複雑・ファジー小説

Re: たゆたえばナンセンス【短編集】 ( No.39 )
日時: 2019/05/26 21:28
名前: ヨモツカミ (ID: w9Ti0hrm)

♯30 言の葉は硝子越し

 どうしても、声が届かないんだ。
 少女は怪我をしているらしい。進むたびに赤い雫が腕から滴り落ちては、降り積もった雪の上を点々と汚していく。ヘンゼルとグレーテルみたいに、道標を作りながら歩いているようだと思った。彼女が落すのはパンの欠片ではなく生々しい鮮血だけど。

「痛くないの」

 私が訊ねてみても、返事はない。振り返ることもなく、彼女はゆらゆらと進んでいく。答えてくれない。なんだか私、透明になったみたいだ、と思った。

「どこへ行くの。待ってよ」

 返事はない。そっか、私の声なんて聞こえないんだ。雪が降っているせいか、あまり寒くはないけど胸に氷柱でも突き立てられたみたいに冷たく痛みを覚える。どうして声が届かないのだろう、と。問うても誰も教えてはくれないから、私は彼女のあとに付いていく。
 怪我をしているのだと思っていたけれど、そうでは無かった。彼女の左手に握られたカッターナイフ。冬なのに腕を捲くってむき出しにした腕に、薄い刃先を押し当てて、一息に引く。
 新しく出来た傷口から、じわりと染み出した赤色は、宝石みたいに太陽光の中で輝いて、ぬるりと落ちると雪に溶け込んだ。
 痛みのせいか、他の理由か。彼女は目元に涙を貯めて、また何処かへ進んでいく。

「やめなよ、こんなこと」

 返事はない。痛ましくて、見るに耐えないと思うのに、私は彼女の後を追いかけた。見たくないなら、やめればいいのに。ここでやめてはいけないと、何かが私を突き動かす。どうせ声は届かないのに、それでも話しかけ続けるのも、何かに期待をしているからなのだろう。
 彼女を追い続けていると、本当に人気のない、誰も寄り付かない廃墟に辿り着いた。私のよく知っている場所で、冬の寒さとは別の悪寒が背中を走り抜けるのを感じる。

「嫌だ、こんなとこ行かないでよ」

 返事は、ない。なんで声が聞こえないの。私はもどかしくて泣き出しそうになりながら、彼女を見失うわけにも行かないから、と血の道標を辿る。
 最早役目を果たしてない扉を潜り抜けると、明かりがないから中は真っ暗で。ヒビの入った窓から差し込む光で彼女を見失わずにはすんだけれど、これ以上先に行くのを、体が拒んでいた。

「やめなよって。ここにはいたくないよ」

 この廃墟では、一年前に自殺した女の子がいた。元々は何かの事務所だったらしいが、放置されて誰も近寄らなくなって。その敷地内で飛び降り自殺をしたけれど、しばらく誰も気付かなくて。その日も今日のような雪の日だったから、赤と白が混じり合った地面に、その女の子は横たわっていて、それをその親友が見つけたのだ。

 階段を上がっていくカツン、カツンという音が響いている。屋上を目指しているのだろうか。なんでよ、やめてよ、行かないでよ。声にしても、届かないのだ。
 追いかけるのが怖くなって、引き返してしまおうかと思う。それは駄目。止めなきゃ。立ち止まりかけた膝を叩いて、私も階段を駆け上がる。
 屋上へと繋がる扉が見えてきた。扉の一部が窓になっているから、そこから光が漏れていて明るい。
 急いでドアノブに手を開けたが、ガチャ、と言う音を立てるたけでドアはびくともしない。鍵がかかっている。

「駄目! 行かないで!」

 扉を何度も叩いた。やっぱり声は届かないのだろうか。窓から屋上の様子を覗き込む。彼女は、顔だけこちらに向けていた。
 口が動く。きっと、私の名前を呼んだのだ。
 驚いたような顔のまま、彼女はこちらに歩いてきた。
 小さな窓硝子越しに、ようやく私の声は届いたらしい。
 彼女と私を隔てる扉がもどかしい。ドアノブをガチャガチャとひねって、開けてよと叫ぶ。彼女は静かに微笑んで、首を横に振った。それからか細い声でゆっくりと喋る。

