複雑・ファジー小説

Re: たゆたえばナンセンス【短編集】 ( No.40 )
日時: 2019/06/12 22:53
名前: ヨモツカミ (ID: w9Ti0hrm)

♯31 リコリスの呼ぶ方へ

 お待ちしております。
 貴方様がお帰りになる日を。お待ちしております。
 例え千の秋が巡ろうとも。お待ちしております。
 ですからどうか──。

 黄昏空の下を歩いていた。
 嘘みたいに燃える空は、本当に何かを燃やした炎のようで。夕焼けを背景にどこまでも続く石階段を見上げて、まるで地獄へ続く道みたいだと思った。

「空に地獄なんて、おかしな話だな」

 俺の呟きに答える人はいない。正確には、いないのではなくて、これから迎えに行くのだ。彼女には随分待たせてしまった。もしかしたら俺に愛想を尽かして何処かへ旅だってしまったかもしれないけれど。そうしたら、今度は俺が待つ番だ。彼女ほど待つのは得意で無いけれど、大丈夫。君を想えば俺はいつまでも待てるはずだから。

「行ってしまうのかい」

 石階段への入口、鳥居の下で呼び止めるのは、黒地にいくつかの彼岸花を咲かせた浴衣と、鴉を模した被り物をした少年。彼は右手に灯籠を手にしていた。薄ぼんやりとした灯が頼りなさげに、けれども暖かく揺れている。

「きっと、待っているんだ」

 俺が答えれば、少年は大して興味も無さそうに息を吐いて。

「そう。それなら僕に止める資格はなさそうだ。君が考えに考えた結果ならね」
「…………」 

 少年は下駄を鳴らして、俺に歩み寄ってきた。頭二つ分ほど小さな彼の顔は、被り物に覆われてわからない。そのくせ、俺はなんとなくその正体を知っていた。いつの間にか大切だと感じる存在になっていた、数奇な運命の少年。どうして彼がここにいるのかは、わからなかった。

「付いておいで」
「ひとりで歩ける」
「僕が君の隣を歩きたいんだ。それに、灯がないと迷っちゃうかもしれないよ」

 頼りないくせに、意志だけは強く燃える灯を見れば、確かにそうかと頷けて、俺達は静かに階段を上がり始めた。
 カラン、カラン。少年が一歩進むごとに、石と下駄が擦れる音がする。それだけの、静かな道だ。

「ねえ、本当によく考えた?」

 少年が顔も此方に向けずに、黙々と正面の鳥居を見据えながら訊ねる。

「帰るならまだ間に合うよ。薄暮が来る前なら……」

 俺は答えなかった。答えられなかったとも言うべきか。
 俺達は寡黙に階段を登り続けた。カラン。カラン。カラン。下駄の鳴る音と、微かに風に乗って香る線香の匂いも、もうそれほど長くは続かないだろう。
 この階段には、終わりがあるのだから。

「君が誰かの許しがなければ帰れないって言うなら、僕が許すよ」

 何処かで聞いた台詞だと思った。それは、水面に投げ入れた小石から波紋が広がっていくように、胸の内側を僅かに波打って、やがて、何もなかったかのように凪ぐ。
 本当は、豪雨に打たれる大地のように、いくつもの波紋が重なり合っていたのかもしれないが、それすらも雨雲に覆われて、見えなくなる。
 不意に、下駄の音が止んだ。振り向くと、鴉の被り物を少し俯かせた少年が、佇んでいる。

「……僕が送れるのはここまで。大丈夫。あいつによろしくね」

 少年は言いながら、被り物の嘴の辺りに手を当てた。それをゆっくりと上に持ち上げて、輪郭が露わになる。
 その前に俺は前を向いた。その顔を見てしまえば、リコリスの声が聞こえなくなってしまいそうだと思ったから。
 二つ目の鳥居を潜り抜けて。俺は寡黙に上を目指してゆく。木々に囲まれた階段は、森の中にいるかのように錯覚する。
 しばらく一人で階段を進んでいると、木々の隙間から声が投げかけられた。
 
「よう、愚者は遅れてやってくるってことかい?」

 その方向を見れば、頭にモヤのかかった男。でも、どうしてか、嘲笑うような軽薄な笑みが想像できた。
 首から上が黒いクレヨンで塗り潰されてしまったみたいな男は、ゆったりとした足取りで俺の側まで来ると、ゆらりと腕をもたげた。幽霊みたいに不気味な動きで右腕は俺の肩に触れる。

