複雑・ファジー小説

Re: 愛に逝けば追慕と成り【短編集】 ( No.75 )
日時: 2020/07/23 12:14
名前: ヨモツカミ (ID: Whg7i3Yd)

♯54 海に還す音になる

 その水族館に来た家族連れは、何組も頭を悩ませた。普通に水生生物を見て回っていたはずが、途中で子供が姿を消すのだ。

「鈴の音に誘われたの」

 たった一人、行方不明になってから三日後に見つかった少女は、ぬいぐるみを撫でながらそう語った。
 子供にだけ聞こえる音がするのだという。
 最初にリンリンリン、と三回。可愛らしい音に振り向くと、そこには水のドレスを着こなした小さな手の平サイズ女の子がいるのだとか。
 あなたはだあれ。訊ねれば、代わりに響く鈴の音。どうやらそれが、その女の子の声なのだろう。だんだんそれが、こっちへおいでとでも言っているように聞こえる。
 導かれた子供は、そのまま帰ってこなくなるらしい。もう一日に何回も迷子のアナウンスを流したが、子どもたちが帰ることはなく。

 なのに、行方不明になって三日経ったある日突然、その少女だけが帰ってきた。
 どこにいたのかと訊ねられると、それはそれは楽しい経験をしたと笑って答える。
 知らない子どもたちが混ざって、真っ青な水槽の中を元気に駆け巡ったのだと。喋るとコポリと泡を吐くだけで、声にならない。だからお互いが何を言っているかは理解できなかったが、その幻想の中では最早言葉も必要なかったという。
 少女が帰ってきたのは、お母さんに預けたままのぬいぐるみのことを思い出したから。イルカちゃんのぬいぐるみ。お土産売り場で買ってもらった、大切なやつ。あれがないと寂しいもの。だから、道を引き返した。
 でもそうしたら、もう三日も経っていたらしい。
 出会った大人たちがみんな血相を変えて少女を保護した。何が起こったのかわからない彼女は、ただぬいぐるみを探していただけで。
 他の子どもたちはいつまでも帰ってこなかった。水の中の泡沫のように、消えてしまった。
 それはまるで、ハーメルんの笛吹き男が子どもたちを隠してしまったみたいだ、と誰もが思った。
 謎の鈴の音。水の妖精が、悪戯に子供達を攫ってしまったのだろう。

 少女にはまた、リンリンリンと、耳鳴りのように鈴の音が聞こえる事があるらしい。執着の強い水の妖精が、彼女を呼んでいるのだろう。
 まだあなたを諦めてはいない、と。
 少女はそれが怖くて耳を塞ぐのに、鈴の音が鳴り止まない。リンリンリン。お母さんと過ごしていても、ご飯を食べていても、お風呂に入っていても、付き纏うみたいに鈴の音が響いた。
 等々耐えられなくなった少女は、鈴の音が何処から聞こえるのかを探し始めた。リンリン、リン。こっちだよ、こっち。囁くような声が、呼んでいる。
 こうなったら、音の元凶を捕まえて、もう煩くしないように懲らしめてしまおう。そう思った少女は、鈴の音を追いかけて、家を飛び出した。
 リン、リンリン。近い。そこにいるのね、と少女は音だけを頼りに進んで、そして、
 甲高い悲鳴が上がる。
 弾かれたように少女が振り向いたとき、もう遅かった。
 少女が立っていたのは、横断歩道。あ、と思う間もなく、信号の通りに走っていた車が少女に衝突して、鈍い音が響く。
 リンリン。遠のく意識の向こうで、青藍の中を泡が舞っている景色が映る。海の中で、少女と同じ年くらいの子供達が楽しそうにはしゃいでる声が聞こえた。

 目が覚めると、病室のベッドに寝かされていて、母親が傍らで両目に涙を貯めていた。少女は奇跡的に助かったらしい。
 鈴の音はまだ傍らで聞こえている。まだわたしに付き纏うつもりなのか、と少女はベッドを殴りつけた。それでも音は消えない。
 おかしくなりそうだと思った。
 やがて月日が経って交通事故の怪我も回復し、少女は退院した。

 鈴の音は消えなかったが、少女もそれをいちいち気にすることはなくなって、そして彼女は小学校に上がった。友達と話しているとき、授業を受けているとき、微かに遠くで鈴の音は鳴り続ける。呼ばれているのだ。だけど彼女は根気よく無視し続けた。
 そうして何年がすると、音がしなくなっていたのだ。しかし代わりに、おかしな夢をよく見るようになった。
 ──深海にいる。
 そうわかるのは、口を開くと透明のあぶくがコポリと音を立てるから。それと、青く透き通った光が差している。周りに生き物はいないけれど、ここは幼い頃に一度連れて行かれたあの空間に似ていると気付く。水の妖精が鈴の音で誘って、沢山の子供達が迷い込んだ、あの不思議な場所。
 自分の体を見下ろすと、腕がおかしいことをすぐに悟った。黒くて長い、うねうねした蛸の足みたいになっている。自分は蛸になってしまったのだろうか。わからないが、自分をよく観察するごとに、自分が人間とはかけ離れたものになっていることがわかって、怖くなる。うねうねと長い触手は何本も生えていて、表面をよく見ると鋭い歯のようなものがギザギザと並んでいる。

 そして、そんなことは気にならなくなるほどに少女は酷い空腹感を覚えていた。

 ──食べたい。今すぐに何か。なんでもいいから食べないと死んでしまいそう。
 そう思っていると、丁度何人かの幼い子どもたちが楽しげにこちらに近づいてくるのが見えた。
 少女は咄嗟に触手を伸ばして、子供の一人を捕まえて、喉元に食らいついた。
(非表示 ※運営規約上食人表現について保持できません 2020.07.23) もっと。もっとと、触手を伸ばした。子どもたちは怯えて逃げることはない。むしろどうしてか、楽しそうにこちらに向かってくるのだ。こんなに都合のいい獲物はいないだろう。
 リン、リリン。
 そのとき、あの鈴の音が聞こえた。
 何処から。
 自分自身からだ。
 どうしてだろう、と少しだけ思考して、そんなものも酷い空腹感が覆い尽くしていく。
 今はただ、(非表示 ※運営規約上食人表現について保持できません 2020.07.23)お腹が満たされるまで。

***
ちょっとホラーテイストにまとめてみました。
みんつくのお題「鈴、泡、青色」より。