複雑・ファジー小説

雨、のち、気まぐれに赤。 ( No.10 )
日時: 2016/09/18 21:24
名前: 亜咲 りん ◆1zvsspphqY (ID: VhCiudjX)

 
 雨が降っていた。黒い雲と、湿っぽい匂い。そうだ。そういえばあの日も、チェシャ猫の笑いのような嫌な天気だった。

「わあ、雨か……」

 雨の日はいつも憂鬱になる。外練もできないし、なにより空気が悪い。空からたくさんの汚れが降ってきて、地上にどんどん溜まっていっているんだ、絶対。
 とはいえ部活は待っちゃくれない。大会も近いし、俺は仮にもエース(仮)だから、サボるわけにもいかないのだ。

「部活行かないと……ん?」

 体育館に向かうために廊下を歩いていると、俺はふいにプラチナブロンドの髪を見つけた。靴を履き替えるその長い足は真っ白で、どこか艶かしい。間違いない、エルフだ。
 なんとなく下駄箱へと歩を進めると、昇降口は雨に濡れていた。そういえば朝、エルフは傘を持っていただろうか。今朝のエルフの行動を思い出す。確か教室で別れたとき、その白い腕に傘は無かった筈だ。
 でもエルフのことだから、折りたたみ傘くらいいつも持ってきているかもしれない。あいつはそういうところはしっかりとしている。
 いや、でもさすがに今日の雨は予測できなかったんじゃあないだろうか。それでもやっぱり毎日持ってきているかもしれないな。あのリュックサックに何が入っているかは、本人以外は知り得ない。まるで秘密の花園だ。
 エルフの服の下がどうなっているのかも知らないし、そもそも一緒に暮らしてるけど、一緒に風呂に入ったことも無いし。気になるところではあるけど……ってそういうことじゃなくて。俺は今、傘の話をしているんだった。

「……よし」

 俺はぐっ、と拳を握りしめて、自らを鼓舞する。俺は今、折りたたみ傘を持っている。傘は教室にあるが、取りに行かずに、あわよくばエルフと帰らせてもらおう。いわゆる相合傘ってやつだ。
 そう決心したところで、俺は時計を見る。どうやらかれこれ10分ほど時間が過ぎ去っていたらしい。雨足はだいぶ強まっていた。

「エルフー!」

 昇降口で立ち往生していたエルフに、俺は叫ぶ。くるり、と振り返った彼女はぞっとするほど綺麗で、俺はいつものことながら、少し顔を赤くしてしまった。
 それを必死に隠すのも、弟の役目なのだが。

「ん」
「……なに?」
「なにって傘だよ」
「なんで?」

 差し出された傘に戸惑いを隠せないのか、彼女はなかなか受け取ろうとしない。くそう、早く受け取れよ! 羞恥心で心臓がばくばくなってて死にそうだ。

「いや、お前傘持ってってないだろうなって思って、渡しに来た」
「……そう。助かったわ。ありがとう」

 事情をきちんと説明すると、意外にも彼女はすんなりと傘を受け取ってくれた。やっぱり傘を持ってきていなかったらしい。そしてそのまま、傘をさして外に出ようとする。いやいやいやいや、そうじゃなくってさ。

「待って」

 思わず腕を掴んだ。中途半端に開きかけた傘が水たまりに落ちる。驚くほど細い腕と身体は、俺の方へ簡単に引っ張ることができた。ちゃんと食べているんだろうか。まあ、毎日同じものを食べているんだから、彼女がきちんと食べていることくらい知っているけども。

「……なに?」
「そうじゃなくって……」

 ようやく我に帰って、俺は言葉を見失う。吸い込まれそうなほど青く、大きな瞳が俺をまっすぐに見つめてきた。こちらを向かせたはいいものの、どう言ったらいいのだろうか。一緒に、帰りませんか……? ダメだ、恥ずか死ぬ。

