複雑・ファジー小説

Re: 拝啓、黒百合へ訴う【短編集】 ( No.50 )
日時: 2019/09/02 18:58
名前: ヨモツカミ (ID: w9Ti0hrm)

♯38 海の泡になりたい

 赤い彼女は、狭い水槽の中に閉じ込められている。揺蕩う見事な紅の鱗と、その美しい身体のしなる姿は、いつまで見ても飽きはしなかった。
 彼女を購入した理由を、私ははっきりと記憶していない。明確なのは、なんだか生活のすべてがどうでもよくなって、酷く泥酔していたことくらいだ。
 一人、バーで飲みに飲んで、帰り道すら危うかった私が千鳥足でたどり着いた小さな店先には、色とりどりの魚が水槽を優雅に泳いでいた。一刻も早く家に辿り着きたいはずだったのに、その店の前で足を止めたのはどうしてだったか。鮮やかなアクアリウムに心を奪われかけたというのもあった。綺麗だな。こんな水槽の中に身を投じて、そうして深く沈んで、溺れ死んでしまえれば良いのに。そんな思考に陥ったが、そうするにはあまりにも水槽が小さいな、と思ったことは、鮮明に覚えている。
 その後だ。女性の鼻歌のようなものを聞いた気がするのだ。
 店内の奥に視線を向ければ、やたらと大きな──それこそ、人一人入るには十分な程の水槽が目についた。鼻歌は、聞いたこともないメロディーを紡いだが、妙に私の心を掴んで離さなくて、誘われるように店の奥へと足を進めた。
 そうして出会った彼女は、魚ではなかった。炎のような赤くサラサラと長い髪は水気を含んで湿っており、だけど艷やかに美しく見えて。水槽の中、顔と腕だけを出して鼻歌を歌っていたのは、まるで異世界から抜け出してきたような、現実味のない女性だった。
 私が来たことに気がつくと、彼女は歌うのをやめ、長いまつ毛に縁取られた翡翠のように鮮やかな瞳で、私をじっと見ていた。そのまま、金縛りに合うみたいに動けなくなって。

「ねえあなた、わたしを買って下さらない?」

 甘い声でそう言われた気がした。実際には言葉なんて発していないのに。
 呆然としていると、店の奥から店主らしき男がのろのろとやってきて、私に言ったのだ。

「珍しいでしょう? まさかうちも人魚を売ることになるなんて思いませんでしたけど。お客さん、どうです?」
「人魚……?」

 言われてから水槽の中に沈んだ彼女の体を、初めて見た。上半身は白い肌が剥き出しになっていて、長い髪の毛で隠れているものの、堂々と露出した胸部にギョッとしながらも、下半身を見て更に驚くこととなる。
 腰から下は不自然に紅の鱗に覆われており、足の代わりにそのまま尾びれが付いている。
 半魚の亜人。お伽噺の中でしか聞いたことのない存在が、確かにここに存在していた。

「ご購入頂ければ、この人魚、家までトラックで送りますよ」
「いや、私は、」
「お安くしておきますよ。珍しいには珍しいんですが、なんていうか、うちに置いておくのが怖くって」

 買うつもりなんて無かったのに、まあ、貯金とかどうでもいいしなとか、とても綺麗だからとか、まともな思考もできずにそこそこの大金を払って、彼女の水槽を店主と協力してトラックに積み込んだ。

 翌日。なんだかおかしな夢を見たなと思って寝台から起き上がってリビングルームに向かうと、少し狭そうな水槽の中で、揺蕩う赤い彼女の姿があった。

「知ってますか、お客さん。人魚の肉を食らうと千年生きられるとか」

「人魚の体温って、水温と同じくらいだから、人間が触れると火傷してしまうとか」

「人魚の歌声は、人を惑わせるそうです。飼い方には十分気を付けてくださいね」

 店主は最後にそんなことを言っていた気がした。
 水槽の中からじっとこちらに向けられた双眸を黙って見つめ返す。本当に買ってしまったんだな、とどこか他人事のように思考して、水槽に掌を翳す。人魚は私の手と合わせるように、自分の水掻きの付いた手を水槽に当てた。硝子一枚を隔てて、私より一回り大きな白い掌は、人間味が無くて、少し不気味に思う。だが、同時にひどく惹き付けられるような不思議な感覚に、私は大きく溜息を吐いた。

「私はお前に触れたいと思う。けれど、私の熱で、人魚は火傷を負ってしまうのだろう?」

 人魚は口角を少しだけ上げて、口を開閉させる。だが、水泡が溢れるだけで、何を言っているのかはわからない。私は立ち上がると、水面から人魚を覗き込んで言った。

「聞こえないよ。顔を出して。お前と話がしてみたい」

 人魚は私の声に応えて水面から顔を出した。
 現実味を感じさせぬほどに整った顔で、小さく微笑む。その姿に確かに私の胸は高鳴っていた。

「人魚の歌は、人を魅了するらしいな。もしかして、昨日のお前の歌で私は既にお前のとりこになっているのかもしれない。触れたいと思うし、なんというか……」

 人魚は絶えず微笑を浮かべていた。私はその先の言葉を紡げなかった。この年になって、初めて抱いた感情の、名前を知らなかったわけではない。ただ、初めてのことに動揺を隠しきれなかった。
 姿を見ただけ。軽く歌を聞いただけだ。なのにこんなに胸が高鳴るのは、この異常な感情は。

「お前の肉を食えば、千年生きるという。昔の私だったらそれは大変興味深い話だったかもしれないが、今はそうは思わない。私は人生に疲れてしまっている」

 そうだ。だから彼女を購入することに躊躇はなかったのだろう。金なんて、いくらもっていても、もう意味を成さないから。
 私は彼女を買った明確な理由は覚えていなかったが、たった今、その理由を作ることができた。
 仕舞い忘れてリビングに放置されていた酒の瓶を手を伸ばした。まだ半分ほど入っている。蓋を開けて、一気に中身を煽ると、強いアルコールの匂いと深みのある味がごった返して、一瞬吐きそうになる。別に酒は好きではなかった。何もかも忘れるために飲んでいるだけだった。
 酒瓶を空にすると、そのへんに転がした。人魚はそんな私の様子をなんの感情も伺えない表情で見つめるだけだった。

「なあ、一緒に死んでくれないか」

 人魚の表情が少しだけ動いた気がした。

「海に連れて行ってやる。そこで、抱き合って一緒に死のう」

 彼女を抱きしめれば、私の熱で火傷してしまうから。熱で殺して、私は海の泡になって、そうやって二人で消えてしまえたら最高だ、と思ったのだ。
 縋るような目で人魚を見つめていると、彼女は大きな瞳を伏せて、一度だけ、確かに頷いて見せた。

 数日後、私の家から一番近い海岸で一つの死体が発見された。


***
死んでいたのは、誰だったのか。

第13回 瓶覗きを添へて、より。
人魚って好きです。美しいイメージを持たれがちだけど、人間じゃないからどこか気持ち悪さも併せ持っていて、不気味なような不思議なような、そんななにかですよね。
主人公は、一緒に来てくれる誰かがほしかったんだと思います。それは人間である必要もない。