複雑・ファジー小説
- Re: 愛に逝けば追慕と成り【短編集】 ( No.71 )
- 日時: 2020/07/14 11:12
- 名前: ヨモツカミ (ID: Whg7i3Yd)
♯52 鉄パイプの味がする
高校二年生のバレンタインデー、前日。明日はどうするかと浮足立っているクラスメイトを横目に見て、私には関係のないことだと目を逸らすだけの日になる。そのはずだった。
数少ない友人が私に相談があるとか言って、放課後の教室に呼び出された。
友人、と言っても彼女とはあまり良好な関係とは言えなかった。中学生の時のいじめが原因で人間不信気味になった私は、他人を信じることが苦手で、自分の本音で話すことも無い引っ込み思案で、はっきりしない性格の女の子になっていたから。だから、友人である彼女は、自分の意見をはっきり言わない私を良いように利用しているような、そんな人である。利用されていると理解しながら自分から離れる意思表示をできない私と、それすらもわかった上で私に擦り寄ってくる友人。関係性は最悪だ。
なんの用、とぶっきらぼうに聞くと、彼女はきれいに巻かれた髪の毛を指先にくるくると巻きつけながら笑った。
「ねえほら、明日が何の日か知ってるでしょう? バレンタインデーだよ。あたしねえ、好きな人がいるんだけどぉ、直接渡す勇気がなくってさあ」
スルリ、と指先から髪の毛が離れる。窓から差す夕日を浴びて、赤茶色っぽく色付いた髪先を見ながら、内心面倒に思いつつ、すべてを理解した私は、いいよ、と快く返事を返すのだ。
要するに、代わりにチョコレートを渡して、その反応を報告しろということ。なんで私が。自分でやれよ。などの気持ちは一切表面に出さずに飲み下す。
「で、誰に渡したいの」
「んもう、あんたってばほーんとデリカシーないんだからあ。あたしの好きな人なんだよ? もっと遠回しに訊いてよー」
ごめんね、と作り笑いを浮かべて、でも結局どんな言葉が最適なのかわからなくて、誰なの、と訊ねることしかできなかった。
彼女は勿体ぶるように髪や頬を触ってモジモジしていたが、周りを見回して、誰もいないのをしっかり確認してから小声で伝えてきた。
「……村上くん、だよ。あんた同じ中学出身だからあたしより渡しやすいでしょー?」
村上。うちの学年にその名前の男は一人しかいないし、同じ中学という時点でもっと確実に絞り込まれることになる。彼の名前を聞いた瞬間、しっかり防寒したはずの体が、急に凍りつくような錯覚に襲われる。
そいつは、中学生時代、私のことをいじめ抜いてきた男だった。
私物が無くなるのは日常茶飯事で、陰口も暴力もよくあった。でも、一番怖くて殺されると思ったのは、忘れもしない冬の屋上でのこと。
村上の仲間たちに押さえつけられて、村上はニタニタしながら長い鉄パイプを持っていた。なんでこんなことになったんだっけ。わかんない。クラスでは目立たないように過ごしていたはずだ。どうして私に目をつけたのだろう。いつも考えるけれど、わからない。きっと偶々、都合が良かったとか、なんとなくで、大義名分なんて立派なものは存在しなかったのではないか。
それで、とにかくあの長い鉄パイプで顔を殴られたんだっけ。頬骨をガツン、と。口の中が切れて、鉄臭い味が、口内を満たした。やめて、と言おうとしたらもう一発。顔は不味いって、とか、取り巻きが一応村上を止めようとしていた気がする。でも、あいつはやめなかった。
殴られて、殴られて、顔だけじゃなくお腹とか、背中とかも。冬なのに、体中痛くて熱かった。
最後に口に鉄パイプを突っ込まれた。血の味と大差ないそれを咥えさせられて。
「お前は偉いね。最後まで泣かなかった」
