複雑・ファジー小説

Re: 失墜 ( No.86 )
日時: 2017/01/12 19:32
名前: 三森電池 ◆IvIoGk3xD6 (ID: cTS7JEeA)

*epilogue

 夏休みが明けて最初の登校日。級友たちは、夏休みの思い出話に花を咲かせたり、いくらか垢の抜けた男子を茶化したり、久々の再会に賑わっていた。
 私は、梓と一緒に行ったディズニーランドのお土産に、クラス全員に配るチョコクランチを買った。みんな笑顔で受け取ってくれた。梓と話し合いをして、「みんなが食べられるような、万人受けするお菓子」を選んだのは正解だった。ちょうどクラスの人数分、三十四個入りのチョコクランチ。全員に配り終えたはずなのに、箱には三つ残っている。
 担任からは、必要最低限の話しかなかった。登校すると、三つあった空席は綺麗に詰められていて、クラスメイト達も彼らの話はタブーとばかりに、違う話で無理に盛り上がろうとしていた。柏野くんも、紅音も、優奈もみちるも、みんな、なんにもなかった風を装っていた。
 今日は始業式をして、そのまま放課となる。学校にマスコミが詰めかけていた、あの日の事を思い出す。だけど、机に頬杖をついて、眺める夏の空だけは、いつもと変わらなかった。今年は残暑も厳しいらしく、これから暑い日はまだ続く。夏用のワイシャツが、薄い夏のスカートと一緒に、クローゼットの奥に押し込まれる頃になれば、この違和感も消えるだろうか。いや、未来永劫消えないだろう。少なくとも私は、彼らの事を背負い続けたまま、これからも生きていくんだと思う。
 担任が教室に入ってきて、ばらばらに散っていた私たちは、それぞれの席に着きはじめる。起立、着席と号令をかける、日直の声。二学期が始まった。



 「俺、意外と情報通だからね。あいつら、あれだけ有名になったんだし、ちょっと調べればわかるよ」

 渋谷くんと私は、いつか梓と三人で話をした静かな喫茶店にいる。運ばれてきたコーヒーに一口も手を付けずに語る彼は、私と会うようになってから、少しずつ真面目になってきている気がする。耳にも舌にもつけていたピアスは数が減っているし、メッシュを入れていた髪も落ち着いた色になった。私が影響しているというわけではないだろうけれど、人ってこうやって大人になるのかな、なんて事は思ってしまう。
 アイスコーヒーにガムシロップをふたつも入れて、ストローでかき混ぜてしまうような、子供じみた私は、渋谷くんが切り出した話を食い入るように聞かずにはいられなかった。

 「……どうなったの? 瑛太くんも、矢桐くんも、柚寿も、転校したって話しか聞かなかった」

 まあ、あんまり面白い話ではないけど。渋谷くんは、そう前置きをして話し出す。
 矢桐くんは、退学処分を受けた次の週に、母親とこの街を出ている。多分、ここよりも東京に近い場所に引っ越したみたいで、でも明確な消息は掴めていないらしい。瑛太くんの家族への慰謝料はすぐに払い終え、特に刑罰が下されることもなく、どこかで普通に生活している。凄い世界だよねえ、と渋谷くんは笑った。瑛太も瑛太で悪いけど、人殺しを配信しようとした奴が野放しって滅茶苦茶怖いって。その言葉に頷くと同時に、春に公園でソーダを飲んだときの矢桐くんを思い出す。私が奪ったストラップを、自分が悪者になって瑛太くんに返してくれた矢桐くんのことを、完全悪とは言い切れない。笑った顔が、意外と子供っぽくて可愛かったな、なんて、そんな事を思い返しても、もう彼には会えないのに。
 瑛太くんは市内の通信制高校に転校したらしい。親友だったはずの渋谷くんとも連絡が未だにつかないみたいで、当たり前だけど、ツイッターも事件の日からまったく動いていない。しかし、事件があってから、フォロワーが跳ね上がるように増えている。矢桐くんが配信した動画は、表向きは削除されたものの、調べてみれば簡単に見ることができる。モデルをやるくらいの美青年が殺されかけている動画はネットの人々の興味を大いに惹きつけ、今はかなり落ち着いたものの、青山くんが悪い、矢桐くんが悪い、と、名もなき暇人たちが議論を交わし合っているのを何度も見た。加害者がいじめられっ子の立場であったこと、被害者が生活保護を受けるほどの貧窮状態であったことも絡み、今までにあまりない事件だったため、専門家や妙な偏見を持った人たちもその議論に加わり、私のような一般人がとても追えるような内容では無かった。
 そして柚寿は、県内の女子高に編入したらしい。私は柚寿をいちばん心配していた。あのゴミ捨て場で、死んだような目をしていた柚寿は、心を病んでしまったのか、あの事件を境に学校に来なくなった。紅音に誘われるがままだったけれど、私も柚寿にいじめのようなことをした一人である。渋谷くんも私の知らないところで柚寿と交流があったらしく、「俺もあの子には酷い事しちゃったな」とため息をついていた。私は少し迷ったけれど、渋谷くんにゴミ捨て場での顛末を話した。渋谷くんは別に驚きもしなかったし、私や紅音を軽蔑することもしなかった。だからあんなセルフカットみたいな髪型してたんだなあ、と笑っただけだった。

 「あいつらみんな、どんな大人になるのかな。俺にもきょうちゃんにも知る由なんてないけど」

 やっと口を付けたコーヒーを、テーブルに置いて渋谷くんは言った。
 午後三時。喫茶店は、この前とは違って、お菓子を食べに来た若い男女や、噂話で盛り上がる主婦たちで大賑わいだった。カウンターの上の猫は、そんな騒がしい環境の中で気持ちよさそうに眠っている。
 私達もそれに混ざるように、いくつか内容のない世間話をした。何にも最初から無かったかのように。人間って非日常を望むくせに、いざその非日常が訪れると平凡な日常が恋しくなって、結局ないものねだりだよねぇ、とか。そして、日が傾きかけたころ、割り勘でお金を払って、「お互い頑張ろうね」「絶対幸せになってね」なんて、中身が無いのかあるのか微妙な表情で、今生の別れのような台詞を交わして別れた。
 帰り道。駅前にはよく、占いをしているおばさんや、変な宗教を進めてくる団体がいる。今日いたのは、幸せになれるパワーストーンを販売している怪しい業者だった。通行人はそれを、関わりたくないといった表情をしながら避けて歩く。私もそのうちの一人で、そもそも私のような、いかにも金が無さそうな学生には声はかからないのだが、見ないふりをして歩いた。
 矢桐くんだって、瑛太くんだって、柚寿だって、本当は幸せになりたかっただろう。三人が必死で生き抜いて、そして離れていったこの街はなんだかんだ言ってとても綺麗だ。駅の二階から見える街並みは鮮やかで、ここから見渡せる景色の中に彼らはもういなくて。日常から突然消えてしまった存在にいつまでも思いをはせるのも馬鹿らしいけれど、それでも私は、大きなガラス張りの窓から夕焼けを見ている。立ち止まった私を避けていく人間たちは、今度は私をイレギュラーとばかりに扱う。レールを逸れて走る勇気はない。でも、今だけは立ち止まりたい。
 明日も明後日も、きっと人生は続いていく。そのうち今日の事も忘れてしまう日も来るだろう。ふと気が付くと、あと数分で乗る予定の電車が出発する時刻になっていた。慌てて歩き出して、また日常の中に溶けていく。少しだけ寂しくなったこの街で、私はこれからも生きていく。