複雑・ファジー小説

Re: ルナティックの硝子細工【短編集】 ( No.54 )
日時: 2020/01/06 19:22
名前: ヨモツカミ (ID: CstsioPs)

♯41 あたたかな食卓

 今日は仕事が長引いて、少し帰りが遅くなってしまった。娘の誕生日だから早く帰って来るように言われていたのに。やはり妻は怒っているだろうか。腕時計を確認すれば午後十時。いつもなら娘はもう寝ている時間だ。折角ケーキも買ってきたが、妻はどんな顔をしているだろう。
 サラリーマンの男は、内心ビクビクしながらマンションの自動ドアを通り抜け、エレベーターのボタンを押して、エレベーターが来るのを待っていた。白い息を吐きつつ、左手のケーキの箱に視線を落とす。折角なら、これに蝋燭を七本突き立てて、三人でハッピーバースデーの歌を歌って、六つに切り分けて。家族で娘の誕生日を祝いたかったが、自分が仕事を早く切り上げられなかったばかりに、そうは行かないのだろう。
 一階にたどり着いたエレベーターが開くので、中に入り、十三階のボタンを押す。閉まる瞬間、滑り込みで黒いコートに身を包んだ男が入ってきて、なんとか乗り込んだ。彼はどこのボタンも押さずに扉の前で佇んだので、同じ階層の人かな、と思う。だとしたらあまり見たことのない人だな。マフラーで口元を隠し、ニット帽を目深に被っていて顔はよくわからないが、知らない人だ、とぼんやり思う。だが次の瞬間にはサラリーマンの男の意識は、ケーキや妻子のことに向いていた。だから、黒いコートの男が右手に持ったモノの事など、気付きもしない。
 ふらり、と相手がこちらに寄ってきた気配を察して、サラリーマンの男は振り向こうとした。瞬間、

「うっ……!?」

 彼の背中を激しい痛みが貫く。体の内側から溢れ出た、ぬるりとした何かが冷たく肌を伝うのがわかる。なのに、背中は焼け火鉢を押し当てられたみたいに熱い。息を吐くのが苦しい。なんとか首を回して、黒いコートの男の顔を見ようとした。ニット帽とマフラーの隙間、二重の大きな瞳。自分よりいくつも若そうだ。彼は目元だけで笑うと、彼の背中に突き刺したナイフを引き抜いた。サラリーマンの男は力が入らなくなって、エレベーターの床に蹲った。
 黒いコートの彼は、サラリーマンを無感情に見下ろして、再び振り上げたナイフを彼の背中に落とした。
 くぐもった声が漏れる。鮮血が新しい傷口からダラダラ溢れる。何度かその背中にナイフを突き立てては引き抜いて、やがてサラリーマンの男が動かなくなると、黒コートの男は得物を懐に仕舞い込む。
 そうこうしている間に、チンと機械音と共にエレベーターの扉が開く。十三階だ。
 男はこれからやろうとしている恐ろしい計画を頭に浮かべて、思わずほくそ笑み、サラリーマンの家族の住む部屋のドアの前まで、ゆったり、ゆったりと歩いて進んだ。
 インターホンを押す。すると、荒っぽい足音が聞こえて、あまり待たずに玄関が開いた。

「おかえりあなた──あら、ごめんなさい、私てっきり……」

 苛立ちの篭った声で、本来帰ってくるはずだった男を出迎える、女性の姿。長い茶髪を後頭部で簡単に結っていて、未だエレベーターの中で転がっているあの男と年は近そうだ。黒いコートの男を見て、彼女は自分が相手を確認もせずに扉を開いたことを恥ずかしく思ったのか、気まずそうに髪の毛を弄っている。顔立ちはそれなりに整っており、スタイルも目立った欠点はない、標準的と言える。
 自分好みの女性で良かった、と男はマフラーの下で口元を歪ませた。

「ええと、すみません。何か御用でしょう、」

 か。と、彼女が発音できていたかどうかは怪しい。男は懐から取り出したナイフを、彼女の腹部に深々と突き立てていたから。
 女性は声を上げなかった。ただ、元から大きなその瞳をさらに大きく見開いて、自分の腹が赤く染まっていく様を凝視した。
 女は数歩後退って、玄関に仰向けに倒れた。ひい、ひい、と悲鳴と思わしきか細い声を漏らしながら、怯えたように男を見上げている。男はすかさず屈んで彼女の胴に跨って、肩に手を置くと、振り上げたナイフを胸元に突き刺した。
 ぎゃあ、と悲鳴が上がる。気にせずナイフをひねって、傷口をえぐる。女がナイフを持った男の腕を掴んできた。抵抗のつもりなのか。鬱陶しい。振り払って、二の腕に刃先を沈みこませる。ぶしゅ、と血飛沫が男の顔にかかって、彼は片目を閉じる。

