに思えてくるし、こんな世界で、こんな人生をきっと明日も戦っていく。どうする? ここで死ぬ? の問いに、まだ頑張ってみるよと返す瑛太も面白い。私達、こんなに追い詰められてるのに、まだ生きていこうとしている。それを止める権利は誰にもない。
「ねえ、柚寿」
「なあに、青山くん」
「瑛太って呼んでよ」
「……瑛太」
「これから海でも見に行こうよ。暇でしょ」
この電車に乗っていけば、多分着くからさ。瑛太は言う。椿と市民プールに行っていた時よりも、さらにずっと先。終点まで乗っていれば、確かに海には行ける。
私たちはやっとホームの、黄色い線の内側まで歩く。待合室の屋根でできた日陰に入りたかった。次の電車が来るまで、もう少し、この暖かい風に吹かれていようとした。
- Re: 失墜 ( No.85 )
- 日時: 2017/01/11 03:42
- 名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)
市民プールの駅を越えると、周りの風景は田園だらけになった。地方政令都市の名を一応持っているものの、駅の周りを抜けてしまえば大して栄えた雰囲気はない。だけど、空港の近くに海がある事は知っていて、そこに一度は行ってみたいと思っていた。
思い返せば、私が友達や恋人と行ったところなんて、ショッピングモールや料理店ばかりだった。それは周りに対して、優越の気持ちを持ちたかったのかもしれないし、買い物をしたり高い食べ物を食べる自分に酔いたかったのかもしれない。だけど、私は今すごくまっさらな気持ちで、海に行きたいと思っている。なんでかはわからないけれど、全部失った今、その理由なんかどうでもいい。私が轢かれてバラバラになるはずだった電車に乗って、どこまでも遠くへ行ってみたかった。
瑛太は私の体調を気遣って、なにか食べ物でも持ってくればよかったね、と、雑談の合間に何度も私に笑いかけた。だけど、電車が揺れたり、駅に止まって新たな乗客が入ってきたりすると、彼は居心地が悪そうに、その綺麗な顔を歪める。私はそうやって会話が止まるたびに、昔は止まらないようにとお互い変な努力をしていたことを思い出す。一か月もたっていないのに、懐かしいことのように感じるのは、きっといろいろありすぎたから。もうすべて終わったから、何も気に病むことなんて無いし、ゆっくり元気になっていけばいい。
「なんか、すぐ着いちゃったね。昔は海っていうと、すごく遠い場所みたいに思ってたけど」
「実は近くにあったのね、海って」
電車を降りて、海まで二百五十メートルという看板に沿って歩く。財布を持っていなかったので、瑛太に電車賃は払ってもらった。流石にもう矢桐くんのお金だとは考えられなかったので、今度返すね、といつになるかわからない約束をした。奢ってもらうだけの女はもうやめだ。
この駅や海は観光地ということになっているが、近くに住んでいた私たちがわざわざ行くような場所でもなかった。もう少し遅い時間に来れば、観光客をもてなすための売店が開いていたから、雰囲気も楽しめたのだろうけれど、私たちの周りには数人、海岸を散歩している人がいるだけだった。こんなに早い時間のデートは初めてで、私は眠くなり始めた瞳を擦る。昨日は一睡もできなかったのだ。それは瑛太も同じようで、もともと朝にはそんなに強くない人だけど、今日は目に見えて眠そうだった。
私たちは纏った洋服もめちゃくちゃで、髪も表情もくたびれている。今の私たちは、かつて学校でいろんな人に憧れられたカップルにはとても見えないだろう。それどころか、これから海に沈んで心中でもするのではないかと思われそうである。
「……まだ店も開いてないし。ソフトクリーム、おいしそうなのに」
「柚寿が甘いもの食べたがるの珍しいね。嫌いだったんじゃないっけ」
「疲れてる時って無性に甘いもの食べたくなるじゃん?」
「僕っていつも疲れてたのかな」
水辺で遊んでいたら、本当に心中する人たちみたいだ。だから、まだ開いていない海の家の日陰に入って、深い青と緑を混ぜたような色の波が、押したり引いたりしているのを、ただじっと見ていた。
海はきれいだ。どこまでも広くて、おおらかに澄んでいる。青の海と、水色の空がはっきり分かれる境目、私にはそこまでしか見えないけれど、その先もずっとずっと海は続いている。これは聞いた話だけど、深海は宇宙よりも解明が進んでいないらしい。この眼下に広がる冷たい水たちの奥底に広がる世界の事なんて、人間はこの先しばらくはわからない。
「悩んでたのが馬鹿みたい。すごくちっぽけなことに思えるの、海って凄いなあ」
「柚寿の悩みはちっぽけなんかじゃないよ。でも、連れてきてよかった」
砂浜まで歩く。さらさらした水に、足を取られそうになる。サンダルのような靴を履いてきて正解だった。足元に触れる冷たい水が、私が生きていることを感覚として伝える。波が引くと私は取り残されて、そしてまたやってくると、透明な水が、とても心地よく巻き付くのだ。海はこれを永遠に繰り返す。私はじっと見ている。すると、一際大きな波がやってきて、私は急にバランスを崩した。これくらい耐えられるはずだったのに、疲れていた私はそのまま、倒れるように波に押されてしまう。
「危ないよ」
転ぶ、そう思ったときに急に手を引かれる。咄嗟に閉じてしまった目を開いたら、私は腕の中にいた。病院独特の、アルコールの匂いがする。しばらく忘れていた柔軟剤の匂いも一緒に、その暖かい、久しぶりのひとの体温に私は驚いて、穏やかな笑顔を浮かべている瑛太を見上げた。
「……ありがと」
「あんまりはしゃがないでよ、ここで転んだら大変だろ」
「うん」
水が遠くなっていく。二人分の足跡が、吹いた風に消えていく。点検をしているのか、乗客のいない遊覧船が、海の上をゆっくりと滑っていくのが見える。静かに時間は流れる。私たちを連れて、海は呼吸をしている。
あの向こうには何があるんだろうね、という私の問いに、瑛太は「空港だよ」と、とても現実的でつまらない答えを返した。いつかの矢桐くんのほうがまだ面白かったな。でも、こうして両腕を支えられたままでいるのは安心する。バランスを崩しかけた時、助けてくれる誰かがいるというのは、とても心強い。ひとりで生きるのは大変だけど、分け合ってしまえばなんてことはない。
「……ねえ、なんていうか、ごめん」
「いいよ。僕も、柚寿には迷惑かけたし」
「……大変だった。許さないから」
「……許してくれなくても良いよ。でも、まだ好きでいていいかな」
波は急に、空気を読んだように静かになった。不意打ち。思えば付き合った時も、ちゃんとした告白なんてのは無くて、その場のノリとか、雰囲気とかで交際することが決まったから、面と向かって、付き合っていない状態で、好きと言われるのはこれが初めてだった。
「……勝手にすれば」
するり、と腕を抜けて、私はまた砂浜の方へ歩き出す。もう私は波に足を取られたりはしない。冷たい水が、この数秒間で急激に上がった体温を冷やしていく。私をここまで不幸にした諸悪の根源を、許したくはない。だけどお互い、いつまでも引きずるのも嫌だし、すごく高い立場から失墜してしまった同士、しょうがないから上手くやっていこう。
振り返ると、少し嬉しそうな瑛太が、私に向かって言った。
「その髪が、また綺麗に伸びた時に迎えに行くよ」