複雑・ファジー小説

Re: 拝啓、黒百合へ訴う【短編集】 ( No.43 )
日時: 2019/07/19 00:05
名前: ヨモツカミ (ID: w9Ti0hrm)

♯33 真昼の月と最期の夏

 蝉時雨が降り注いでいる。雨粒より激しく地に打ち付ける初夏の歌。
 心地よい風が肌を撫でると、何処からか風鈴の軽やかな音色が響いた。りん。りぃん。と音の正体を探しても見つからないから、きっと無数にある民家の窓際、私の目には見えないところで風に揺れているのだろうと気付かされる。
 足取りは軽く、爛々と燃える太陽の熱は私の肌を焼いている。この感覚が、心地良いと感じるのは、夏を懐かしんでいるからか。踏み出すサンダルの下、アスファルトの蓄えた熱で靴底は熱いけれど、夏。らしさを覚えるたびにただ懐かしいねって私は笑うのだ。
 何処へ征くでもなく、白いサンダルのヒールを鳴らしていたら、民家の隙間に赤い鳥居を見つける。両脇に並んだ木々で木漏れ日の落ちる階段の上、白い腹をみせる蝉が転がっている。八日目を迎えたお疲れ様の彼は蟻に集られて、少しずつ身を削られていて。誰にも弔われずに解体されていく姿は、自然界のグロテスクを私に突きつけている。
 私もまた、自然界の摂理から抜け出せない生き物の一つだということを忘れてはいけない。私の生命だって、終われば狭い箱に閉じ込められて、花を敷き詰められて、炎に包まれて灰になって、お終いだ。それがまた、もうすぐであることをわかっている私だから、蝉の見え方すら変わってきてしまっていて、微かな自己嫌悪に足元がふらついた。
 私は蝉じゃない。海月だ。海を漂う昼間の月だ。最期はきっと、もうちょっと美しく。揺蕩うように終われるはずだ。
 私は白い蝉を避けて階段を歩いた。あいも変わらず、蝉の大合唱は終わらない。

 鳥居を抜けると、大きなお堂が見えてきて、私はそこにまっすぐと進んで行った。賽銭箱と鈴の紐が垂れ下がっている。手ぶらで家を出てきてしまったため、お金は持っていない。なので、適当に鈴だけカランカランと鳴らして、両手を合わせた。
 もうちょっとだけ、長生きできますように。
 普段は信じもしない神様の存在を、都合のいいときだけ確かめて、お祈りする。日本人って、そういうところがあるから良くないな、なんて思ったりもする。神様も幽霊も、見えないものは信じない。見えないものは、存在しないものとして扱われる。だって、そこに無いから。私も近いうちに何もない者になって、誰にも信じてもらえなくなるんだ。受け入れたつもりでも、やはり悲しくて、両目から雫が伝う。
 情けないな。自分に呆れて腕で涙を拭いながら、くるりと神社の中を見回した。
 少し前に縁日でもしていたのか、手水舎の側にラムネの瓶が放置されている。近寄って、手にとって見ると、蓋は外され、瓶の中の硝子玉は抜かれていた。少し残念に思った。太陽の光に透けるラムネ瓶は、海の輝きを地面に落としていた。何も住まない海の中、私だけがぽつんと揺蕩っている。最期のとき、私は孤独の海を旅するのだろう。今だって独りなのに。
 独りは寒い。寒いのは嫌だ。真夏の陽射しは私の肌を焼くし、痛いくらいだけど、今だって寒いのだ。物理的な熱で暖かくなれはしない。

 ラムネ瓶を元あったところに戻して、お堂の隣を抜けていくと、竹林がある。中を進んでいくと陽が当たらず、仄かな風が通り抜けるので少し涼しかった。
 奥には忘れ去られて苔生した小さなお地蔵さんが一人、佇んでいた。あなたも独りなんだね。そう話しかけても頷いてくれるはずもなく、結局本当に独りなのは自分自身であると突きつけられて、肩を落とす。

「私ね、もうすぐ死ぬんだよ」

 風に揺れる竹の音だけが返事をくれた。彼らは群れていて、私の寂しさなんて知る由もないくせに。その場にいるのが嫌になって、私は踵を返す。
 竹林を出る途中、不意に頭が真っ白になって、その場に膝をついてしまった。冷たい土に両手を付いて、目の前がチカチカと明滅する感覚と、背中に嫌な汗が滲むのをぼんやり感じる。こうなるから、病院を出てはならないとお医者さんにも言われていたのに、もしこのまま立ち上がれなかったら、それを破った私の自己責任だ。けれど、しばらく地面を見つめていると目眩は収まって、私はゆらりと立ち上がる。
 夏は好きなのだ。私から夏を奪いさる病院なんて嫌いだ。去年は全ての季節が窓の向こうで過ぎ去っていくのを呆然と見送ったから、どうせ死んじゃうなら夏だけは感じたかった。だからこっそりと病院を抜け出してきたのだ。
 死ぬのなんて今更どうでもいい。変えられない運命に嘆くのは飽きた。でも、あがかないとは言ってないから。最期は夏の中に溶けてしまいたいのだ。

