複雑・ファジー小説

幸福な食卓 ( No.30 )
日時: 2016/11/14 22:57
名前: 亜咲 りん ◆1zvsspphqY (ID: LYNWvWol)

 
 第一発見者として俺たちは事情聴取を受けた。取り調べではない。あくまで発見時の状況、被害者との関係性、だ。
 当然ながら母さんも呼ばれ、聴き取りを受けた。自分たちに容疑がかかるのを恐れてか、母さんは決して昨夜の出来事を刑事さんたちに教えなかった。正直酷いと思ったが、俺も同じ気持ちだったのでまあ仕方が無い。また少しずつ平和な日常が戻ってくることを祈ろう。
 秀明の方は親類がほぼいなかったようで、妹らしき人が死体を確かめに来て、咽び泣いていた。それほどまでに遺体の損傷は酷く、保存状態も悪かったのだ。それを決心も無しに直で見てしまった俺たちはどうなのだろう。頭にあのときの悲惨な状況が蘇ってきて、俺は聴き取りの最中、何度かトイレで嘔吐した。何も食べていなかったためか出たのは黄色い胃液だけで、その臭いがまた秀明を思い起こさせた。豚の体液だ。
 エルフはずっと放心状態で、刑事さんの質問に頷くばかりだった。しかしその刑事さんが鼻の下を伸ばしながら彼女の身体を舐め回すように眺めていたので、思わず蹴り倒したくなった。エルフはそんな目線にも気づかないようで、ずっとどこか遠くを見つめていた。

 結局帰ることができたのは真夜中で、俺たちはリンを引き連れて、一緒に家路を歩いた。こうしてみると本当の家族のようで、あれ? と感じた。

「夕飯、食べられなかったわね」

 ふと、母さんがそんなことを呟く。母も婚約者としてその遺体を確認したからか、とても気持ち悪そうな顔をしている。それでも人間腹は減るのか、何時間もなにも食べていない胃袋は、ぐーぐー、と空腹を主張するのだった。しかし、今何か胃の中に入れれば、俺は死んでしまうような気がした。

「なあ、母さん」
「なに?」
「……あの人のこと、好きだったのか?」

 母さんは何も応えない。エルフは下ばかり向いていて話相手にならないので、俺は母さんへと目線を向ける。母はとても苦しそうな顔をしていた。

「あんな気持ち悪い豚、誰が好きになるもんですか」
「……はははっ、はじめは優しくて良い人、なんて言ってたのにな」
「……そうねはじめはそうだったのよ。あの人みたいに」

 母さんの目線が遠くへと向かう。今夜も月が綺麗で、あの向こうにきっと冥府があるのだと思った。豚野郎は地獄行きだろう。しかし、死んだ人間を悪く言うのは、今は違うような気がした。
 秀明は、殺されたのだ。

「……カレー食べたい」

 ぽつり、とエルフが呟いた。

「カレー?」
「そう。飛びっきり辛いやつ」
「お前辛いの苦手だろ?」
「いいの。食べたい」

 暗い表情で、エルフは母を見つめる。散々今までエルフを虐げてきた俺たちの母親はどこか迷った仕草を見せて、やがて頷いた。

「……食べましょうか」

 どういう神経をしているのだろうか、と思ったが、むしろ俺たちは何か食べなければいけないのだろう。もう何も食べれなくなった人の代わりに、何かを食べる。それはどこか間違っているようで、正しい行為なのかもしれない。そう思った。

「家にある野菜で作ろうと思うけど……良い?」
「構わないよ」

 その後は、黙って道を急いだ。
 
 散々吐いた後に食べたカレーは不味かった。口に何か固形物を入れるとその度に胃液が逆流してきたが、逆に飲み込んだ。2人もそんな感じのようだった。
 そういえばカレーは父さんの大好物だったな、と今更ながら思い出した。優しい人柄なのに、飛びっきり辛いカレーが好きなのだ、と明るく言っていた。大好きだった。俺はファザコンだ。
 別に母さんも嫌いじゃない。エルフには多分、言葉の暴力をぶつけていただけだと俺は思っている。エルフは何も話してくれないので、実際のところはどうなのか、わからなかったのだ。
 しかめっ面で辛いカレーを頬張るエルフに、俺は訊ねてみる。

「エルフは……俺の知らないところで、母さんに何もされてない?」
「……されてない」

 少し間を置いて、エルフは小さく返した。母さんがスプーンを落とす。がしゃん、と響き渡る金属音に驚いてそちらに目をやると、母さんが狼狽えていた。

「……私は」

 何事か言おうとして、母さんは目線をさ迷わせる。

「……虐待していたわ。えるを。殴ったこともある。蹴ったことも」

 頭が真っ白になった。今まで知らなかっまことが明らかになって、俺はショートした。そうして浮かんできたのは何故か憎しみではなく、諦めだった。

「……お前、最低だな」

 こころから、そう呟く。もう何度めのことだろうか。忘れてしまうほど、その言葉は風化してしまっていた。

「ごめんなさい。私が……弱かったから」
「もういいんです。私が出ていきますから」
「違うの……あなたは私と違って……で、それが許せなくて……」

 落としたスプーンをそのままに、母さんはエルフに必死に謝っている。何を今更。エルフがそれでどれだけ傷ついたのか、お前は知らないだろう。俺は自分に苛立っていた。こうなってしまうまでこころが弱くなっていた母親と、暴力を受けていたエルフに気づかなかった、自分の頭の悪さに。

「……水に流そう」

 そう言ってスプーンを拾い上げ、洗い場に突っ込む。蛇口を捻り、食べ終わったカレーの皿に水を注ぎ込む。

「俺は正直、母さんのことが憎いよ。だけど、俺は母さんに養ってもらわないと生きてゆけない。俺はまだ子供なんだ」

 訥々と、しかしはっきりと俺は自分の気持ちを口にしてゆく。母さんのしたことは許されないことだ。だけど、それでも俺の母親であり、リンの母親でもある。そして、エルフの母親でもあったはずなのだ。はじめは。

「だから……やり直そう。秀明も死んでしまった。俺たちは、あいつのことも忘れて幸せに生きてゆくべきだ」

 だって、俺には関係ない。俺は死体を見てしまっただけだ。母さんも、まだ結婚はしていなかった。ギリギリセーフだ。エルフも、幸いにして肝心な部分は無事の筈だ。それでも、そこは許せなかったが。
 それでも、災いの種はいなくなったと俺は考えてしまった。秀明は殺されたとはいえ、俺たちを壊した。秀明を殺した犯人は、きっとそのうち捕まるだろう。俺たちは、平和に生きてゆけばいい。エルフもこれから説得してゆこう。

「俺たちは、幸せになるために生まれてきたのだから」