複雑・ファジー小説

Re: 寄る辺のジゼル【短編集】 ( No.88 )
日時: 2021/08/21 07:41
名前: ヨモツカミ (ID: oKgfAMd9)

♯61 熱とイルカの甘味

 昨日、友達と縁日に行ったんだ。
 それほど大きくない月の夜。急に私を呼び出した彼女が、そう話し出した。
 海の見えるこの公園で、砂を踏み締める音と、遠く波の音がするばかりの夜。
 風呂上がりで、ちゃんと乾かして来なかったのだろう。彼女の髪の毛はまだ湿っていて、シャンプーの香りがした。
 水泳部の活動があったあと、彼女はその縁日に行ったらしい。隣の街でやっている、と聞いた気がする。どうして誘ってくれなかったんだ、と責めたくなる気持ちをぐっと堪えると、喉の奥で線香花火みたいに、チリチリと熱が爆ぜた。
 可愛い向日葵柄の浴衣を着て、友達と並んで歩いて。人混みではぐれちゃわないように、手を繋いで。射的をしたらしい。金魚掬いをしたらしい。夏の夜は熱くて、繋いだ手が蒸れるのに、ずっと離さなかったらしい。
 屋台のおじさんが作る飴細工を見たらしい。ぼんやりと眺めている間に、みるみると形ができて、白鳥が。うさぎが。イルカが。形になるのに、見惚れていた。そうしたら、一緒にいた友達が、それを買ってくれたのだとか。

「もう、これっきりにしよう」

 帰り道、砂糖でできたイルカを渡しながら、友達に言われたらしい。

「このイルカ、お前みたいだよな」

 友達だ。最初から友達だ。その男は、最初から最後まで、友達でしかなかった、らしい。

「というわけで、これがそのイルカちゃんです」

 彼女は夜の公園のブランコに腰掛けたまま、それを取り出した。月明かりが照らす、白んだイルカは、今にも海から飛び出して、高く、高く飛んでいってしまいそうな躍動感があった。

「こいつが、わたしに似てるんだってさ」

 包み紙を解いて、それをその辺に捨てる。ポイ捨ては良くない、と言う暇もなく、軽く吹いた風で、どこかに消えてしまうゴミ。
 空気に露出したイルカは、青く透き通っていて、つややかだ。その表面を、彼女の赤い舌が、チロッと撫でる。別に美味しくない、と笑った。その拍子に、彼女の目元から雫が落ちる。
 ザザン、と。海は遠いのに、波の音が大きく聞こえた気がする。違う。私の胸の内から、海の音がしているんだ。
 ザァ、ザザン。ザァ。一度はあの海の底にあった気持ちが、波間に打ち上げられる。ような。そんな感じ。

「美味しくないから、あんたにあげる」

 彼女は頬を伝う涙を拭うこともなく、それを差し出してきた。棒の先で跳ねる、青いイルカ。どこへ向って飛んでいくのだろう。向かう先に水面はない。このまま遠く、遠く、空にでも消えてしまいそうな。
 飴細工のイルカを渡したあと、彼女は急にブランコの上に立って、めちゃくちゃに漕ぎ始めた。揺れる、揺れる。強く大きく揺れて、振動が隣のブランコに腰掛けているだけの私にも伝わってくる。
 彼女の体の動きに遅れて、髪が舞う。スカートが踊る。
 ザン。サザン。また波の音がするような気がした。もしかしたら、ここは海の中なのかもしれない。だって、口の中が塩辛い。彼女は海の中で泳ぐ、イルカなんだ。
 波が揺れる。鎖で繋がれた板が、高く上がる。
 ザパン。イルカが、跳ねた。躍動する体と、透明の雫が美しい。