「あ、ああぁ、やめて、助けて、誰か……」

 煩いので喉元にナイフをあてがって、思い切り横に引き抜く。今度は大量の血液が吹き出して、男の顔や胴を派手に汚した。
 女はビクビクと跳ねていたが、やがてピタリと動かなくなった。
 男はゆらりと立ち上がり、血の染み込んだマフラーとニット帽を捨てる。室内は暖かく、コートも必要なさそうだと思い、それも彼女の亡骸の側に脱ぎ捨てた。
 玄関においてあった姿見鏡に自分の姿が映る。返り血で汚れた顔は幼さを残していて、まだ二十歳も超えてない青年だとわかる。
 すでに二人の人間を殺したが、彼が殺人を犯すのは今日が初めてだった。そのくせ、頭は妙に冴え渡り、落ち着いている。指先は僅かに緊張で震えたし、心臓もバクバクと煩かったが、それでも何故か冷静でいられた。
 人は案外簡単に死ぬ。ナイフ一本で自分のほうが強くなれる。それがわかった今、彼に怖いものなんて何もなかった。
 彼がこの夫婦を殺そうと思ったことについて、深い理由はなかった。同じマンションに住んでいて、少し顔を知っていたから。幸せそうだったから。でも、それを壊してやりたいとか、そういうことを思ったわけではない。数人殺せればよかった。そうなると、三人で暮らしているこの一家が手頃だったのだ。
 青年は横たわる女の腕を掴み、廊下をひきずって歩いた。ドアを開けて明るいリビングルームにくる。部屋にあるダイニングテーブルの上には、この女性が作ったのであろう、冷めた料理が並んでいた。おかずはいくらか減っている。旦那の帰りを待たずに親子で食べたのだろう。丁度まだ何も食べてないし、とても美味しそうな料理だ。頂いてしまおう。
 自分が座る向かいの椅子に、女性を座らせた。まだ滴る血が机の上を汚し、唐揚げのキャベツに赤い雫が垂れる。ドレッシングだと思えば気にならないものだ。
 遺体を座らせると、青年はキッチンに向かった。食器棚を見つけ、そこから箸を一膳と茶碗を取り出す。次に炊飯器を見つけると、横についていたしゃもじを取って、蓋を開けた。ほわ、と温かな蒸気と共に二合程度の炊きたての米が詰まっているのがわかる。寒い外から帰ってきて、温かなご飯は嬉しいものだ。
 適量の米を茶碗によそって、リビングに戻る。机の上に茶碗と箸を並べていると、ガチャ、と無機質な音がした。

「おかーさん……? このひとだれ?」

 扉の前に立っていたのは、可愛らしい顔をした、小学生低学年くらいの女の子だ。寝間着姿だから、寝ていたのだろうが、母親の悲鳴で起きてしまったのだろう。まだ母親が死んでいることには気づいてないらしい。
 男は素早く女の子に歩み寄って行って、口を押さえつけると、床に叩きつけた。頭を強く打ち付けたためか、女の子は声を上げて泣こうとする。しかしくぐもった声しか出ない。どうせ子供は騒ぐから、口を塞いで正解だった。空いた方の片手でナイフを取り出すと、女の子の首元に勢い良く突き立てた。ぶしゅ、と鮮血が吹き出す。女の子が暴れ出す。だが、男に力で敵うわけもなく、無意味な抵抗だ。ナイフを引き抜いて、映画で見たワンシーンを真似して刃先の血を舐め取ってみた。別に美味しくない、鉄臭い血の味だ。男は無感情にナイフをもう一度女の子の首筋に振り下ろした。少女の口からも鮮血がドロドロ溢れだして、両手が赤に汚れる。エレベーターでこの子の父親にしたのと同じように、何度かナイフを同じところに突き立てていたら、やがて女の子はぐったりと動かなくなった。
 血で汚れた手は彼女の寝間着の裾で拭った。それでも乾いた血は拭いきれない。
 男は気にすることなくナイフを懐に仕舞うと、女の子の腕を引いてダイニングテーブルに向かった。母親の隣、男が茶碗と箸を置いた席の斜め前に女の子を座らせる。喉と口から溢れる鮮血は止まらず、寝間着や椅子を赤く汚していった。
 さて、と一息ついて、男は椅子を引いて、席につく。頂きます、と両手を合わせてから箸を持って、美味しそうな唐揚げを摘む。頬張ると、やはり冷えていたが、味は悪くない。ついで温かなご飯を口にかきこんで、咀嚼する。

「うま。奥さん、この唐揚げ手作りですか? めっちゃ美味しいですよ」

 それを聞いた女性が笑うことなんて、当然ない。男は始めから彼女の返答なんて期待していなかった。もう、死んでいるのだから。
 唐揚げを飲み込むと、次はエリンギのバター醤油焼きを口に運ぶ。こちらももう熱はないが、大変美味だった。

「エリンギうま。俺、茸大好きなんですよ。奥さん料理上手いですね」

 返事が無い中、男は一人で咀嚼する。他のおかずも一口ずつ食べて、母親と娘の顔を見回してから、箸をそっと置いた。

「俺、こうして家族で食卓を囲むってこと、したことなくって。今、凄い幸せです。ご飯も美味しいし。お嬢ちゃんも、美味しいご飯を作ってくれるお母さんで良かったねえ」

 返事の代わりに、親子は喉から血を滴らせる。

「俺のお父さんは、碌な人じゃなかった。仕事にも行かないで、酒ばっか飲んで、母さんや俺に暴力を振ってさ。母さんはいつも謝ってたっけ。ボロくて寒い家で、質素なご飯を食べて育ったんだ、俺」

 男はもう一度唐揚げに箸を伸ばす。母親から垂れた血がついていたけれど、気にせず頬張った。肉汁が口の中に広がって、本当に美味しい。

「高校を卒業して、家を出て、毎日働いて。いつも一人でご飯食べててさ、急に寂しくなったんだ」

 男の目元から、涙がこぼれる。

「ご飯、本当に美味しいです。一緒に食べてくれてありがとう」


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死、血、刃物、みたいなテーマで書いてみました。三題噺では無い、かな?
死体と食卓を囲む風景を書いてみたかったんです。死んでいても、誰かと一緒に食べるご飯は美味しい。