「はっきり言ってよ」

 エルフにしては珍しく強い口調だった。この状況から早く脱したいのだろう。仕方なく、俺は口を開いた。

「……傘は俺も1つしか持ってないんだ」
「なら、なんで私に」
「一緒に、帰ろうと思って」

 ぽかん、と彼女が口を開ける。その姿がいつもの冷たい雰囲気とはまるで違って、ぷい、と顔を背けてしまった。どうしよう。可愛い。
 彼女もそれに気づいたのか、すぐに表情を改め、静かに頷いた。

「……いいわ。一緒に帰りましょう」
「ほんとに!?」

 思わず彼女に詰め寄る。それでもエルフはいつものように無表情で、なんとも思っていないことが伝わってくる。それでも、一緒に帰れること自体が俺は嬉しかった。
 傘を拾ってさすと、彼女は俺を隣に入れてくれる。感動で心臓が止まりそうだ。

「そういえば部活は?」
「ん、サボってきた」
「ダメじゃない」
「いーのいーの。俺、エースだから」
「エースだからこそ、でしょ」

 雨の中、俺たちは歩いていく。
 彼女にとって、俺は弟。もうとっくの昔から、エルフが実の姉じゃないことくらいわかっているけど、それでも小さい頃から一緒に暮らしてきた家族だ。
 けれど。いつからだろう。エルフを愛おしいと思うようになったのは。はじめは俺よりも高かった身長がだんだんと低くなっていって。そして、制服をほんの少し押し上げる微かな膨らみを見て、俺はやっとエルフが女なのだと気づいた。
 この気持ちを気づかせてはいけない。有栖川家を壊してはいけない。
 だから今はまだ、このままで。

 折りたたみ傘は2人で入るには小さく、エルフの肩に雫が落ちた。俺はすかさずそれに気づいて、傘を彼女の方に寄せる。って、まるで俺がプレイボーイみたいじゃないか。言っとくが、俺はまだ未経験で……

「……ありがとう」
「ん」

 ほんの少し、本当に僅かに、彼女が微笑んだ。それはずっと一緒に暮らしてきた俺にしかわからないものだったが、まるで特別な宝物みたいだ。その笑顔を見るだけで、俺の心は満たされたような気がする。
 彼女はいつからか大声で笑わなくなった。だから、いつかまた、笑わせてやりたい。
 彼女の幸せを、どうか俺に守らせてよ、神さま。



**

「ただいま……」

 びしょびしょに濡れたまま、俺たちは家の玄関に入る。靴を脱いで、ついでにへばりつく靴下も脱いで、俺たちはまずリビングへと向かった。そういう習慣だ。途中、洗面所で洗濯機に靴下を入れ、エルフのブラ線を見ないふりをしながら、俺たちは廊下を歩いた。いつもは母とリンしかいないためリビングは静かだが、今日はやけに騒がしいな、と感じた。

「ただいま帰りまし、た、よ……」
「あらおかえり、留衣。ちょうど良かった。あなたに紹介したい人がいるの」

 ドアを開けると、いつもながらエルフの存在は無視される。いや、今はそれが1番の問題じゃない。

「母さん、その人は……」

 呆然として、その人物を見つめた。母の隣に、年配の男性がいたのだ。丁度、死んだ父と同じくらいの年齢の。

「こちら、秀明さん。とっても良い方なのよ」
「……はあ」

 にこにこと紹介されても、頷くことしかできない。秀明、と呼ばれた男は、にやにやと薄ら笑いを浮かべながら、よろしくね、と一礼した。

「んで、この人がどうかしたの?」
「ええ。実はね、私」

 再婚するの。
 俺は、言葉を失った。

『ずっとずっと愛してる』
『あなたのこと、忘れないわ』

 あの日、泣いて誓った約束は、もう忘れてしまったのだろうか。再婚なんて、絶対にしないと言っていたのに。

 そんな愛の形はまやかしだ、と俺は感じた。




episode1【end】