「アンタが来るって聞いて、顔見に来たのさ」
「目も耳も無いのに、どうやって」

 モヤのせいで、彼は目が見えないのではないだろうか。モヤのせいで、彼の耳は聞こえないのではないだろうか。そう思ったが、男は俺の声に答えるように笑う。

「そうだなぁ、頭はアンタに潰されちまったからなあ」
「──……」

 俺にはその瞬間、上手く返す言葉を、紡げそうになかった。

「冗談さ、んな顔するなよ」

 モヤのかかった男は愉快そうに笑いながら、俺の隣を歩く。今度は下駄の音はしない。代わりに新しいスニーカーが砂の粒を踏みしめる小気味良い音がたん、たん、と石階段を叩いた。
 男はしばらくは黙っていたが、ある程度階段を進むと、急にせきを切ったように矢継ぎ早に話しかけてきた。

「なあ、アンタはなんのためにこの道を進むんだ?」

「贖罪? 懺悔? 悔恨? 諦観?」

「なあ、そんなの今更じゃないか」

「アンタに殺されたオレァ、寂しかったよ」

 咄嗟にそいつの喉笛に掴みかかっていた。皮膚はどこまでも冷たく、ゴムのような感触はとても生き物とは思えない。それもそうか、俺が殺したのだから。じゃあどうして、コイツはここにいる。いや、殺したからこそ、ここにいられるのか。

「……冗談。オレはアンタにこうされたいって願ったんだ。自分の意思で死んだなら、オレは自殺。オレの命はオレの物だからなぁ」

 モヤのかかった顔の奥で、男はくつくつと喉を鳴らす。笑うたびに俺の掌に伝わる冷えた振動は、やはり生物らしさなんて微塵もない。
 だってそうだ。これは俺の罪なのだ。こいつは俺が確かに殺した男なのだ。頭部を殴打した。力の限り振りぬいた金属の棒。骨にぶちあたる感触。生暖かい飛沫。鉄と鉄の混ざり合う酷い臭いの洪水。赤く、赤く、ぬらぬらと俺の手を染め上げていく。色彩は。吐き出しそうなほど。

「はは、またその目しやがる。もういいんだってば、顔上げろよ」

 俺に殺された男は、どうしてか屈託なく笑う。
 それからゆっくりと俺の腕を外して、別れを告げてきた。俺達はここでお別れ。この先は一人で行けと、そういうことらしい。
 俺は返事を返すでもなく、黙って瞬きをして、その先に進んだ。後ろで佇む男の気配を感じながら、一つ一つ階段を踏みしめていく。
 この階段で出会ったのは。一人目の少年は追憶。二人目の男は罪過。そして、

「なあ」

 三人目。

「行くの?」

 中性的な顔立ちの青年は、控えめに笑って俺を迎えてくれた。一番側にいた、一番大切な存在。親友よりも親しく、家族よりは遠いくらいの、そんな距離感の彼。顔を合わせた瞬間に湧き上がる暖かさが、純粋な嬉しさなのだと自覚する。俺はきっと、何よりも彼に会うことに焦がれていた。
 青年は遠慮がちに俺の隣に並ぶと、小さく笑った。なんだかこの感じ、懐かしーな。その声が嬉しそうで、俺も同じ気持ちだったから、胸が一杯になる。
 そのまま、俺は階段を歩む足を再開させた。ほんの少しだけ遅れて、彼も足を進める。低いヒールの入ったブーツは、カツカツと音を鳴らす。
 青年は何か言いたげに何度も俺の顔を見た。それでも声はない。だから代わりに、俺から話しかけてやる。

「お前はいつも、俺が行こうとすると少し不満があるような顔をしていたな。でも、何も言わないんだ」

 青年は笑う。泣き笑いにも似た、儚い笑顔で。そうして紡ぐ声は、どうにも掠れていた。

「オマエが、オレの顔見てちょっと悲しそうな目するから……言わないって、決めてた」

 そうか。うん、そう。短い言葉の応酬さえも、どこか懐かしい。懐かしさは、優しい記憶と結びつく。悲しいことは隠すみたいに、都合のいい記憶ばかりを思い出して、下らないことで笑いあった日々を、共にする時間の尊さを、ただ脳裏に掠めさせて、温かい気持ちにさせる。
 不意に青年は俺の服の裾を引っ張ってきた。困ったような笑顔を浮かべて。

