複雑・ファジー小説
- 淋しさをあなたで埋めて ( No.31 )
- 日時: 2016/11/23 21:02
- 名前: 亜咲 りん ◆1zvsspphqY (ID: Fbf8udBF)
- 参照: https://t.co/IDQi29FShL
死体を見たとき、怒られる、と思った。誰に? なんてことはもちろんわからなくて、ただただ逃げようと思った。あたたかいところへ。アルの元へと。それはいけないことだった。
ぼんやりとした意識の中、いろんな音が飛び交っていて、気づけば私は暗い夜道をみんなで歩いていた。月が綺麗だった。死んでしまった秀明が落ちてきそうなくらいに。
アルは青白い顔をしていて、赤い髪はところどころ汚れていた。荒んだ目だった。そりゃ、死体を見れば、誰だってそうなると思う。アルが何度もトイレに嘔吐していたことは、かろうじで覚えていた。
私は吐かなかった。どことなく胸が気持ち悪くて胃液が飛び出しそうだったけど、結局は何も出なかった。湧き上がってくるのはひたすら喜びばかりで、今はもう死体なんて怖くなかった。あれはものだ。動かなくなったものだ。ガラスの靴の効能か、と苦笑いした。
「……カレー食べたい」
だからその一言は、無意識に出たものだった。懐かしい、優しい父親の辛いカレー。私は苦手だったけど、何故だか無性に食べたくなった。
戸惑うみんなと一緒に家に帰って、辛いカレーを食べた。口から火が出そうで、思わず吐きそうになってしまった。アルと雫さんは多分、死体を思い出すのだろう。しきりに水を飲んだり顔を赤くしたり青くしたりしていた。今日のことは一生のトラウマになるんだろうな、と思った。
その後はアルが色々なことをきいてきて、少し焦った。何もされていない、と言えば嘘になる。それでも、アルを傷つけたくなくて、私は何も言わなかった。言えなかった。
結局雫さんが訥々と自供して、しん、と沈黙が流れた。雫さんは、自分が弱かったのだと言った。弱かったら人を殴ってもいいのか。蹴ってもいいのか。そんな言葉はカレーと一緒に呑み込んだ。
「……水に流そう」
アルは静かにそう言った。それは確かに良いアイデアで、この上なく幸せへの逃げ道だった。今日の死体のことも、この間までの雫さんの私に対する態度も、秀明のことも、全部忘れる。そして取り戻すのだ。何もかもを。
「俺たちは、幸せになるために生まれてきたのだから」
その言葉に、思わず涙が出そうになった。
幸せってなんだろう。ベッドの上で、考えてみた。
平和な家庭に生まれて平和に生きる。それが幸せなのだと、私は思っていた。だとしたらもう手遅れなのではないだろうか。私は普通の家庭に生まれることができなかった。
それでも幸せになれるのだとしたら、それは大人になってからのことのような気がした。普通の人と結婚して、普通に子供を産んで、穏やかに歳を重ねて死ぬ。それなら私でも、今からできそうだった。
そのためには今、何が必要か。
「さようなら、初恋」
アルを忘れることだった。
**
お風呂に入ってドライヤーで髪を乾かし、私は階段を上った。そして自分の部屋の前を通り過ぎ、アルの部屋へと向かう。こんこん、とドアをノックし、ノブに手を伸ばした。
「おいっ、どうした……んだよ」
奥から慌てたように、アルが飛び出してくる。白いシャツとジャージを着ていて、お風呂上がりだとわかる。私の方は白いワンピース型のブラウスを着ていて、下にはスパッツを履いていた。なぜこの服装を選んだのか。特に意味は無かった。
「……眠れ、なくて」
声が震えていた。眠れないのは事実。けれど、本当は嘘だ。私は今からこの恋心を捨てるために、アルに1度だけ触れるのだ。
「一緒に、寝てもいい?」
「……は?」
案の定、アルは素っ頓狂な声を出した。
「隣でねむるだけだから」
「いやでも……」
「今日だけ。……お願い」
上目遣いに見つめる。アルはしばらく目線をきょろきょろとさ迷わせていたけど、はぁ、とため息をついて、部屋に入れてくれた。
少し酸っぱいような、男の子の匂いがする。アルの匂いだった。そばにいるだけで心地よい、あたたかい香り。チェシャ猫の体臭は拒絶反応を起こしたからきっと、これはアルだけなのだろうと思う。
「クローゼットの布団、借りるね」
「……お、おう」
「いいの?」
「いやよくないけど、開けるのはいっこうに構わない」
