複雑・ファジー小説

Re: 朗らかに蟹味噌!【短編集】 ( No.83 )
日時: 2020/11/06 16:45
名前: ヨモツカミ (ID: xPOeXMj5)

♯57 朱夏、残響はまだここに

 大人になって、夏が来るたびに、またあの日々を思い出してしまうのだ。
 友人たちに囲まれながら、僕は小さく笑って。そうして静かに語りだした。大切な宝物を、小さな箱に収めるときのように、丁寧に。

 小学生の頃。僕の夏休みは田舎のおばあちゃん家で過ごすものだった。忙しい両親には普通の日も夏休みも関係なかったのだ。親の帰ってこない家で一人寂しく過ごすよりは、田舎の自然に囲まれたお婆ちゃんの元にいた方がいい。毎年そうしてきたから僕にとってはそういう夏休みが当たり前で、東京で両親と過ごせないことについては特に何も感じなかった。
 そうして、毎年共に夏休みを過ごす友達が、いたのだ。

「キョウ、また会えたね! 遊ぼうぜ!」
「誰だ、お前」

 怪訝そうな顔でそう言う彼を見ては、胸が締め付けられるような思いをする。だけど僕は、彼の前ではずっと笑顔でいたかったのだ。

「アサだよ。この夏もよろしくね」

 キョウは目を瞬かせていたが、まあいいか、というように笑って、僕の手を握る。
 毎年、僕らの夏はこうして始まるのだ。

 まずは川で遊んだ。冷たい水に足を突っ込んで、泳いでいる小魚を追いかけ回した。キョウは服が濡れるのを嫌がっていたけれど、結局最後は二人とも全身水が滴るほどビショビショになってしまうまで遊び尽くすのだ。
 捕まえた小さな魚の入ったバケツを覗いて、これはなんの魚だろうとふと疑問に思う。キョウが、ヤマメだよと教えてくれた。

「ほら、この側面の水玉みたいな模様が特徴的だろ。ちなみに、ヤマメは食べると美味しいよ」
「ホント? じゃあコイツ食べようよ」
「こんなちっこいの駄目だよ、こいつがもっと大きくなったら食べるんだ。だから、これは逃がす」

 キョウに言われた通りにバケツの中身を川に流した。ヤマメが泳いで見えなくなるまで二人で見送る。

「……明日も遊ぼうね、キョウ」

 思い出をできるだけ沢山作らないと。そんな思いから、少し焦りながら彼を誘う。キョウは笑って頷いていた。何も知らないから、そんなふうに笑えるのだ。同じように笑えないことに、チクリと胸がいたんだ。

 今度は神社で虫を取った。お婆ちゃんの家から借りてきた虫取り網と虫かごを持って、木の幹にいるセミを乱獲する。キョウはセミを気持ち悪がって触れなかったので、彼の顔に虫を近付けては本気で怒らせたりなんてしてみて。
 口を聞いてくれなくなったキョウを置いて、近くの駄菓子屋に走って行って、ラムネを二本買う。よく冷えたそれを持ってキョウの元に戻ると、彼は目を丸くして、それから呆れたように笑うのだ。

「許してやる」
「それは良かった」

 彼がラムネを大好きなことは知っていた。中身のビー玉を集めるのが楽しいらしい。神社のよくわからない祠のそば、木陰で涼しい石畳に並んで座り込んで、二人ラムネの瓶を傾ける。冷たくて、シュワシュワした甘味が口の中を満たしていく。

「はー、やっぱラムネって最高だなあ」

 瓶を握るキョウの笑顔が眩しくて、僕は少し目を細めてそれを見ていた。また、瓶を上に傾けて中身を煽る。青く透き通った瓶の中でビー玉がカラン、と音を立てた。去年も同じように神社の木陰でラムネを飲んだ。だから去年と同じように、瓶の中のビー玉はキョウにあげることにする。差し出された硝子玉を見て、彼がはしゃぐのが嬉しかった。
 夕方になると、キョウは燃える空をビー玉越しに覗いた。

「すっげえ。真っ赤だ。アサも見てみろよ」

 渡されたビー玉の中を覗くと、雲も空も、沈んでいく太陽に焼かれて茜に色付いていた。わあ、と思わず声が漏れる。遠い街に沈んでいく光が、こんなにも綺麗なんだ。

「そうだ、アサ。夕陽が赤い理由って知ってるか」

 キョウが得意げな顔をしながら、不意にそんなことを言い出した。小学生の僕は、知らないことが沢山ある。でも、その理由は知っていた。知っていたのに、キョウの口からそれを聞きたくて、知らないよと答える。そうしたら、彼が嬉しそうに教えてくれるから。

