複雑・ファジー小説
- Re: 寄る辺のジゼル【短編集】 ( No.89 )
- 日時: 2021/10/19 22:41
- 名前: ヨモツカミ (ID: 3TJo5.cx)
♯62 燃えて灰になる
「──真名さえ持たぬ下賤な悪魔よ。私と契約をしなさい」
人里離れた深い森の奥。夜の帳に包まれ、冴えた空気が冷たく肌を撫でる深夜。地面に星の砂で書かれた複雑な魔法陣には、数滴の鮮血が滲み、怪しい紫色の光を放って、暗い森を照らしている。
陣の中では、黒いローブと黒いドレスに身を包んだ、白い長髪の若い女が、ほっそりとした右腕を前に差し出したまま、虚空を睨みつけている。左手には血のついたナイフ。右の手首には深く真新しい傷跡。その血を求める者のために、彼女は自らの腕を切りつけたのだ。
そして、その彼女の正面に立つのは、血を求め、魔法陣に込められた魔力に反応して異界から呼び出された、異形の者。
「おやおやぁ、高貴な魔女様が俺の様な下等な悪魔に頼るなんて。よっぽどのことがあったそうじゃないか? 偉大なる魔女ともあろうものが、暗い冥界を彷徨っては死者の骨をしゃぶって飢えを凌いでいるような、こんな薄汚い悪魔に頼るなんて、」
「無駄口はいい」
人間によく似た四肢もっているものの、その肌の色は蛙のような緑色をしていて、痩せて骨の浮き出た背中からは蝙蝠を思わせる翼が生えている。顔はそれこそ人間とは似ても似つかない、悍ましく、それでいて酷く醜いもの。更に額から伸びる二本の角を見れば、誰もがその者の正体がわかるだろう。
魔女、と呼ばれた女は蒼穹の双眸を細め、凛とした声で言葉を紡ぐ。
「私はお前との契約を求めている。お前は私がこれから言う願いを聞き届け、そしてそれに必要な対価を要求する。それ以上のことは、何もするな」
「ヒヒヒ、魔女様と契約ができるならなんでもいいさ。さて、それではお聞きしようかね魔女様。──汝、我にその願いを告げよ」
悪魔は急に語調を変えて、血のように赤黒い瞳で真っ直ぐと魔女を見据えた。……どれだけ真剣な顔をしても、その醜さは変わらないな。魔女は嫌悪感を隠そうともせずに悪魔の瞳を見つめ返して、そうして静かな声で答えた。
「私にはリナリア──人間の友人がいる。リナリアが幼子の頃から私は彼女を見守ってきた。……私の唯一の友だ。リナリアには、まだ幼い息子がいて……なのに、昔から体が弱くてな。重い病で、もしかするも今夜にでも死んでしまいそうなのだ。だから……だから、」
最後の方の声は、ほとんど消え入りそうだった。
悪魔を召喚するときは気丈に振る舞っていたが、魔女はずっと不安だったのだろう。最初の勢いが嘘のように、魔女は急に弱々しく縮こまっている。迷子の少女みたいに、今にも泣き出してしまいそうだ。
五百年以上を生きる、あの偉大なる魔女が。
その強大な魔力も、恐ろしい力も知っている悪魔としては、笑いを堪えるので必死だった。悪魔とは比べ物にならない魔力を有しながらも、人間の病を自力では直せなかった、というところも面白くて仕方がないが。なによりも、ただの人間を唯一の友と呼んだ事が可笑しかった。いや、それよりも、そんなちんけな生命が潰えることに、これほどまでも怯えていることが。いやいや、そんなに強大な力を持っているくせに最後はこんな卑しい悪魔との契約に頼るところが。やはり、この現状全てが可笑しくて堪らない。