「来てくれたんだ」
「ねえ、開けてよ……! 屋上なんか来て、どうするつもり!?」
「わかってるでしょ」

 そう言って、彼女はゆったりと自分の右腕を私に見せてきた。幾つもの赤い線が引かれた腕。リストカットの痕は、未だに痛々しく赤色を滲ませていた。

「辛いの」

 短い言葉だったが、そこに耐え難い苦痛の全てが詰まっていて。わかってるよ。あなたが辛いこと。私、全部知っている。知っているくせに何もできなかった。歯がゆさと遣る瀬無さに、両目に涙が溜まる。
 泣き出しそうな私を見て、彼女の両目からも色の無い雫が溢れて、落ちていく。

「ごめんね、私、何もしてあげられなかった」
「ううん。あんたのせいじゃない。わたしがね、少しだけ弱かったの」

 それだけだよ。掠れた声。
 それだけ残して、彼女は扉に背を向けた。

「えっ……嫌だ、ねえ、待ってよ! 開けて! 行かないで!」

 きっと、今度は声は届いている。届いているくせに、彼女は一度も振り返らずに離れていってしまう。
 開かないと理解しているくせに、私は扉を殴った。けたたましい音を響かせるだけで、扉は開くはずもない。

「駄目! 行かないで、お願いだから、死なないでよ!!」

 雪降る屋上で、フェンスに手を掛けながら、彼女は一度だけ振り向いた。泣いていた。唇が動く。

 “ごめんね” 

 そんな言葉を紡いだように見えた。
 フェンスに脚をかける。体が浮き上がる。
 ふわり。
 その先に地面はなかったから、そのまま彼女の体は重力に連れて行かれて。
 ああ。止められなかった。
 私はその場に崩れ落ちて、泣き喚いた。
 床に残された染みは、随分と古い血の痕だと気付く。

 高校を卒業してから、彼女はすぐに就職した。その仕事場で、あまり上手く行かなかったらしい。卒業してから、別々の道に進んだ私達は顔を合わせる機会も減って、だから久しぶりに会ったときに、「辛い」と声を零していて。上司や同僚と合わないのだと言っていた。でも私には何もしてあげられることなんてなくて。話を聞くだけで、私は彼女のためになることなど何もできなかった。力になれなかった。

 だから、一年前に、ここで死んでしまったのだ。

 私はトボトボと階段を降りて、廃墟を出た。外に、彼女の死体は無い。降り積もった白い雪に、赤色は一欠片も混じっていなくて。よく見れば、地面に点々とあった赤の道標も消えていた。
 やっぱり全て、幻だったのだろう。
 きっと、彼女は未だに自分が死んだことに気付けていないのだ。だから、一年ぶりに幽霊になって私の前に現れたんだ。
 あの日と同じように、ふらふらと腕を切りながら歩いて、血の道標を作りながら、一人廃墟を目指した。そうして、誰にも気付かれずに飛び降りて、白い雪に包まれて死んだ。
 多分、本当は気付いてほしかったのだ。だから私の前に現れたのだ。私をこの廃墟に誘ったのだ。
 二度目の死に際、私は彼女の側にいた。扉を隔てて向かい合った。一年前とは違って、彼女を止められるかもしれないと思った。しかし、結果は変わらなかった。私がいたって、いなくたって、彼女は屋上から身を投げだして、赤と白に混じって死んでしまった。
 なんて、無力なんだろうと思う。
 今回、もしも彼女が私の声で足を止めたとしても、彼女が生き返るわけではなかったのだから、ただただ無意味に亡霊と向き合うだけになっていたかもしれないが、それでも死なないで欲しかった。
 私の声は、どうしても届かない。



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雪、幽霊、硝子の透明系三題噺。コメライで書いてるあんずさんと一緒に同じお題でSS書こーぜ、ということで書かせていただきました。良かったらあんずさんの『透明な愛を吐く』という短編集も読んでみてください。
幽霊が関わった時点で悲しい話しか書けないとわかっていました(白目)