「沢山ある光の中で、赤い光が一番遠くまで届くんだ。だから、夕陽は赤く見える」
「じゃあ、僕にとっての夕陽はキョウだね」
「……なんだそれ」

 怪訝そうな顔をするキョウに、僕はただ笑いかける。悲しくて少し歪んだ笑顔になってしまったけれど。なんでもない、と告げた声が掠れた。

「もう帰る時間だ。また明日遊ぼう」

 お互いに手を振って、夕焼けの中、別々の方向へ歩いていく。そういえばキョウはどこに住んでいるのだろう。一瞬足を止めて、彼の後ろ姿を見る。
 でも、なんとなく怖い感じがしたから僕は走っておばあちゃんの家に帰った。

 次に遊ぶときは家に誘って一緒に宿題をした。おばあちゃんが入れてくれた麦茶を飲み干して、窓から吹き付ける風で鳴る風鈴の音を聞く。
 算数をしていたキョウが、問題につまずいているので、僕が教えてあげた。去年は確か、キョウが教えてくれていたのにな、なんて。僕がわからない問題を教えてくれる人がいなくなって、自力で解くしかなくなっているのは、中々辛いことだった。
 二時間くらいは真面目に宿題に取り組んでいたと思う。少し冷たい風と風鈴の音。それからオレンジ色の光が眩しくて、僕は目を覚ます。

「……あれ」

 どうやら僕らはいつの間にか眠っていたらしい。麦茶の中に浮かんでいた氷もすっかり溶けて、コップの中身を飲み干してみれば、気温と同じくらいに温まっていて、全然美味しくなかった。

「キョウ、起きて」

 彼の体を揺すると、だるそうに体を起こして、目を擦る。全然宿題進まなかったねと笑いかけると、彼は算数のプリントを僕の顔の前に突きつけてきた。……ほとんど終わっている。

「お前が飽きて寝ちゃったあと、俺は真面目にやってたんだよ」
「うわ、ひどーい。なんで起こしてくれなかったの!」
「俺も眠くなったから、一緒に寝ちゃおうと思って」

 へへん、といたずらっぽく笑う顔をみて、僕は頬を膨らます。まあいいか。宿題は程々に。僕ら小学生は遊ぶことが仕事だ。おばあちゃんもそう言っていた。本気で宿題に行き詰まったら、大人を頼っていいよと。僕に対して甘いおばあちゃんにそう言われていたのだから、素直に甘えてしまうだろう。

「もう遅いから、帰るよ」

 キョウが荷物をまとめて去っていく後ろ姿を見送った。また明日ね、と声を掛け合って。本当に明日も会える確証なんかないけれど、まだ夏休みは終わらないから。

 そうやって、来る日も来る日も遊んだ。
 一緒に夜の森に入って捕まえたカブトムシ。相撲をさせて、どっちのほうが強いかなんて競い合った。
 おばあちゃんの畑の手伝いをした帰り、畑で取った大きなスイカに、二人で夢中で齧り付いた。
 ツチノコを探して山を駆け回った日もあった。見つかったのは全部普通の蛇だったけど、僕もキョウも、ツチノコの存在を信じて疑わなかったし、その日は見つからなかっただけだと言い聞かせた。
 海に行った日もあった。浜辺で拾った貝殻は、夏休みの工作に使うことにして。僕はその日初めてナマコを触ったのだけど、あれは気持ち悪かったな、なんて。
 家に帰れば日めくりカレンダーを一枚、また一枚と剝がしてゆく。明日を心待ちにしながら宿題の絵日記を書いて、でも夏が着実に終わりを迎えていくことに、確かな不安を覚えた。

 夕暮れの茜に混じって、赤トンボが飛び始める頃。遠くの山からはヒグラシの鳴き声が物淋しげに響き出す。夏休みもあと少し。
 近所のヒマワリ畑を観たときにハッとした。あの大輪は、頭が成長しすぎたせいなのか、みんな病気の患者みたいに項垂れて萎れている。僕は、何故かこの光景をよく覚えていた。

「夕方は結構涼しくなってきたよな」

 キョウが何気なく呟く。夏がもうすぐ終わるのだ。

「アサがここにいれるのって夏休みの間だけなんだろ。ちょっと寂しくなるなあ」

 キョウは萎れたヒマワリを見上げながら、そっと口にした。僕だって、寂しくてたまらない。だけどもう、そんなことを言ったって仕方がないのを知っていた。
 鼻のあたりがツンとして、熱いものが込み上げて来る。僕だって、寂しいさ。言えない。言えないよ。