耐えきれずに、悪魔は口が裂けるほど開いて哄笑を響かせた。
魔女のことだから、機嫌を損ねさせれば、右手のひと振りで悪魔を消滅させてくる可能性も考えられた。でも、それはしない。悪魔はどこまでも悪知恵が働くものだ。人間の女なんかにご執心な魔女は、どれだけ馬鹿にされようとも今は悪魔に逆らうことはできないのだ。
魔女は悔しそうに顔を歪めながらも、やはり縋るような視線を悪魔に向けている。それもまたいい気味だったが、そろそろ契約に対して真剣に向き合わないと、本気で消滅させられそうだ、と悪魔は魔女に向き合った。
「……さて。真面目に考えて、魔女様の魔力でも治せない病となると、流石の“悪魔の契約”を持ってしても直せるもんじゃないだろうねえ」
そう口にした瞬間、魔女の表情が消えたため、悪魔は慌てて言い募る。
「でも! 病の症状を抑えて、命を永らえさせることは可能だよ。何日、いや、何年……。それは魔女様の払ってくれる対価の大きさにもよるけどね?」
魔女はわかりやすく安堵したようだった。
悪魔はそろそろ、魔女のこの反応が不気味にさえ思えてきていた。
この女は自分のような卑しい悪魔とは比べ物にならないほどの魔力を持つ、それはそれは恐ろしく、それでいて孤高の存在だったはずだ。それが何故、人間などという矮小な存在にここまで執着するのか。理解ができないのだ。人間などと関わるくらいなら、それこそ悪魔と踊りをおどったほうが愉快だというもの。
悪魔以下のくだらない命を、何故そんなに大切にする?
そもそも、この偉大な魔女ほどの存在なら、人間という生き物に見向きもしないだろうと思っていた。似たような形の生物なら、セイレーンやドリアード達と語らうほうが得るものも多いだろうに。寿命は短く、魔力さえ持たない、更には悪魔に負けず劣らずな醜い心を持つ、人間などという生き物に──何故?
そう訝しみながらも、流石にそれを魔女に訊ねる勇気も興味もなく、悪魔は淡々と契約の話を進めることにした。
「魔女様がこの悪魔を頼るのは二回目。だから悪魔が求めるものは分かっているだろうけど、当然前回と同じ、“魔女様の魔力の篭った物”だよ今回は何を差し出してくれるだろうね?」
「……対価も、その差し出し方も、【呪い】も──前回の契約と、全く同じなのか?」
魔女が苦々しい顔をしている。だからきっと、彼女が悪魔の契約を頼るのは、本気で最終手段だったのだろう。
「ああそうさ。魔力の篭ったものが対価で、契約者は【愛の呪い】を受ける。支払った対価をほいっと悪魔に渡して契約成立とはならないし、魔女様のお気持ちが強ければ、対価は支払わなくたっていいことになっている。だから前回は魔女様の勝ちだったね。対価が手に入らなかったのに願いを叶えてしまったのだから、悪魔は大損したよ、トホホ」
だが、今回はどうだろうか。
この悪魔との契約は少し変わったもので、対価をただ支払うのではなく、対価を先に宣言させて、契約者に【愛の呪い】をかけるのだ。それは、契約者が真実の愛を知ったとき、対価が悪魔の一番欲しいものに変化する、というものだった。
前回、魔女が願いを叶えてもらったときに対価に選んだのは両目だった。願いを叶えてもらい、そして悪魔が決めた期間の中で、魔女が真実の愛を知ることはなかった。だから、悪魔は魔力の塊である魔女の両目を、欲しいものを手にすることはできなかった。
