複雑・ファジー小説
- Re: 人喰症候群 ( No.1 )
- 日時: 2016/08/05 15:02
- 名前: 朝野青 ◆jodSh4MSQs (ID: Fq5IKssE)
- 参照: そういえばトリップつけるの忘れてた。
鼻につく鉄のにおい。鳴り響く咀嚼音。
真っ赤な血。飛び散った肉片。人の形をした肉塊に齧り付く人。
人を喰うから、人喰症候群。
「いただきます」
そう言うと、手に持っていた紙パックのジュースの横に付いている袋から伸び縮みするストローを取り出し、それを伸ばして紙パックに突き刺した。一度ゴクリと生唾を呑み込んでから、少し口を尖らせてストローを銜える。透明なストローの中を赤い液体が上がっていき、口の中に含まれる。そして、喉を鳴らしてそれを飲み込んだ。
「……美味しい」
ポツリと呟いた彼女を、僕は半眼で見つめる。
「そんな呑気にトマトジュース飲んでる場合じゃないよ」
「……何で?」
「何でって……遅刻するだろ!」
訳が分からないと言ったふうに首を傾げる彼女に半ば呆れながら僕は言う。しかし彼女は焦りも慌てもせずに、美味しそうにトマトジュースを飲んで、いつものペースでゆっくりと歩いている。
「薺が寝坊して朝ごはん食べる時間なくなったから今食べてるんだよ」
『食べてる』と言うより『飲んでる』という表現の方が正しいと思うが、そういうツッコミは置いといて、僕も負けじと言い返す。
「いや、僕だけのせいにしないでよ。雫だって僕が起こしたのに中々起きないから——」
すると、雫は生ゴミを見るかのような目で僕を見てきたから、それ以上は何も言わなかった。
雫から目線を逸らして溜息を吐く。
「一限目の授業、何だっけ?」
「……数学」
「あぁ……」
雫の口から出た授業名を聞いて、僕は遠い目をする。
そうだった、月曜の一限目は数学だった。僕の中で嫌いな授業ランキング第一位の数学。そんなわけだから一限目はサボって二限目から出よう。数学の授業なんて聞いていてもいなくても解からないのだから。ちゃんと全部の授業を受けて臨んだはずのこの前の中間テストは、数学だけあり得ないような点数を取ったような気がするけど、何点だったか思い出せない。余りにも酷い点数だったから僕の脳はそれを忘れようと頑張っているのかもしれない。
うん、過去は振り返らないでおこう。常に先のことだけを考える。そういえば、二週間後に期末テストが待ち構えている。赤点さえ取らなければそれで良いんだけれど、しかしこのままでは数学は確実に赤点だろう。だとしたらサボらずに授業に出て、ちゃんと授業受けて頑張って勉強してますよアピールでもした方が良いのではないだろうか。……無駄か。
赤点を回避するには期末テストで平均点辺りは取ることか。だとしたら、ちゃんとテスト勉強しなきゃなあ。
「……一緒にテスト勉強でもしようか——って、雫?」
僕よりも低い点数を取っていた雫にそう提案すると、隣を歩いていたはずの彼女はそこにいなかった。立ち止まって振り返ると、僕の数歩後ろで雫は突っ立っていた。大きく見開いた目で横に広がる空き地の方を見詰める雫だが、僕の位置からは丁度空き地を囲む塀に遮られ、彼女が何を見ているのか分からなかった。
「雫?」
名前を呼んでも何の反応も示さない雫を不審に思った僕は彼女の方に足を進め、その目線の先を追った。そして、そこに広がる光景に、愕然と目を瞠った。
真っ赤に染まった空き地。そこにいる二人の人間。
辺りに充満する鉄のにおい。鳴り響く咀嚼音。
端的に言うと、人が人を喰っていた。
喰われている方の人はだらりと倒れている。服は破られ、肉は喰われ、所々骨のようなものも覗いている。
喰っている方の人は、ただひたすらに肉を喰っていた。肉を噛み千切り、咀嚼し、呑み込む。まるで獣のように、何かに取り憑かれているかのように、その行為を繰り返す。