「あ」

 公園の砂の上。ジャリジャリ、と音を立てて、ブランコを飛び降りた彼女が、きれいに着地する。
 振り返ってこちらを見る彼女は、涙でぐしゃぐしゃの顔をしていた。

「もう、わたし、馬鹿みたい。馬鹿だ。……馬鹿だよ」

 落ちる雫が、砂に吸い込まれて、消える。水飛沫を上げて、着水したイルカが、波間に消えていく。そんな情景が思い浮かぶ。
 肩を震わせて泣き崩れる彼女を見つめながら、また、喉の奥で火花が散る。

「……ほんと。あなた、このイルカみたい」
 
 言いながら、私は飴細工を口に含んだ。そうして歯を突き立てる。
 バキ。パキパキ。音を立てては崩れていく。噛み潰して、粉々にして、ただ、甘いだけ。砂糖の味しか広がらない、口の中。
 手を離すと、飴の欠片のついた棒が、砂の上に落ちる。それをサンダルで踏みつけた。
 ザア、ザザ、ザアア。私の中の海が荒ぶのがわかった。荒波に何もかもが呑まれて、生きとし生けるものが、ごちゃまぜになっていく。海が怒っているみたいだった。
 私の姿を、放心した様子で見ていた彼女に向けて、言い放つ。

「あなた、脳味噌まで水飴でできてるんじゃない?」
「な、なに」
「甘いんだよ。甘いだけの、塊なんだよ」

 口の中を満たしていた甘味を砕いて、飲み込む。まだ大きかった欠片が、喉に異物感を残した。

「本物のイルカじゃない。どこにも飛んでいけない。こうやって私に噛み潰されたら、終わりじゃん」

 飴細工は、所詮ただの水飴。咬んで砕いて、砂糖に戻ったら、体の中で溶けて無くなる。

「だから終わったんでしょ? 甘ったるい脳味噌でしかものを考えられないから」

 ザパン。一つ大きな波音を立てて、私の中の潮騒が終わる。
 一瞬の沈黙。泣いていただけの彼女が、不意に笑い出す。腹を抱えて、笑い飛ばす。

「もう。あんたには敵わないなあ」

 困ったような笑顔を作ったまま、彼女は静かに歩みよってくる。
 私の目の前まで来ると、そっと、背中に腕を回してきた。彼女の体温が伝わる。温い夜に、人ひとり分の温度はどうにも暑すぎる。

「多分、下手な慰めの言葉をかけられるよりもずっと、届いたよ」
「そう。熱いから離れて」
「ごめん、もう少しこのままでいて」
「…………はあ」

 水泳部の私達は、水を自在に泳ぐ。水の抵抗を知らないみたいに、水と一体になるみたいに。
 でも、イルカのようにはなれないし、大海の波を制することはできない。所詮人間で、十七年生きた程度の少女だ。
 彼女の中の潮騒が、煩わしくも、心地よく伝わってくる。

「ねえ」
「なに?」
「来年の縁日には、私を誘ってよ?」
「あはは。嫉妬した?」
「……そんなんじゃないよ」

 きっと来年もまた、彼女は友達と縁日に行く。部活が終わって、塩素の匂いを少し纏いながら。
 そして同じ飴細工屋の屋台を見て。でも今年のことは、忘れてくれればいい。
 甘ったるいだけの、形を持った飴のことなんて、知らなくていい。砂糖でできたイルカではなくて、本当のイルカになれればいい。
 帰り道をゆく彼女は、吹っ切れたように何でもないことを話した。水を得た魚みたいだった。

「あんな男のことは忘れて、この夏は新しい彼氏作るんだー」
「そう。でもあなた、宿題もちゃんと終わらせなさいよ」
「えー、一緒にやろうねえ」
「全部私にやらせるくせに」

 始まったばかりの夏休みは、今年も短くなる。だから、その日その日を大切にしたいな、なんて柄にもなく考えて。
 まだ、口の中が甘ったるい感じがした。


***
潮騒、飴細工、ブランコで三題噺。
あなたの熱、夏の熱、火傷するほど、焦がすほど、甘く。