複雑・ファジー小説

a grin without a cat ( No.4 )
日時: 2016/09/18 20:56
名前: 亜咲 りん ◆1zvsspphqY (ID: VhCiudjX)
参照: 鏡の国のアリスを読み直さなくっちゃ

 
 4時限目が終わり、おひるやすみ。私には一緒にお昼を食べる友人なんていないから、がやがやと騒ぐ教室を出て、中庭に向かう。照りつける太陽と、梅雨明けの兆しの見える青空。もうすぐ私の嫌いな季節がやってくる。自由に。私の気持ちなんて知らんぷりで。
 中庭のベンチに座って、お弁当箱を取り出す。そこは私だけの特等席。お弁当を膝の上にのせ、ナフキンをゆっくり解いて、どことなく幸せな気分でオレンジの蓋を開けた。
 何も入っていなかった。お弁当の中身はからっぽ。

「しくじった……」

 思わず、弁当箱を掴む手に力が入る。
 雫さんは不機嫌なとき、必ず私にお弁当を入れない。それは中学の頃から月に1度程度あり、もう慣れていたつもりだった。なのに。今朝の雫さんの行動から予測できなかった。最近雫さんは妙に機嫌が良かったから。まあ、理由はわかりきっているけど。怒りに正常な意識を奪われていたんだろうな。
 だから駄目なんじゃない? と、シンデレラが笑ったような気がした。

「仕方ないか。購買に行こう」

 はあ、としぶしぶ立ち上がる。ポケットの財布には確か500円が入っていたはずだ。購買のパンは高くても150円程度。お手頃価格のため、スタートに出遅れた私は無事にパンを手に入れることができるだろうか。そんなことを考えつつ、私は走り始めた。



**

「……これはもう無理ね」

 案の定、購買は混んでいた。そのほとんどが男子で、あたりにむわん、とした汗の臭いが立ち込めている。……臭い。
 私も女子にしては身長は高い方だけど、やっぱり男子とは体格が違う。男子に力で敵うわけがない。
 諦めて帰ろうとしたとき、

「お困りですか、お嬢さん」

 嫌な声が聞こえた。湧き上がる不快感に、そのまま振り返りもせず、中庭に戻ろうとする。

「いやいやいや、ちょっと待ってって!」

 声の主が、意外な速さで私の前に躍り出た。ベージュのベストと右耳の2つのピアスがきらりと光る。

「……どいて、千晶」
「気軽にチェシャ猫とお呼びくださいませ」
「……」
「冗談だってば冗談冗談」

 明るく染められた髪に手を当てて、チェシャ猫が平謝りする。私よりも低い位置に頭があるため、どちらかといえば茶目っ気に溢れていたけれども。

「まったく……お嬢さんは冗談が通じないのかな」
「そんなことわかってるわよ。それより、その呼び方やめてって何度も言ってるでしょう。不快なの」
「そんなこと言っちゃって。本当は嬉しいくせに」
「そんなわけないでしょ」

 普段ほぼ表情を変えることのない私は、わざと眉を吊り上げて、いらいらを伝えた。しかし、彼はずっとにやにや笑いを維持し続けながら喋る喋る。アルの快活な笑顔とは違い、どこか裏のある笑顔。私は、いつもいつもこうやって何かと絡んでくるコイツのことが嫌いだった。

「もういいから、あっちへ行って」

 まるで空気のようにまとわりついてくる彼を振り切って中庭に戻ろうとすると、

「おやぁ、本当にいいのかな?」
「……なにが?」

 くくくっ、と気色の悪い笑い声をあげて、彼がどこからかパンを取り出した。私は思わず立ち止まる。ぴらぴらと彼の手で揺れるパンは紛れもなく、1日1つ限定の『特大焼きそばパン』だったのだ。

「なんでそれを……」
「いや、もしかしたら君のお弁当の中身がからっぽで、パンを買いに来るんじゃないかなあって」
「なに、それ」
「予感だって。チェシャ猫の直感」

 ひひひっ、と唇の端をつりあげながら、彼が私との距離を詰める。

「欲しいんでしょ」
「……別に」
「お腹が空いてたまらないんじゃあないの?」

 ぐっ、と言葉に詰まる。彼の言う通り、私のお腹はもう限界だ。気を張り詰めていないと、1番聴かれたくない奴に音をきかれそうで、私は顔を顰めた。
 このままこんな奴にずっと絡まれなければならないのなら……と、私はパンを奪う。

「……いただきます」
「言ってることとやってることちょっと違うけどね? まあ、よろしい」

 にやにや笑いをそのままに、彼は物理的に大人しく引き下がった。

「ご贔屓に」
「あんたの世話になんてならないわ」
「それはどうだろうね?」

 途端に、彼の雰囲気がガラリと変わる。少し俯きがちにこちらを睨めつけるかのように笑う。長い前髪に隠れたその笑みは、歪んだ三日月の形をしていた。

「君はいつか僕に頼らざるを得なくなるよ、絶対に」

 まるで獣のような獰猛な笑みに、私はごくり、と唾を呑み込む。彼の行動の節々から、いつもの軽薄な雰囲気が少しずつズレを生じ始める。鏡に映された彼にヒビが入っていく、今の彼は、まさに鏡の向こうのもう1人の彼だった。