ちなみに、悪魔が欲するものというのは、現代では世界のどこからも失われてしまった宝石である。宝石もまた、魔女の魔力とは別の種類の魔力を閉じ込めた石だ。見るものを魅了するその輝き。魔女の使う魔力や悪魔の所有する魔力と比べると弱々しいものと言えるかもしれないが、宝石の失われた現代では、それはそれは貴重なものなのだ。
「ならば私の心臓を差し出そう」
悪魔はギョッとして目を剥いた。流石に冗談だろうか、あまり面白いとは言い難いが。
そう思いたかったのだが、魔女の蒼穹はどこまでも真っ直ぐで、真剣なものだった。
悪魔は、自分の動揺が悟られないように、どうにか笑顔を繕って、わざとらしくケタケタ笑った。
「へえ? いいのかい。いくら五百年生きる魔女とはいえ、心臓を失えば死ぬのだろう?」
「当然。私がどんなに高い魔力を持っていても、できることには限界がある。自分の心臓をもう一つ用意することはできない。勿論、リナリアの病を治すことも、病の進行を遅らせることもできない──だから悪魔。お前に頼っている」
声にも瞳にも、一切の迷いが感じられない。
「ふむ。偉大なる魔女の心臓がどんな宝石になるのか、実に興味深い」
「なるものか。私が誰も愛さなければ良い。それだけのことだろう?」
「さてね? だけどこれだけは言わせていただこうか? ──悪魔は自分に不都合な契約なんて、しないのさ」
そう言い残して塵のように消えた悪魔と、光を失った魔法陣を見て、魔女は溜息をついた。五百年だ。それほど永いときを生きて、これほどまでに一人の人間に執着するなんて。我ながら馬鹿げている。
しかし、これもまた余興だ。退屈になるほど生きてきた自分が、こんな下らないことに固執する。それもまた悪くないのではないだろうか。
そうして、リナリアは悪魔との契約で十年生きた。彼女の息子も美しい少年へと成長していた。しかし、契約で先延ばしにしていた寿命にだって、限度がある。
リナリアはまたあの頃のように衰弱し始めた。もう自分の力では子を育てることができそうもない。そう言って、彼女は息子を魔女に託すことを決めた。
馬鹿なことを言うな、とか。お前はまだ死ぬわけにはいかない。死なせやしない。また悪魔と契約をして、次は脳でも差し出そうか。そうすればお前は。
そんな言葉の全てを呑みこんで、魔女は呆れたようにその息子とやらを引き取った。きっと、リナリアは我が子に弱ってゆく自分の姿を見せたくはなかったのだろう。
できるだけ遠くへ。彼女の子供を連れて、魔女は遠い田舎の村で、ひっそりと暮らすことにした。
「良いか、少年よ。私は呪われている。【愛の呪い】だ。リナリアの願いだから仕方なくお前の面倒を見る。私を親だと思っても構わぬ。だが、私はお前を本当の子のように愛することはない。名前も呼んでやる気は無い。わかったか?」
「はい、魔女様。これからよろしくお願いします」
そうやって微笑む顔が、リナリアによく似ている。それが嫌で、目を逸らす。辛く当たるようなことはしないが、最低限のことしかしないようにと心掛けていた。我が子のように扱えば、どんな感情を抱いてしまうかは、なんとなく予想がつく。少年は魔女様、魔女様といつも嬉しそうに話しかけてきたが。
魔女様、森で美しい花を見つけたんですよ。魔女様、街へ行ったときに貴女に似合いそうな髪飾りを見つけました。良ければ使ってください。魔女様、野苺のパイを作ってみました。一緒に食べませんか?
