複雑・ファジー小説
- ようこそ、闇へ ( No.32 )
- 日時: 2016/11/16 18:09
- 名前: 亜咲 りん ◆1zvsspphqY (ID: hd6VT0IS)
降りしきる雨の音で、ぱちり、と目が覚める。真っ白な天井が見えて、嗚呼、そうだここは有栖川家なんだった、と思い当たった。そして、強く、生きたいと思った。強く。
隣ではアルはもう目を覚ましていてベッドにおらず、すでに6時を回っていることが窺えた。
んーっ、と伸びをして湿気を吸い込み、少しだけ笑う。気持ちの良い朝だった。なぜかシンデレラが何も話しかけてこない。それどころか、存在すら感じられない。ガラスの靴はどこへ行ってしまったのだろう。でも、もう必要ないだろう。そう、思えた。
ベッドから出たところで、裸であることに気づいて、急いで下着を身に付ける。パジャマもその辺に脱ぎ捨ててあり、昨晩のことが思い返される。
幸せな夜だった。少し、涙が溢れ出た。
「……あ」
洗面所に向かおうとしたところで、ばったりとアルに鉢合わせする。顔を合わせた瞬間アルは顔を真っ赤にして、
「お、おはよう」
とだけ言った。その姿が可愛らしくって、私は笑った。けれども、そのままの表情で鏡を見ると、私の口角はぴくりとも動いていない。
まだまだ私のこころは冷たいままだった。それでも、いつかアルがこのこころを溶かしてくれるような気がした。
微かな期待を持って、1日が始まる。
まずはじめに感じたのは、景色が違うということだった。いつも俯きがちに歩いていたからだろうか。背筋を伸ばして歩くと、視界がとてもクリアになって、なぜか道端に季節外れのたんぽぽを見つけた。雨風に揺らされながらも、健気に生きている。生物は、みんな幸せになるために生まれてくる。だからあなたも幸せになって、たんぽぽさん。私はしばらくの間、自分の傘をたんぽぽにお貸しした。
これ以上ないくらいの曇り空なのに、不思議なほど空が明るく見えて、周りの人間の幸せが疎ましくない。じめじめとした雨のような、奇妙で幸福なあたたかさに私は包まれていた。
ふと気まぐれに、ぽとりと消しゴムを落としたクラスの子に、できるだけ穏やかにはい、と消しゴムを手渡すと、相手はたいそうびっくりしたような顔で、それでも、
「ありがとう」
と小さく笑った。どきり、とする。今までと違った反応で、どこかむずむずとしたのだ。
その後も、クラスの子の用事を手伝ったり、できるだけ明るく返事をしていると、途端にクラスの子の雰囲気が変わった。皆一様に不思議そうに首をかしげながらも、誰も私を悪く言わないのだった。
そして気づいた。クラスの子が私を勝手に奇異の目で見ていた訳では無いと。私が勝手に彼女たちを馬鹿にし、どうせ私をいじめるんでしょ、と決めつけていた。誰よりも私を蔑んでいたのは、私だった。
世界は思っていたよりも優しくできているのだと、この日初めて知った。
アルはやっぱりすごい。私にあたたかさと幸せを教えてくれる。
幸せが戻ってきた気配がした。秀明が死んだことで、物事が好転してゆくような感覚。いや、違う。アルが幸せを振りまいているのだ。いつも以上に。アルは幸せの化身だと、ずっと前から知っていた。
あの夜の私を見つめる瞳はどこか好戦的で、アルの違った一面を見ることができた。鍛えられた身体にもう1度触れてみたい。そう考えたところで、今度は私が真っ赤になってしまった。
いつもよりも軽い足取りで、家路を急ぐ。そういえば、私は出てゆく、と宣言していた。もうそんなものも必要ないんじゃないか。けれども、これはけじめ。それでも……離れたくないなぁ。なんて思った。
「明日天気になーれ」
そんな声が聴こえて、ふと立ち止まる。聞き覚えのある声だった。こつん、と私の靴の踵に何かが当たる。私は立ち止まって、後ろを振り返った。ざあざあ、と、耳障りな雨の音が意識内に入り込んでくる。
「やあ」
「……あんたは」
そこに立っていたのは、チェシャ猫だった。薄い唇を醜く歪ませて、笑っている。辺りを見渡すと、そこはかつて優しい父親とよく来た公園で、いつの間にこんなところに来てしまっていたのだろう、と首を傾げた。
「……何か用?」
警戒しながら、私は尋ねる。チェシャ猫はふらりふらりとこちらへ1歩1歩近づいてくる。その足取りはどこか危なげで、じりじりと壁に追い詰められてゆく。長い前髪に隠れて、彼の表情はよく見えなかった。
「ねえ、一体……」
「君は僕を裏切ったねぇ?」
がん、とチェシャ猫は片手を壁に押し付けて、私に顔を近づける。雨が降り注いで、あっという間にビショビショになる。俗に言う壁ドンというやつだった。でも、その瞳には甘さなどどこにもなく、ただ虚無だけが広がっている。なんだこれ。まるで……
