複雑・ファジー小説

Re: ジャックは死んだのだ【短編集】 ( No.58 )
日時: 2020/03/14 23:26
名前: ヨモツカミ (ID: CstsioPs)

♯44 ハレとケ

 紺色のセーラー服に、丈の長いスカート。そこから除く脚は黒いタイツに包まれていて、吉川は寒がりだからなあ、なんて思う。放課後の空っぽの教室で、彼女は片手に安っぽいカッターナイフを握りながら、ポツリと言った。

「人を殺してみたいんだ」

 平凡な日常に生きていて、そんな台詞を聞く機会が果たして今後もあるだろうか。ねーよ。まるでドラマのワンシーンみたいに錯覚する。
 私を殺したいのか? 何か吉川に恨まれるようなことしただろうか。今年の夏は海に行ったし、秋には某テーマパークに二人で行ったし、放課後は一緒に帰ることにしているし、私達は他人から見ても仲良しのはずだ。殺意を向けられるような覚えは無い。
 吉川は眼鏡をクイッと上げてカッターナイフを突き出す。チチチ、と音を上げて刃が顔を出した。

「死んでみる? 竹下」

 本気かよこの女。これだけ仲良しだが、正直吉川が何を考えているか、わからないときがある。今がその時かも。冷や汗を浮かべ、私はゆっくり席を立って、両手の拳を構える。

「殺す気ならタダじゃやられないよ」

 私達は向かい合う。言葉もないまま、動きもせず。途中、廊下を通った生徒が変な顔で私達を見ていた気がするけれど、私達は真剣なのだ。
 数分経っただろうか。本当は一分も経ってないのかもしれないけど、永遠に続くかと思った静寂が、吉川の笑い声でプツンと終わる。

「ははっ。非現実的ぃ。楽しくなっちゃうね」

 カッターを握っていた吉川の手がパッと開く。重力に逆らうことなく、カッターナイフは教室の床に無機質な音を立てて転がった。
 私が瞠目して固まっていると、彼女はポン、と私の肩を叩いて笑った。

「ビビらせちゃった? ゴメンね竹下。別に本当に殺人がしたいわけじゃないの。ちょっと非現実に浸りたかったの。ほら、そういうお年頃なの」

 厨ニ病なら三年前に卒業してほしいものだ。呆れて肩を竦めると同時にホッとして力が少し抜けたので、そのまま椅子に腰を下ろした。
 吉川が床に落ちたカッターを拾って刃をしまう。
 それから私の机の上に座ると、彼女は薄く笑ったまま語りだす。

「そう、殺人である必要なんかないんだ。でもさ、人を殺すってテレビや本の中だけのことじゃん。当たり前に明日が来て、普通に学校に行って帰るだけの私達には縁がない。そういう事をさ、してみたいんだよね」

 そういうことね、と私も思いを巡らせる。非現実的なこと。勿論、そういう事っていうのは実行するのも難しい。だって、平凡な私達には縁がないのだから。

「じゃあ、学校の窓全部叩き割って回る? そんくらいなら謹慎くらいで済むんじゃない?」
「おっ。いいね。どっちが多く割れるか競争でもするか」

 ははは、と笑い合う。そんな事、ちょっと口にしてみるだけだ。実行する勇気も覚悟も、私達にはとても足りないのだから。そうやって言ってみて、笑いあって、それだけ。冗談でしかない。
 割られるかもしれなかった教室の窓の外では、オレンジ色が空の下の方を染め上げて、上の方の空は紺碧色。鮮やかなグラデーションの中に星の光が散りばめられている。冬は陽が落ちるのが早い。そうして暗くなったら、途端に寒くなる。
 馬鹿なこと言ってないで、帰ろうか。どちらかがそう言ったので、私達はリュックを背負って、マフラーを巻いて、教室を出た。
 廊下を歩きながらスマホでなんとなくニュースを見ていたら、県内の高校で男子生徒が二人、自殺したのだと知る。これもまた、私達とは程遠い非現実だ。心中でもしたのかな、と思って詳しく見ると、二人は別々の日に自殺したと書いてあった。一人は屋上から飛び降りて、もう一人は近くの山で崖から飛び降りたらしい。自殺場所すら違うから、心中ではないのか。
 上履きと靴を履き替えて、外に出る。冷たい風が露出した肌を撫でると、自然と体が震えた。

「ねえ吉川。心中とかどう思う? 非現実じゃない?」
「あなたと二人で?」

 口にしてみたら、笑われた。

「そんなことするわけ無いじゃん。普通に生きて、一緒に過ごしてる平凡な今の方がずっと最高でしょ」

 それもそうだよねえ。返事をして、外気から守るためにポケットに両手を突っ込んだ。
 途中、コンビニに寄って、おでんを買った。はんぺんを一つ。汁は多めで、辛子もつけてもらって。それを電車が来るのを待ちながら、駅で二人、分け合いながら食べる。平凡な味の汁は温かった。

***
七夜月アグレッシブ>>17に出てきた二人で、さすれば救世主>>57の後日談みたいになっております。
平凡に日常を過ごす私達に、非日常はとても遠く感じる。だからこそ、この日常を守らなければならない。