「途中まで一緒に居ていい? その、見送り……」
「何を今更。俺はただ進むだけだから、付いてきたいところまで付いてこい」

 ****。名前を口にしようとすると、急に霧がかかるみたいに音が消えた。名前。こいつの名前は、何だったかな。あんなに何度も呼んだのに、どうしてそこだけ思い出せないのだろう。口を開閉させて、声にならない音を彷徨わせて、そうすると青年が俺を見て首を傾げる。今はただ、何でもないと薄く笑うことしかできなかった。
 彼は俺の隣で、のんびりとした様子で歩きながら、かける言葉を探し続けているみたいだった。いつもは考えなしに何でも言うくせに、こういうときは言葉を選ぶ。もっと、いつも通りに接してくれて方が、俺は安心するのに。

「今、どんな気分?」

 選んだ末、なんだかよくわからない質問が投げかけられた。何だそれ、と優しく苦笑しながらも、思考を巡らせる。

「……そうだな、実感が沸かない。俺は、これからどうなるのだろうな」

 この先進んで行って、最後には何があるのか。でも、俺を呼ぶ声がするんだ。無視したって良かったのかもしれないが、できなかった。だって、待っているのだ。たった一人で俺を待ち続けているリコリスの声が、今も脳裏に木霊する。
 だから今、行かなければならない。
 決意は揺らがない。横から俺の目を覗き込む彼は、やはり何か言いたげで。
 しばしの沈黙が流れた。かける言葉を探している青年と、俺の靴の音だけが寂しく響いた。
 見上げると、最後の鳥居と階段の終わりが見えてきていた。きっと青年とは、鳥居の前でお別れだ。名残惜しさを感じて、彼の横顔を見ようとした。金色の瞳と、目が合う。そうすると、彼は意を決したように声に出した。

「ねえ。なんで死のうとするの」
「……」

 最後の鳥居を超えれば、もう戻れないこと。リコリスが俺の手を引いてその先に行ってしまうこと。全部青年はわかっていた。
 俺は質問に答えない。
 ただ、階段を進むのを、少しだけ早めた。

「……離してくれないか」

 青年は立ち止まって、俺の手を掴んでいた。指先は冷たく、震えていた。それでも力は強くて、簡単には振りほどけそうもない。

「リコリスが、呼んでいるんだ」
「オレたちも呼んでるよ! ずっと、何よりも強く」

 食い気味に声を荒らげられては、その先を紡げない。少し困ったような顔をして青年を見つめてみるが、彼もまた、強い意志を込めて見つめ返してくる。
 この腕を振り払ったら、泣きだしてしまいそうな顔をしていて。お前幾つだよ、と思ったが、こいつは歳なんて気にせず平気で泣くのだろう。

「刃も、影も、呼んでたろ。聞こえないふりしてんだろ」

 最初にいた鴉の面を被っていた少年と、顔にモヤのかかっていた男のことを言っているらしかった。なんでそれがわかったのだろう。彼らのことはよく覚えてないのによく知っているから。大切な存在だったはずだから。
 彼は両手で俺の腕を掴んで、縋るような声で言う。

「行くなよ」

 俺は黙って鳥居の奥を見据えた。顔はよく見えない。でも桜色の着物に見を包んだ少女が、静かに佇んでいる。俺だけを淡々と見下ろしていた。
 言葉もなく、俺を呼んでいる。
 でも、何よりも強く俺を呼んでいるのは、この青年だ。金色の瞳が潤んでいた。水面に映る月みたいだと思った。頼りなく揺れて、触れたところで届かない月。
 いや、届かないと思っているだけだ。俺は端から諦めているのだ。だからこんなに遠く感じる。彼は俺と同じ距離は感じていないだろう。
 だって今、触れているのだから。この両腕を離さなければ、繋ぎ止めていられると思っているのだろう。
 俺も、そう思う。
 振り払おうとしていた腕をおろして、階段を上がろうとしていた足を止めて、ただ青年に微笑みかけた。

「呼び止めてくれて、ありがとうな」

 彼は一瞬目を見開いた。そうして掴んでいた腕の力が抜ける。
 俺は軽く彼の手を解いて、階段を下り始めた。

 リコリスの声はもう、聞こえない。

***
リコリスは彼岸花のことです。少しだけ私の書いてる長編小説を意識した描写をしましたが、雰囲気と自己解釈でお楽しみください。