複雑・ファジー小説
- Re: 朗らかに蟹味噌!【短編集】 ( No.84 )
- 日時: 2020/11/12 06:58
- 名前: ヨモツカミ (ID: xJyEGrK2)
♯58 夢オチです。
夜道を全力で駆ける。目の前には若い女が同じくらいの速度で走っている。ヒールの靴では走り難そうだ。彼女はたまにこちらを振り向いては、怯えた顔で、とにかく走る。
俺は包丁を片手に追いかける。
何をしているのだろうか、と思う。彼女との面識はない。街灯すらない道。月明かりだけを頼りに、俺達は走り続けた。
偶々、今日は嫌なことがあって酒を飲んだのだ。上司が俺に仕事を押し付けてきたとか、時間内に仕事が終わらなくて残業をしたとか、帰りの電車が人身事故で遅れたとか。嫌なことが重なって、珍しく飲めもしない酒をしこたま飲んで。美味しくもないし、頭がクラクラして、何だかよくわからなくなる。
深夜を回った頃、俺は最後の酒を一気に煽った。強いアルコールの味。炭酸の弾ける舌触り。
「……美味くねえ」
意識がふわふわするが、それだけだ。なんだか頭が痛いし、体は熱いし。それで嫌なことを忘れられるわけでもない。ムシャクシャする。
明日だって普通に仕事がある。眠い目を擦りながらも、決まった時間に目覚めて、満員の電車に揺られてストレスをためて、胃痛に耐えながら会社に向かって。朝だけでこんなに辛いのに、上司はこちらの気持ちも事情も考えずに、とりあえず仕事を押し付けて。小言を言って。怒鳴りつけて。
それが週五日続いて、二日しかない休みは睡眠に使われる。やりたいこともやれないで、仕事、電車、仕事、電車、ストレス、ストレスストレスストレス。
台所に空き缶を捨てに行くときに、ふと、まな板の上に放置した包丁が視界に入った。その銀色の刀身が、艶かしく輝いているような気がして、思わず手に取る。
包丁。刃物。深夜。
「…………」
なんとなく、だ。特に理由はなかった。アルコールが俺をおかしくさせたのかもしれない。気が付いたら俺は、包丁を片手に外に出ていた。夜風がアルコールで火照った体に心地よかった。
ああ。なんか、いいなこれ。
そのまま俺は散歩をした。特におかしい事はない。片手に包丁を持っているだけだ。それだけ。酔った男が、酔い覚ましのために深夜の道を歩いているだけ、なのだ。
月明かりを反射させて、包丁がギラリと輝く。人に見つかったら終わるな。そんなスリルが逆に心地よいのだ。
そうして、フラフラと道を歩いていると、目の前から若い女性が歩いてくるのが見えた。こんな時間に、と思ったが、多分終電ギリギリに帰ってきた女性とか、そういうことなのだろう。スーツ姿にきれいにまとめられた髪の毛からして、仕事帰りか。
……そういえば俺は片手に包丁を持っている。すれ違うときに、どうすれば。
急に心臓がバクバクと胸を激しく叩いた。見られたらどうなる。どうなるのだろう。夜道で包丁を片手に歩く男、なんて。女の立場からしたら、どうするものだろうか。
そんなことを考えていたら、完全に女性が俺の手元を見ていた。
「ひっ」
「……あ、いや」
女性がわかりやすく怯える。違う、俺はそういう危ないことをしたくて、そんなことで包丁を持ち出したわけでは。
女性が踵を返して走り出す。
やばい。警察に駆け込まれでもしたら、俺は。
俺もまた、彼女を追いかけた。女性は悲鳴を上げて、更に速度を上げて逃げる。
やばい、この状況何なんだ? 俺は何をしている。追いかけて、捕まえて、その後どうする。別に殺すつもりなんてないけれど、彼女は多分包丁を持った男に追いかけられるなんて、生きた心地がしないだろう。
だから、逃げ切られてしまえば。後で間違いなく通報される。
だったら。だったらいっそ、捕まえて殺してしまえばいいのではないか?
いや。何を考えている。人を殺すなんて、何を。
「誰か助けて! 助けて!」
女性が叫ぶ。くそ、そんなに騒いだら人が来てしまうだろう。くそ、くそ。
もう仕方ないだろう。やるしかないだろう。殺せ。殺せ!
「ぎゃあああああああっ」
追いついた。
女性の腕を掴んだ。そうして包丁を振り上げる。恐怖に染まった彼女の顔がこちらに向けられる。
──その背中に、深々と包丁が突き刺さった。
「ぎゃああああっ、あああ!」
引き抜く。纏わりついた血液が辺りに跳ねた。
彼女の体が傾ぐ。地面に落ちた彼女の胴体に馬乗りになると、俺は包丁を無茶苦茶に振りおろして、顔とか喉とか、目とか、鼻とかを切りつけては突き刺して、引き抜いて、それを繰り返して。びちゃびちゃと血液が辺りに跳ねて、俺も彼女も真っ赤に汚れていく。血の臭いが充満して、頭がおかしくなっていく。いや、もっと前から頭はおかしい。でも、なんだかもう、俺は戻れないところに。
「はあ、はあっはあ……」
あれ。
あれあれあれ。
目の前で穴だらけになって、ぐったりと動かなくなった女。それに跨って、俺は血に汚れた包丁を握っている。
なに、
して、なにしてる。おれは、なにをしている。
殺す気なんて、なかったのに。なんで。俺は何をしているのか。
心臓はもう、吐き出してしまいそうなほどに煩く鼓動した。そのくせ、脳は妙に冷え切っている感じがする。
冷静に女性の亡骸を見下ろして、溜息を吐いた。
「……まあいっか」
殺しちゃったものは仕方ない。俺は酔っていたんだ。そもそも、こんなに酔う原因になった会社が悪い、上司が悪い、包丁を持ち出そうと考えさせた酒が悪い、あんなところをこんな時間にあるていた女が悪い、包丁を見て叫んだ彼女が悪い、俺は何も悪くない、悪くないのだ。
何も悪くない俺は、何事もなかったみたいに家に帰って。服や体に付着した血を洗い流して、そして眠ればいい。
そうすれば、明日の朝。起きたら普通に会社に行くんだ。昨日のことは夢だったのではないかと、現な気分で。
スーツを着て、朝食を食べて、玄関の戸締まりをして、電車に乗り込んだ。満員の電車は息が詰まるから、もうみんな殺してしまいたくなる。
ここに包丁があれば、皆殺しにできたかな。
あれ。俺はまだ酔っているのだろうか。
なんだかどうでもいい。
どうでも、いいや。
***
みんつくの「逃げる」というお題より。
逃げる、というか追いかけるって話でしたけど。最終的には現実から逃げました。