一つの病名が脳内に浮かび上がる。
人喰症候群。
それに感染した人は、人間の肉しか口に出来なくなる。
ボトリと、何かが落ちる音がして、ビクリと肩を震わせる。ゆっくりと音のした方を見ると、雫の足元に紙パックが転がっていた。中からトマトジュースがこぼれ、地面に生えていたぺんぺん草が真っ赤に染まっていた。横になった紙パックからゆっくりとトマトジュースが流れ出し、地面に赤い水溜まりを作っていく。
その様子を見て、徐々に思考が現実へと引き戻された。
そうだ、逃げないと。
感染者は今喰っている人に夢中でこちらに気付いていないが、いつ僕達を襲ってくるか分からない。あの人を喰っている間に、早く逃げないと。
「雫、行こう」
雫の細い腕を掴み、歩き出す。が、雫がついてこない。振り返ると、雫はまだ人が人に喰われている様を見ていた。
大きく開かれた目。瞬きすらせず、じっと見詰めている。その瞳には何の感情も感じられない。突っ立って固まる雫は、人形かロボットかのようだ。
「雫、早く」
強く腕を引っ張るが、雫は地面と足の裏が強力な接着剤でくっついてしまったかのように全く動かない。
横目で空き地の方を見る。
まだ気付かれていない。
「雫……!」
昔の記憶が脳裏を過ぎる。
真っ赤な血に染まった男性の死体と、その血肉を喰らう女性。その女性が、ぎらぎらと光る目をこちらに向け、口角を上げて血で赤くなった歯を見せる。そして、こちらに近付いてきて——。
「雫!!」
大きな声を出すと、ようやく雫がこちらを見た。壊れかけのロボットのように緩慢に首を動かして僕の顔を見る。それまで呼吸すらも止まっていたようで口を開いて息を吸い込み、そして息を吐く同時に「薺」と僕の名前を漏らした。小さなその声を聴いて、僅かに安堵する。
その時、違和感に気付いた。だけど、その違和感が何なのかは分からない。
ごくりと生唾を呑み込んで、感染者の方を見る。と、目が、合った。
「——っ!!」
違和感の正体が、それまでずっと鳴り響いていた咀嚼音が止んだことだというのに思い当たる。
僕が大きな声を出したから気付かれたのか。
感染者の血に染まった目が、僕達を映して爛々と輝く。
逃げないと。そう思うのに足が動かない。
そうしているうちに、感染者はにたりと嗤ってこちらに近付いてくる。
ぎゅっと強く手を握られる。感染者の方を向きながら目だけを動かすと、雫は怯えた表情をしていた。握られている手は、恐怖で震えている。
そうだ、雫のことは僕が守らないと。
手を握り返して、雫の一歩前に出る。
すぐそこまで迫った感染者がこちらに手を伸ばす。
「——っ」
恐くて目を瞑ることすらできない。
あぁ、喰われる。
僕が喰われているうちに、雫が逃げることが出来れば良いのだけれど。そうすれば、少しは僕の存在意義だって——。
バン、と銃声が響いた。
感染者が大きく仰け反って後ろに倒れ込んだ。
「……は……?」
ぱちくりと瞬きをする。
ゆっくりと振り返ると、そこには銃を構えた少年がいた。
「大丈夫だったか?」
そう、声を掛けられる。
それには答えず、僕はもう一度感染者のほうを見る。倒れ込んだ感染者は全く動かず、指一本動かさない。
「この人……死んでるのか?」
問うと、その少年は感染者に近づき、じぃっとそれを見下ろした。
「ああ、死んでる」
分かりきっていたことだったが、そう言われて改めて思い知らされる。
「だから、安心しろよ」
そいつはこちらを振り返って、言った。ニコリと、笑みを浮かべて。
それを見て、目を見張る。
「俺が殺したから、もう大丈夫」
ぎりっと歯を噛みしめる。右手を強く握りしめる。
いつかの記憶を思い出す。
真っ赤な背景に立つ少女。大きく見開かれた、絶望しきった眼で、こちらを見てくる。
そして忌々し気に口を開いて——。
「この……人殺し!!」
気が付いたら、僕は少年のことを殴り飛ばしていた。