違うよ、涙の流し方がわかんなくなっただけだ。本当は怖くて痛くて、泣きたくて仕方なかったのに。偉いね、の言葉と共に村上の温かくて大きな手が、柔らかく私の頭を撫でていた。なんであいつは、そんなに穏やかな顔ができるのだろう。私のこと、滅茶苦茶に殴り付けたくせに。村上の取り巻きが、アンタほんと歪んでる、って言っていた。私もそう思う。頭がおかしい。人を散々痛めつけておいて、こんなにも優しい顔と手付きができる理由は何だったのだろう。
「我慢できたね、偉いね」
この男が、ちっとも理解できない。これだけ暴力を振るっておいて、何がしたいのか。しばらく私の頭を撫でて、それが飽きたら、村上と取り巻きたちは私を置いて帰ってしまった。頬は腫れて、酷い怪我をしたのに、させたのに、どうしてこうも何事もなかったかのように振る舞えるのか。
でも、高校に入ってから村上が私に構ってくることは一切無くなった。単純に飽きたのか、取り巻きがいなくなって難しくなったのか、理由は何もわからなかったが、村上は本当に他人のように振る舞うようになった。
あれだけのことをしておいて、どうして廊下ですれ違ったときに、私を空気みたいに扱えるのだろう。私はいつも村上が視界に入ると、怯えて肩が跳ねてしまうのに。
とまあ、そんな具合に私は村上という男が怖くて仕方がないので、こんな依頼を受けるわけには行かないと思った。でも、彼女は私の数少ない友人で、何でも言うことを聞いてくれたお利口ちゃんが、急に期待に背いたらどうするのだろう。次の日から、村上みたいに何事もなかったみたいに、私を切り捨てるのではないだろうか。
それでいいはずなのに、今更一人になるのが怖いなんて思う。都合のいい女だと使われるだけのはずが、私も彼女の隣を都合よく維持したかったのかも知れない。
だから、彼女の手作りチョコレートを受け取ってしまった。
可愛らしくラッピングされた袋の中で、定番のハートの形をした、チョコレート。添えられたメッセージカードには、村上に対する彼女からの思いの丈が綴られている。友人は、本気であんな男を好きになったらしい。村上も、高校に入ってからは大人しくしているから、その雰囲気に好意を寄せてしまう女の子もいるのだろう。中学生の時に、私にあんなことをしたなんて、誰一人知らないから。
一応友人である彼女が、あんなゴミみたいな男を好きになることも、村上という男の過去を誰も知らない事も、何もかもが気に食わなかった。
学校からの帰り道、友人の作ったチョコレートの包み紙を徐に開封する。チョコレート特有の甘い香りがして、美味しそうだった。
それを、無表情に齧った。子気味いい音がして、欠けたチョコレートは、ちょっぴり苦いビターの味わい。
明日、早く学校に来て、メッセージカードだけ村上の机の中に押し込んでおこう。こんなことをして、いつかは友人にバレるだろうに。バレたってどうでも良かった。食べ終わったら、袋はクシャクシャに丸めて、ポケットに突っ込んだ。苦い、ビターの効きすぎたチョコの後味が、いつまでも残ってる感じがした。
次の日、メッセージカードを村上の机の中にそっと置いて、友人には何食わぬ顔で笑いかけた。バッチリ渡しておいたよ、とでも言いたげに。それをいつもお利口な私がまさか嘘を吐いているなんて疑いもせずに、彼女はありがとうだの、流石あたしの友達だのと褒めてくる。どうにも胸は痛まなかった。なんて薄情なやつ、と密かに自分を貶す。これがバレたとき、友人はどんな顔をするかな。まあでも、メッセージカードは捨てなかったんだから、なんとかなるだろう。どこか楽観的に考えたまま、その日は放課後まで何もなかった。そう、放課後までは。
「なあ、お前」
聞き覚えのある声に、心臓が飛び跳び出しそうになる。自分の席で荷物をまとめて、帰る支度をしていたら、村上に声をかけられたのだ。じっとりと嫌な汗が滲む。怯えて竦む私を、村上は面白そうに眺めてから、ちょっと付いて来い、と言った。拒否権は、当然のように存在しないのだろう。でもここは高校だ。あの頃の関係性は無くなった。村上は私をいじめることはなくなったのだから。だとしたら、ここで私が逃げ出しても、報復を受けることはないのではないか。そう思うのに、その一歩の勇気が出ない。