「じゃあ、またね」

 ひらひらと手を振り、彼は去っていく。

a grin without a cat(猫の無い笑い)を残して。

 私の周りに、いつまでもいつまでも、気持ちの悪い笑いを残して。
 

a grin without a cat ( No.5 )
日時: 2016/09/18 21:01
名前: 亜咲 りん ◆1zvsspphqY (ID: VhCiudjX)

 
 チェシャ猫の笑いのように、気持ちの悪い空模様だった。ニュースでは梅雨明けを告げていたのに、なぜか曇り空で、雨。もちろん傘なんて持ってきていない。少しいらいらしてスマホで天気予報を確認すると、「夕方から雨」と読み取れたので、私は思わずスマホを投げそうになってしまった。

「これじゃあ帰れない……」

 かれこれ10分は下駄箱で立ち往生している。周りの生徒たちは私と違ってきちんと天気予報を見ていたようで、次々と傘をさしながら楽しそうに飛び出していく。その姿はとても無邪気で、少し羨ましかった。
 雨は一向に止む気配が無く、それどころかだんだんと強まってきていた。時刻は午後5時半。部活に入っていない私の門限は6時だ。それまでに帰らなければ酷く叩かれるので、それだけは避けたい。ここから有栖川家までは約20分ほどかかる。そろそろ出なくてはならなかった。

「……風邪、引いちゃうな」

 自分の身体が思っているよりも虚弱なことを知っているので、雨の中、なかなか走り出せない。走って無事に家に帰れても、風邪をひいてしまうだろう。そうしたら、また打たれる。それも、アルのいないところで。

「どうしようか」

 呟きが雨に溶け、水たまりになる。考えても考えてもBad Endしか思いつかなくて、ため息をついた。傘立てを見て、ここから傘をとっていこうか、なんて考えみる。だけど、それも一種のBad Endだ。泥棒への道のりなんだから。

「エルフー!」

 そのとき、後ろから大声で誰かに呼ばれた。私のことをエルフと呼ぶのはこの学校で1人だけ。ほら、アイツだ。
 アルはなぜか制服を着ていた。今日はバスケ部の部活があるはず。それなのに、なぜか彼は息を切らしながらこちらへ来て、私の前になにかを差し出した。

「ん」
「……なに?」
「なにって、傘だよ」

 その言葉に、驚いて彼を見つめる。それは確かに傘で、それも折りたたみ傘だった。ざあああ、と耳障りな音が、この空間を支配する。

「……なんで?」
「いや、お前傘持ってってないだろうな、と思って、渡しに来た」
「……そう。助かったわ。ありがとう」

 そのままばっ、と傘を奪い取り、足早に下駄箱を出ようとする。しかし、

「待って」

 傘を持っていない方の腕を掴まれ、私は思わず傘を落としてしまった。アルはバランスを失ってふらつく私を支えるように、こちらを振り向かせる。

「……なに?」
「そうじゃなくって……」

 いきなりのことに動揺しつつもそれが表情と声に出ないことに安心感を覚えながら、私は彼を見つめる。彼の燃えるような髪が風に揺れ、なにかをためらうかのように唇がぱくぱくと動いた。

「はっきり言ってよ」

 いつもより強い口調で囁く。アルは私をまっすぐに見れないようで、どことなく視線が合わない。しかしその言葉で覚悟を決めたのか、そっぽを向きながらも呟きはじめた。

「……傘は俺も1つしか持ってないんだ」
「なら、なんで私に」
「一緒に、帰ろうと思って」

 しん、と雨までもが止んでしまったような心地がした。早鐘を打つ心臓を抑えながらもアルを見ると、彼は耳まで顔を真っ赤にしていた。
 アルはやっぱり可愛いな。

「……いいわ。一緒に帰りましょう」
「ほんとに!?」

 私が頷くと、彼の顔がぱああ、と輝き始めた。まだ頬は紅潮していたが、それは多分、ここに急いで来たためだろう。逸る心を抑えつつも、傘を拾ってさす。

「そういえば部活は?」
「ん、サボってきた」
「ダメじゃない」
「いーのいーの。俺、エースだから」
「エースだからこそ、でしょ」

 雨の中、私たちは歩いていく。
 彼にとって、私は姉。もうとっくの昔に私が実の姉じゃないことくらいわかっているだろうけど、それでも小さい頃から一緒に暮らしてきた家族だ。
 けれど。いつからだろう。アルを愛おしいと思うようになったのは。はじめは私よりも低かった身長がだんだんと抜かされていって、私はやっと、アルは男なのだと気づいた。
 この気持ちを気づかせてはいけない。有栖川家を壊してはいけない。
 だから私はキスをしたの。ガラスの靴に。

 折りたたみ傘は2人で入るには小さくって、私の肩に雫が落ちた。アルはすかさずそれに気づいて、傘を私の方に寄せる。

「……ありがとう」
「ん」

 唇を尖らせて、アルがまたそっぽを向く。そんな仕草も可愛い、なんて思ってしまう。
 でも今は、どうかこのままで。冷たく動かないこころを手に入れさせて。

 後ろの方で鳴った、ばしゃん、と音に気づかず。