複雑・ファジー小説
- Re: ロストワンと蛙の子【短編集】 ( No.66 )
- 日時: 2020/05/22 10:43
- 名前: ヨモツカミ (ID: Whg7i3Yd)
♯49 ケーキの上で
コチ、コチ、コチ。弱い照明が照らすアンティーク調で落ち着いた雰囲気の店内。薄暗い時計屋の中は、沢山の規則正しくも、か細い音に溢れていた。カチ、カチ、カチ。心音に似ているせいなのか。この音はどこか心地よい。
引き寄せられるようにして、近くのテーブルにあった秒針の音に視線を落とし、私はそれに優しく触れる。硝子製の立方体の置き時計。色と長さの異なる、三本の秒針が追いかけっ子する文字板の上を見つめて、私はふと首を傾げる。一番長いスカイブルーの針から背の順に並んで、エメラルドとインディゴの針が決められた調子で秒を刻む。でも、どうして秒針ばっかりなのだろう。数字のひとつも書かれていない文字盤は、空寂しい。それに分針や時針が存在しないのだ。硝子の表面に施された精緻な模様のせいか、なんとなくここにあることを許されてはいるものの、こんな時計じゃあ、時間なんて分からない。見た目こそとても綺麗な物なのに、時計としての機能を果たさないとなると、ただの置物に成り下がる。
「……時計は時を刻むだけのものじゃないのよ」
私があんまり長いこと見つめていたせいか、店長である白いウサギさんが声を掛けてきた。
「綺麗な時計でしょう? 表面の塗装には特に力を入れたのよ。それが部屋にあるだけで、どんなにチープな部屋も一気に華やぐに決まってるわ」
「……やっぱり、ただの置物って感じなんですね」
ウサギの彼女が語ったことについて考えると、この時計は本来の時計としての機能よりも、部屋の飾りとしての役割を果たすほうが得意らしい。そもそも置き時計というのは、大体は時間の経過と部屋の美しさを演出するものだ。ならば、時間を示せない時計にも存在理由はあるのかもしれない。
ウサギさんは、何か不満でもあるみたいに、わざとらしく溜め息を吐いてみせた。
「あんたにはその時計がただのインテリアに見えるわけ? さっきも言ったでしょう。時計は時を刻むだけのものじゃないんだって」
「じゃあこの時計は何を刻んでるって言うんですか」
ちょっとムッとしながら聞き返す。三本の秒針がぐるぐる永遠に追いかけ合うだけのインテリアで、文字盤には、何かを示す記号の一つも書いていない。時間を示せない時計は所詮部屋の華でしかないじゃない。私にはそうとしか考えられなかった。
ウサギさんは夏の海を閉じ込めた硝子玉みたいな瞳をちょっと細めてから、悪戯っぽく笑って言う。
「持ち主の、寿命を刻むのよ」
「寿命?」
彼女が言うには、三つの針はそれぞれ過去と未来と現在を表していて、購入した瞬間から、持ち主の寿命に従ってゆっくり寿命を刻みだすのだという。文字盤が空白なのは、今はまだ持ち主が存在しないからだ。買われたその日から、持ち主の残りの命を表す数字や記号が浮かび上がって、カチコチと針を進めるらしい。
面白い時計だ。寿命、という生き物全てに与えられた残りの時間を刻む。ある意味では時を示しているのだから、正しく時計と言えるのだろう。命の終わりなんて、気が遠くなるほど長く、でも気がついたらあっという間の時を共にする。それがこんな見目麗しい時計なら、退屈しないかもしれない。
試しに値段を聞いてみようとしたところ、ウサギさんは首を横に振るばかりだった。
「あんたみたいな若い子には売れないのよ。時計の方も、あんたに合わせて何周もしていたら、気が遠くなっちゃうわ」
「ええ。じゃあ、誰になら売れるって言うんですか」
「命の終わりが見え始めたヒト達よ。病気でもう先がないとか、高齢でいつ死ぬかもわかんないヒト向け」
そういうヒト達が、自分の終わりを知るために買うのだと言う。自分達に残された時間を、誰とどうやって過ごすかとか、寿命時計に記された残り時間を見て、大切に、大切に、時を消費していくのだとか。
そんなことが可能なのか、と大層驚いた。けれど、私の迷い込んだワンダーランドでは、案外それが普通のことらしい。
いつか自分の世界へ帰ったときのお土産としてほしい、と言ってみたが、やはり断られてしまった。
「あんたは未来のある子供。終わりの時を刻むなんて、まだ早すぎるのよ」
「でも、私にもいつか必要になる日が来ますよね。おばあちゃんになって、いつ死んじゃうかもわかんなくなったとき。そのとき、寿命時計があれば、不安じゃなくなるのかも」
「どうかしらね? ワンダーランドの普通が通用しないあんたには、無用の長物だと思うわよ」
だってね、と目を伏せたウサギさんのか細い声。
「秒針は嘘つかないのよ」
直ぐに言われたことの意味はわからなかった。何処までも正確で、愚直に寿命を刻むこと。それに何の問題があるというのか。
きっと、普通の世界で生きる私達にはその事実が耐えられないのだと。白ウサギさんは言ったのだ。
決められた終わりがいつになるのか。それは唐突に、明日かもしれない。もう一週間長いかもしれない。だとしても、残された時間が明確に分かってしまえば、ヒトはそれに間に合うように行動を取ろうとするだろう。