「……そう」
遠慮なくクローゼットを開ける。エロ本ががさがさっ、と落ちてくるのを期待したけど、そんなことは無かった。少し残念に思いながらも私は布団を取り出して、アルのベッドの隣に敷いた。
「……ベッドで寝ても……」
「それはさすがに申し訳ないから」
「……そうか」
そわそわとしながら、アルがベッドに潜り込む。私も布団に滑り込み、目を閉じた。ぴっ、という音がして、灯が消えた。後には暗闇と静寂だけが残る。それは、秀明を思い起こさせた。
「……なあ、エルフ」
瞑想に入ろうとしたところで、アルが話しかけてきた。
「なに?」
動揺を出さないようにとびっきり気を遣いながら返す。
「この家に初めて来たときのこと、覚えてるか?」
「……覚えてる」
そりゃもう、一生忘れられないくらいまでには。幸せに触れたのは、あれが初めてだったから。
「あの頃のお前は荒んだ目をしていて、正直何を考えているかわからなかった。それでも、日に日にお前は元気になって、明るくなった」
どうして急にそんなことを言うのだろう。頭が混乱してしまう。
確かにあの頃の私は幸せを知らなくって、孤独だった。あの優しい父親のことを思い出す。すべてはあの人のお陰。そして、アルとリンのお陰だった。
「だけど、お前は最近、何か変だ」
「そう?」
「ああ」
「……そう」
ふぅ、と息を吐く。呼吸の仕方を忘れてしまったようだった。
「……ねえ、アル」
「……なに?」
「アルは、私のこと……」
ぎゅ、と胸に手を当てて、呟く。
「……すき?」
沈黙が下りた。それはそれは痛々しいほどの沈黙で、私の胸が張り裂けそうになる。私のほんの一欠片の勇気。アルを諦めるための、唯一の方法。
「……嫌いだ」
1拍遅れて、低い声が返ってくる。途端に、アルが遠ざかったような気がした。目の前が真っ暗になる。私は小さく笑みを浮かべた。
「そう」
噛み締めるように、その言葉を呑み込む。
わかっていた。シスコンでもあるまいし、アルだって年頃の男の子。私なんか恋愛対象にも入らない。こんな冷たいだけの女。彼にはもっと明るい人が相応しい。
こうやって初恋を終わらせて、私は幸せだ。この上なく幸せだ。さあ、幸せになろう。アリスと名のつかない苗字の人を探し出して、いつかそんな人と結婚しよう。この家族に迷惑をかけないように、私は出てゆこう。
不意に、頬を何かが伝う。涙だった。あたたかなそれは、ガラスの靴とはまったく真逆のものだった。
ああ、そうか。私はアルに、すきだと言って欲しかったのだ。当たり前だ。すきだったんだもの。
寝返りをうって、アルに背を向ける。そうしなければ、縋ってしまいそうだった。
そのとき、涙よりもあたたかいものを背中に感じた。
「……なんでだよ」
「……アル?」
アルがベッドから下り、私の背中に触れている。苦しげに何事かを呟いて、私の肩に触れる。
「どうしたの、アル」
「どうしたもこうしたも!」
そう叫んで、彼は私を抱きしめた。そのままアルも布団に落っこちる。背中に感じた鈍い痛みは、何故かあたたかかった。
「俺は……お前なんか嫌いだ」
「うん、知ってる」
「お前なんかいつでも俺に冷たくて、優しさを見せてくれない」
「そうね」
「それでも……すきなんだよ、なぁ!」
胸がどくん、と跳ねる。す、き? アルが私を??
「どうしてずっと、気づかないんだよ!」
赤い髪が私の頬に触れて、責めるようにくすぐる。そして、ようやく私は彼に好意を向けられているのだと理解した。
今まで、どれだけこうやって抱きしめられてきたことだろう。私は、ずっと認めないでいた。自分の幸せのために、アルを見ないでいた。なんて自分勝手な女だろう。それでも……
「私のこと、すきなの?」
「当たり前だっ!」
より一層強く抱きしめられる。涙が溢れ出して止まらなかった。
何が隣で寝るだけだから、だ。私は最初っからこれを望んでいただけじゃないか。何が初恋を終わらせよう、だ。私はこころの何処かで気づいていたはずだ。好意に目を背けて、ここまで来てしまった。初恋は、実らない、なんて言葉は嘘なのだと、私はこころの何処かで信じていた。
そして、私は自分からアルの唇に自らのそれを押し当てた。アルは驚いて身をよじって離れようとしたけれど、もう止まれない。
「そばにいて」
月が覗き見しているような、そんな夜だった。