 ふと、顔を上げると俯いて咲く向日葵が視界に入った。ふらつく足取りでちかよってみると、金色の花びらが所々萎れている。この花もうすぐ死ぬんだ。私と同じだ。きっと夏を越すことはできなくて、この夏の中に取り残される。次の夏には別の誰かが大輪を咲かせる。でもきっと、誰もこの向日葵が死んだことなんて気にしない。別の誰かが咲き誇ってることなんて気にも止めない。当然だ。そんなこといちいち気にしていたらきりがない。毎年めぐる季節の中に置いて行かれる存在のことなんて、誰の目にも止まることはできない。
 ああ、でも。私だけはこの花のことを忘れないでいよう。そのために、私は向日葵の茎に優しく触れる。柔らかい黄緑のそれを握ると、軽く手首をひねった。ぺき、とあっけない音がして、花はぐにゃりと首を傾ける。
 私はこの向日葵を手折った。だから、私だけはあなたのことを忘れない。死に際の走馬灯にこの花が出てくるかはわからないけど、最期の前日まではきっとあなたのこと覚えている。普通に朽ちて終わるよりも先に、私に終わらされたあなたのことを。

「海月(みつく)」

 私の名前を呼ぶ声がして、でも私は振り返らなかった。無視して佇んでいると、私の右隣りに見知った少年が歩み寄ってきた。

「病院、戻ろ。部屋にいないし、なかなか戻ってこないからまさかと思って探してみたけど、ホントに外にいるなんて思わなかった」
「よくここがわかったね」

 心配そうに私の顔を覗き込んでいる彼に私は涼しげに笑いかけた。そうすると、彼が小さく息を吐いたのがわかった。呆れられたかなと思ったけど、彼は少し安心したように笑う。

「沢山探した。不安だったんだ。海月が消えちゃったら、僕はどうすればいいか、わからないから」

 そう言う彼の額には汗が滲んでいて、本当に私を探して色んなところを駆け回ったのだろうと気付いた。私に依存するみたいな彼は、私がこの夏を超えられないこと、わかっているのだろうか。

「帰ろう」

 彼は私の手を引いて歩き出した。帰るって言ったって、私の家に行くわけじゃないのだ。いつの間に、私の帰る場所はあの無機質な病室になっていたのだろう。

「……私ね、海で死にたいんだ」

 ぽつりと声にしてみると、彼は特に驚く様子もなく私を見た。

「じゃあ、海に行こっか」

 多分彼は、私が海で何をしようと止めない。私の意志を尊重するだけ。だからこんなに普通の表情で私を海に連れて行こうだなんて思えるんだ。
 それって、本気で私を思い遣っていることになるのだろうか。よく、本当の友達なら、悪いことをしようとしていたら止めるべきだって先生は言っていて。でも実際の友達というものは共に悪事に手を染め、共犯者になることを言う。だとすれば、彼は心から私を尊重した結果、海に連れて行こうとしてくれるのだ。それは優しさであり、けれど少し寂しいもの。私の死にたいを受け入れてくれることに、暖かさはない。
 どうかした? とまた彼が顔を覗き込んでくるから、何でもないと笑う。嘘だけど、これ以上自分の意志をどう言葉にすればいいかわからなかったのだ。

 熱を溜め込んだ砂浜の上を歩くと、サンダルの隙間から入ってきた砂でジャリジャリする。不快感はあれど、私達は波打ち際までやってきた。夏だから人で賑わうビーチで、もしも死んでみようとしたって、どうせ無理なんだろうから、キラキラと太陽光を反射させる海をただ、見つめていた。

「海で死ぬなんて、現実的じゃないね」
「死ぬなんて言葉自体、現実的じゃないよ」

 彼は顔を背けながらそう言った。私が死んじゃうって事実から、目を逸らしている。見なければ無かったことになるとでも思っているのだろうか。

「そう思ってるのはあなただけだよ。私としては、誰よりもリアルな言葉」

 ヤドカリが濡れた砂の上を歩いていたが、次の波に攫われて、消えてしまう。少し離れたところで、透明のゼリーみたいなものが打ち上げられていて、それがクラゲの死骸だというのはすぐに気付いた。

「最後にあなたと一緒に海が見れて良かったよ。帰ろう」

 不満そうな目で、彼が私を見ていた。

***
この短編集に難度となく出る海月という少女のとある日の話。夏はエモい存在だと思うので、存分に夏を描写したかった。寂しい夏が好きです。