「おいアサ、聞いてるか」
「聞いてるよ、キョウより僕のほうがずっと辛いんだから、当たり前じゃんか!」

 急に声を張り上げたから、キョウはちょっと目を丸くしていた。驚かせるつもりはなかったのだけど。

「ごめん……。もう遅いから、帰ろうか。また明日」
「おー、また明日な」

 きっと、あと数えるほどしか言えないお別れに、僕はとうとう泣いていた。キョウに見られたくないから、顔を隠して走って帰る。

 ──夏が終わる頃。何故かこの友達は消えてしまうのだ。
 毎年出会うのに、次の夏が来る頃にはキョウはそれを忘れている。彼は同じ夏に取り残されて、何度も同じ姿で僕の前に現れる。
 「誰お前」って。毎年言われて、僕は何度でも君の名前を呼ぶのだ。

 とうとう、夏の終わりが来る。キョウが消えることが、夏の終わりだった。来年も遊ぼうねって言って、でも来年の君は僕を覚えていないのだ。

 八月三十日の夕暮れ。枯れたヒマワリを背景に、キョウの体が透けている。キョウ自身も、酷く驚いた顔をしていた。僕はこれを見るのは三回目。太陽が完全に沈む頃、その体は完全に透過して、最初から彼は存在しなかったみたいに、消えていなくなるのだ。

「俺……どうなっちゃうんだろう」

 不安そうにこちらを見るキョウの手を掴む。まだ触れた。そのまま抱きしめる。夕暮れでもまだ熱の篭った空気の中、密着した肌は汗でベタついている。まだ。まだその感触がある。このまま離さなせれば。そんなことは去年か一昨年にもう試したこと。どんなに消えないでくれと泣き叫んでも、キョウはいなくなる。

「隠しててごめんね、僕、キョウが消えちゃうこと知っていた。でも、怖くて言えなかった、ごめんね」
「消える……俺、消えるって。どうすれば……」
「わかんない。ごめんね」

 次から次へと溢れる涙を、片手で拭って。抱きしめたまま、彼を離しはしなかった。
 また来年、沢山思い出を作ればいい。そう思うのに、胸が締め付けられる。お別れなんてしたくない。
息が詰まるほど寂しい。嫌だ。どうして毎年、違う夏を繰り返すのに、キョウは夏に取り残されるの。君だけ、夏が連れ去ってしまうの。
 どうして。
 黄金の光が見てる。陽の沈む空はなんだか寂しい。キョウと遊べる時間が終わって、少しずつ、確実に夏も終わろうとするからだ。

「……アサ。俺、この夏楽しかったよ」
「うん」
「初めはさ、誰だかわかんないお前が話しかけてきて、わけわかんないまま一緒に遊んでさ。でもすげー楽しくて」
「うん」
「消えるなんて、嘘みたい。明日もたま、アサに会えるって思ってた」
「……僕もだよ」

 少しずつ、触っている感触がなくなっていく。

「行かないで」
「俺も行きたくないけど。もう、お別れだ」
「キョウ!」
「また。また来年な」

 そんなことを言って。キョウは次の年僕のことを忘れるくせに。
 太陽が山に沈み切る。瞬間、手の中にあった温もりも、跡かたもなく消えた。
 僕はその場に崩れ落ちて、声を上げて泣いた。それを枯れたヒマワリが他人事みたいに見ている。

 夏が、終わったのだ。

 小学校を卒業して、中学に上がった頃に、おばあちゃんが亡くなった。必然的に、僕の夏休みは東京で過ごすものとなって、キョウには会えなくなった。だから少しずつ、彼のことを忘れていった気でいたのに。

 大人になって、生活も安定してきた頃。急に思い立って、小学校の頃遊んでいたおばあちゃんのいた街に訪れた。森や川、山。あの頃駆け回った自然がそのまま残っていて。夏の噎せ返るような暑さもまた、変わらないなと辟易していたとき。
 通りすがった神社の前で、若い男を見かけた。何故かお互いに視線が合う。暑さに参って、疲れた顔をした、僕よりもいくつも年下に見える男。
 そいつが不意に目をパっと輝かせて、僕の名前を呼んだ。
 アサ、久しぶりって。

「……キョウ?」

 また、僕の夏は始まろうとしていた。

***
みんつくより、寂しい夏というお題で書きました。
「朱夏」とは、青春と似た言葉です。夏の異名であり、青春が春と20~30歳を表す言葉なのに対して、朱夏は31歳から50歳までを表す言葉でもあります。