「君たちの喘ぎ声を1日中聴くことになった僕の身にもなってよ、ねえ」
笑い声とも泣き声ともつかない声。チェシャ猫は、笑いながら泣いている、ような気がした。雨に紛れて、わからなかったけれども。それよりも、今の発言の中に、気になることがあった。
「聴いていた?」
「うん君の部屋に盗聴器を少しばかり」
「……変態っ」
「君もだろお?」
呂律の回らない口調で、チェシャ猫は私の髪を引っ張ってその場に投げ飛ばす。固いコンクリートの地面に落ちた衝撃が、薄っぺらいカッターシャツを通してやってきた。あの頃の痛みがフラッシュバックして、何倍も痛く感じた。
「……なん、なのよ」
「綺麗な髪だねぇ」
そう言って雨に濡れた私の髪を手に取ってすん、と匂いを嗅いだ。その仕草がまるで秀明のようで、ゾッとした。これも盗聴器で聴いていたのだろうか。不快感がせり上がってくる。
彼はいつの間にか手に持っていたはさみで、おもむろに私の髪を切る。私の喉からとうとう悲鳴が飛び出た。
「そうそうそれだよそれそれぇ。君には泣き顔がよく似合う素敵だよ食べてもいいかなぁ?」
なんて気持ちの悪いことを言いながら、チェシャ猫は私の首を絞める。雨に濡れた私の首と彼の手は冷たくって、息ができなくなった。
私、死ぬのかな。幸せになろうと思っていたのに、無理なんだろうか。意識が遠のいてゆく。
いや、でも、本当はどうなんだろう。当たり前だ、死にたくない。どうしたらいい? また幸せを取り戻すには、どうすればいい?
『抗って!』
シンデレラが叫ぶ。久しぶりにきいた声だった。
抗う? どうやって?
『正当防衛って、知ってる?』
シンデレラがそう呟いたその瞬間、はっとして、偶然近くにあったブロックに手が触れた。そこで気づく。抗える。まだ間に合う。まだ戻れる。あのあたたかい場所へ。
私は飛びそうになる意識を必死に保ちながら、チェシャ猫の後頭部を思いっきり殴った。
「僕は君のことがこんなにすきなのに君は全然僕を頼ってくれなくてあの豚に襲われたときだって僕じゃなくてあいつに助けを求めたよねぇ。どうして?? 僕じゃダメなの?? 僕、豚を殺したんだよ?? 君にひどいことをした男を僕がやっつけてやったあ、
あ?」
ごん、とものすごい音をたてて彼の頭にクリーンヒットしたそれは強烈な一撃だったらしく、チェシャ猫はそのまま地面に倒れ込み、ぴくぴくと痙攣していた。
直前までの言葉で、なんとなく彼のしでかしたことを理解する。荒い息を整えて、私はずぶ濡れの彼を見下ろした。
「あなた、だったのね」
秀明を殺したのは。拍子抜けするほどの真実に、逆に冷静になる。彼は私をすきだと言ったけれど、まるで初耳だった。
私はアルのことがすきだ。彼の狂気とも言える好意は受け止められない。それに、私は今、殺されかけた。チェシャ猫は1度痛い目に合うべきだと思った。
「……逃げなきゃ」
とりあえず、その場から逃げようと、その場に転がっていた傘を手に取り、足を踏み出す。近くに交番がある。そこに駆け込んで、チェシャ猫を連行してもらおう。
そう決心するも、まだ震えが止まらなくって、うまく足が進まない。だから、私の足に何かが触れたとき、私はつまずきそうになってしまった。
「ままままままま待ってよお」
「っっ、離して!」
蛇のように絡みつくチェシャ猫の手を蹴り飛ばし、私はぴちゃぴちゃと水たまりを踏みながら、交番への道を急ぐ。
気絶していたんじゃなかったのか。私が彼の頭にぶつけたブロックは、血が混じっていた。正直死んでしまったと思っていたのに。怖い。こいつは……バケモノだ。
雨はどんどん強くなるばかりで、私の足を遅くさせる。交番は、この先の信号の向こうにある。はやく、はやく。希望の見える、その先へ。
そのとき、前方に黒いカッパを着た人間がいるのが見えて、私は急いで叫んだ。
「危ない、逃げて!」
不思議な言葉だった。前の私ならきっと、退いて、と言っていたのに。
しかし、黒いカッパの主は近づいてくる私をじっと見ている。この雨だから、きこえないのだろうか。それなら、手を引いてでも一緒に逃げなければ。襲われるのは、もしかしたら私だけではないかもしれないのだから。
彼女の手を取って、
「ほら、早、く………」
と呟いた瞬間、お腹に衝撃を感じて、私は立ち止まった。そしてなぜか力が抜けて、その場にへなへなと座り込んでしまう。思わず手を当てると、何かかたいものが私のお腹から生えていることに気づいた。
「……どう、して」
呆然とそう呟くと、黒いカッパを着たその人物は、ああああ、と奇声をあげて、私のお腹からナイフを引き抜いた。しばらくして、耐え難い痛みが襲いかかってくる。
地面に這いつくばるようにして空を見上げると、そこには瞳孔を限界まで見開いた、木村杏奈が立っていた。