でももし、あと一時間なんていわれたら、もうなにも準備なんてしていられない。心の準備だって間に合わないし、怖くて怖くて、発狂してしまう者だっているかもしれない。明確に死へのカウントダウンをされたとき、私は耐えられるのだろうか。受け入れられるわけがない。怯えきって、死にたくないと喚くかも。
この時計は、死神みたいだ。秒針が完全に止まったとき、自分の心臓も動くのを止める。その瞬間が来るまでを、あと一分、あと三十秒、と見守ること。それを平然とやって退けることは、私にはできないと思った。そうしてこの時計を破壊して、命の終わりなんて知らなかったことにしだすだろう。
沢山考えて青くなった私を見て、白ウサギさんは呆れるみたいに笑った。
「死ぬのが怖いなんて、そっちでは当たり前の感情なんでしょうね?」
問に対して、何も答えないし表情も変えられなかった私から、逃げるみたいに白ウサギさんは奥の部屋へ行ってしまった。なんで、寂しそうな顔をしていたんですか? 呼び止めて尋ねることは出来ただろうけれど、そうすることで、彼女を深く傷つけてしまうような気がして、私の言葉は行き場を失って霧散する。
知るべきではないのだろう。ワンダーランドの常識なんて、何一つ。
白ウサギさんのいなくなった店内で一人でいたら、丁度用事が終わったらしい帽子屋さんが私を迎えに来た。ウサギに一言挨拶をしていきたい、と帽子屋さんが言うので、私は先に時計屋を出ることにする。
外に出てみると、雨が降っていた。小雨であっても、水に濡れるのは煩わしい事に変わりはない。
嗚呼、最悪。そう思いながら空を見上げてみて、私は目を剥いた。雲ひとつない快晴の空から、確かに雨は降り注いでいるのだ。天気雨だって、雨雲が少しは見えているものだと思う。
太陽の光と蒼穹から降りしきるそれは、奇妙で不気味にさえ思えたが、只々美しかった。
ぼんやり空を見上げていると、ようやく店から出てきた帽子屋さんが雨に気付いて、自分の上着を脱ぐなり、私の頭に被せてくれた。ほんのり温かくて、なんとなく安心する。
振り向いて変な天気ね、と声を掛けると、帽子屋さんは一瞬きょとんとした顔をした。だが、直ぐにああ、と口を開く。
「空が、泣いているんだ」
「……空がぁ?」
何それ? と思わず眉をひそめる。今まで聞いたことのない言い回しだったからだ。ワンダーランドではよくあることなのだろうか。
帽子屋さんは物を知らない私に小さく微笑みかけて、優しく教えてくれる。
「今日は雲がいないから、寂しくて泣いているんだろう」
誰だって、寂しければ涙が溢れるだろう。空も俺達と同じだ。
そう言って帽子屋さんは頭にのせていた帽子を取ると、その中に手を突っ込む。物理法則を無視して、腕が帽子の中に吸い込まれていき、それから引き抜かれた手には、大きめの蝙蝠傘が握られていた。
それをバサリと開くと、帽子屋さんは行くぞ、と言ってさっさと歩いて行ってしまった。
……相合傘はしてくれないのね。
もう一度見上げた空には太陽がいるのに。それでも泣き止まない空にとって、雲はどんな存在なのだろう。
前を向けば、私のことなんて気にせずに歩いていってしまった彼の背中が随分遠くにあったので、走って追いつく。ねえ、と空と雲の関係を帽子屋さんに聞いてみれば、ショートケーキの上のイチゴみたいなものだろう、と彼にしては可愛いらしい比喩表現で。
小馬鹿にしようとニヤニヤしていたら、やたらと歩くペースの早い帽子屋さんとの距離がどんどん広がっていた。
小走りで捕まえた帽子屋さんの腕をしっかりと掴んで、もうはぐれないようにする。
「ねえ、ケーキとイチゴの話してたら食べたくなってきちゃった。ケーキ屋さんに行こうよ。私、イチゴのタルトが食べたい」
歩幅をちっとも合わせてくれない彼が、頬を綻ばせて、ああ、と答えたので私は小さくガッツポーズをした。
「そもそも、俺達はお前には逆らえないからな。アリスの仰せのままに」
ワンダーランドの掟はわからないが、彼らは基本的に私の我儘を聞き入れてくれる。だからと言って、横暴に振る舞ったりはしないのだ。私は淑女だから。何処かの女王のように、気に食わなければ首をはねてしまうような、そんな存在にはなりたくない。
いつか正しい世界に帰るのだから、ワンダーランドに染まってはいけない。わかっているようで、不安定な感覚。私は本当にいつか、帰ることができるのか。
一瞬過ぎった不安も、ケーキ屋さんの看板が見えて、美味しい紅茶を飲む頃には忘れているのだろう。
そう。そうやって、全部忘れてしまえばいい。ワンダーランドは私を受け入れてくれるから。
──アリスの仰せのままに。
***
不思議の国のアリスオマージュのお話。ワンダーランドの日常を書きたかった。
常識や文化が違うってワクワクしちゃいますよね。だから異世界ファンタジーは素敵なんだ。
絶対に一緒じゃなければならない関係は尊い。一人でも生きていける誰かと誰かが一緒に生きることを選ぶことを結婚と呼ぶように、誰かと共にあることは尊いこと。