結局私は、小さく頷いたあとに、荷物を背負って村上の後に続くことしかできなかった。
三階に続く階段を上がって、四階、五階と進んでいくと、屋上にたどり着いた。忌々しい記憶の詰まった、中学の屋上とは少し違う、でも殆ど変わらない風景に、私は足が竦んだ。
「お前といつもつるんでる女から、手紙もらってさ。一生懸命作りましたとか書いてあるから、なんのことだと思ったけど、今日バレンタインだったろ? だから、チョコレートとかも付いてるはずなんじゃねえのって思ったわけな?」
早速、村上は話を切り出してきた。あのメッセージカード、そんなことが書いてあったのか。やっぱり渡さなきゃ良かった。そうすれば、こうして恐ろしい村上に呼び出されることはなかったのだから。彼女との交友関係に亀裂が入るのは間違いないが、どちらがマシかと聞かれれば後者である。
怯えて縮こまっている私を見下ろして、村上は続ける。
「そんで友達が、お前が俺の机に手紙を入れるのを見たって言ってたから、どういうことか説明してみろよ」
威圧する気は無いのだろうが、村上の声には嫌な圧がある気がする。私達は高校生になってすらも、いじめっ子といじめられっ子の関係を抜け出せないのだろうか。
嫌だな。そう思っても、未だに怖くて足が震えているのだ。私達は何も変わってない。あの日の鉄パイプはここに無いけれど、男の力で殴られれば、素手でも勿論痛いだろう。
何を言えば殴られずに済むかな。考えたが、私の小さな頭では何も良いアイディアを捻り出せない。
結局、正直に白状するしかないのだろうと、私はボソボソと小さな声で説明した。
「手紙は、彼女からあんたに宛てたラブレターだよ。それで、中に入ってたチョコレートは、渡したくないから私が食べた」
視線が合わないようにそう告げると、一瞬の間をおいてから、村上はくつくつと笑いだした。
中学生の時も、こうやって高らかに笑いながら村上は私を殴った。同じように拳が振り下ろされるのではと身構えていたら、頬に彼の両手が伸びてきた。ビクリ、と身を引くが、力で引っ張られて、村上と視線が交差する。何をされるのだろうと、ギュッと目を閉じると、唇に何か柔らかいものが押し付けられる。冬の冷気で少し冷えていたが、それは隙間から舌を伸ばして、私の口の中に滑り込んできた。
状況が飲み込めずに目を見開いて、村上を押し退けようとするのに、力では全然敵わない。どうしていいかわからなくて、泣きながら口の中の異物にガリ、と歯を突き立てた。
「痛ッ」
村上が声を上げて、ようやく私達は距離を取る。それでも今の接触は、そう簡単に忘れることのできない、色濃いトラウマになりそうだと思った。
キスをされたんだ。世界で一番嫌いな男に。
なんで。
何を考えているの。
村上を睨みつけると、チロリと舌を出してきた。私が噛み付いたところから、血が出てる。
「なんのつもりなの?」
「チョコレートの味、残ってるかと思って」
残ってるわけないじゃない。昨日食べたビターチョコレートは、苦くて全然美味しくなかったよ。
言おうとした言葉は、音にならずに、私はとにかくこの場から逃げ出した。
泣きながら、口を何度も拭った。
大嫌いな男とのキスは、あの日振りぬかれた鉄パイプの味がする気がした。
***
この度は、何をやらかしたんだっけ……私が二年越しに傷跡を掘り返して馬鹿にしたことによる反省文でしたね(笑)
リクエストの「バレンタインにチョコを渡せなかった女の子」で書きました。この度は誠に申し訳ないことをしました。でも反省文がSSていうのちょっと面白いからまだ反省しないで置こうかな、嘘ですもう許してくれ、良好な関係を築こうよ私達……
本来、恋人たちのほろ苦い思い出ができそうな場面で大嫌いな男に接触しなくちゃいけない苦痛を書くという、私の趣味全開でした。