そんな彼もまた、病弱なリナリアの息子。18になったとき、彼女と同じ病を患った。魔女はつきっきりで看病をした。それでも彼は日に日に衰弱していく。どうして。魔女の煎じた薬を与えても、街で一番腕の良い医者に診せても。これは不治の病だ。治すことなんてできないのだ、と。そう言われるばかり。
そういえば今頃、リナリアはどうしているだろうか、などという考えが過る。考えたくもない。そのために離れた田舎へと来たのに。
「魔女様。あなたは僕を愛してはくれないとおっしゃいましたね。僕もあなたに愛さないで下さいと、約束をしました。母さんの友人である魔女様のことはよく知っています。呪いで命を失う可能性があるのなら、僕の看病なんてもう、やめてください」
病床にふける青年を見て、魔女は唇を噛む。看病をやめろだと。ふざけるな。
でもやはり、魔女はその言葉を噛み殺した。誰も愛してはならない。リナリアも。この子のことも。愛することはできないのだ。
「人間は、どうしてこうも脆く儚いのだろうな」
「どうしてでしょうね。僕も、魔女様や母さんと、ずっと一緒に生きていたかったなあ」
やせ細った腕に掠れた声。もう永くはない青年が、薄く微笑みながら呟く。
「そうだ、魔女様。ベゴニアの花言葉は、片想い、と幸福な日々です」
「? 何だ急に。ベゴニア? ああ、そういえばお前はそんな名前だったか」
「言ってみたかっただけなので。忘れて下さい。それから……もう、僕のそばにいないでください。あなたに看取られたくなんて無いので」
「ふん。私もお前を看取るなどごめんだ。それではさようならだ。ベゴニア」
家を出て、魔女はトボトボと道を歩く。どこを目指しているのかもわからないまま。
どうして今、自分はこんなに気落ちしているのだろう。人間の儚さなどよく知っている。今に始まったことではない。なのに、どうしてこんなにも──。
魔女は気が付けば暗い森の中にいた。確か悪魔との契約をしたのもこの森だっただろうか。
そっと、自分の胸のあたりに手を当てる。黒いドレスの上に置いた白い手。心臓は規則正しく鼓動する。
嗚呼。リナリアを失って。ベゴニアも失ったくせに、この心臓が石になることはなかった。愛さないでほしい、とベゴニアと約束をした。二人を失って尚、この心臓は馬鹿みたいに息づいている。
頬を伝う冷たさに気がついたとき、彼との約束など破って、愛してしまえばよかったと、後悔した。
魔女はその場に膝をついて、泣き崩れる。こんな呪いがなんだ。お前を愛している。そう、伝えることで死ぬから。だったら何なのだ?
「嗚呼。リナリア、ベゴニア。愛していた。私はお前たちを、心から愛していた。抱きしめてやればよかった。撫でてやればよかった。額にキスの一つでもすればよかった! お前たちに愛していたのに! 愛しているのに、私は、何故……?」
瞬間、体の異変に気がつく。パキパキ、と音を立てる心臓。嗚呼。この痛みなど、彼らを失った苦痛に比べれば、造作もないことじゃないか。
「そうか。私は真実の愛を知ってしまったのだな」
ふふ、と魔女は笑う。
心臓が硬化してしまう。血の巡りが止まる。呼吸が止まる。体中から体温が失われて、意識も遠退いてゆく。
魔女は鼓動が完全に止まったとき、それでも彼らを愛せたことが幸せだった。
彼らにそう伝えられたなら、もっと幸福だったのだろうか? そんな想いを抱きながら、魔女はゆっくりと地面に倒れ伏した。
暫くして、蝙蝠のような翼を羽ばたかせながら、緑色の皮膚と二本の角を生やした異形。悪魔が魔女のそばへと舞い降りた。
「愚か。実に愚か。誰かを愛して命を失うなど。──ああでも……これは、クンツァイトか。ふふ、何と美しいのだろう」
魔女の傍らに転がるのは、心臓だったもの。それは淡い薔薇色に透き通った、美しい石となっていた。
「……石言葉は確か、“無限の愛”だったか。なるほど。皮肉にも、誰かを愛してしまえば死ぬ呪いだというのに、その心臓は愛を象徴する宝石に変わった、というのか」
悪魔は魔女の亡骸を見下ろす。その顔は、口元が緩りとしていて、穏やかな表情だった。
「愛などくだらないし、興味もないが──実に美しい石だ。これほど純度の高いクンツァイトが手に入るとは。やはり魔女と契約を交わせたのは僥倖だったな……」
***
愛せばよかった、約束、心臓
リナリアの花言葉とクンツァイト+タイトルの意味を調べてみると楽しいかもですね。