複雑・ファジー小説

Re: 七夜、八夜【SS】 ( No.2 )
日時: 2016/08/25 19:17
名前: 浅葱 游 ◆jRIrZoOLik (ID: EM5V5iBd)


 私は遠い底で夢を見ていた。橙色が濃く広がり、それはあきらかに変化しているのに、誰も気に止めない不思議な世界。橙色は世界を深く深く飲み込んで、それでも人目には、うつくしいと映る。
 目が覚めて外を見ても、私が見た夢の色は一つもなかった。着色料と添加物、それと少しの保存料で、この世界は出来ている。

「おはよう、また今日も目が覚めてしまいました」

 一人ぼっちの部屋に私の声は溶けだして、もう形をとどめていない。昔は友人も沢山遊びに来ていたけれど、気づいた時には一人ぼっちだった。
 寂しさとか辛さなんてものは無くて、もしここに夢見た橙色があるなら、なんて事を寝惚けながら考える。それくらい、あの夢の世界は美しかった。

 私は誰かに決められたわけでもないのに、ここ数年ベッドから出たことは無い。排泄物にまみれたシーツは、出入りの激しい女中さんが一日何回か変えにくる。
 臭くて汚いでしょう。そう笑いかけたけれど、女中さんは小さく会釈をしただけで、その真意までは分からなかった。きっと彼女は、私と違う立場にいるんだろう。

 囚われの身といえば同情してもらえそうだけれど、私は今この場に満足していた。枷をはめられ留まり続けるという、常人には苦痛でしかない日々。私にとって、変わらない物はひどく安心できる。
 私が辛くないように、女中さん達が定期的に模様替えをしてくれるのだから、私は恵まれていると思う。ここに居さえすれば、私は辛さや苦痛から開放された状態でいられる。

「今日のご飯は何かしら」

 唯一の出入口からやってきた女中さんの手には、小さな銀色のトレイが乗せられていた。また同じご飯だろう。そう分かっているのに、心は踊っていた。
 ヘンダーソン先生が、食事は楽しいひとときだって言っていたんだもの。また、なんて気持ちを隠して楽しそうにしなくっちゃ。

「本日は旦那様のご好意で、お嬢様の好きなものをとのことです」
「まあ! 今日はフレンチトーストね」

 思わぬ誤算に、わっと嬉しさが湧き上がる。機械じみた女中さんの声も気にならない。手際よく食事の用意を始めていく女中さんを傍らに、私は気分よく鼻唄をうたう。
 お父様がよく聞いている、有名な海外の歌。たしか車のコマーシャルに使われているって、言っていた気がする。そのリズムが好きで気分がいい時は、よく一人で鼻唄をうたう。同じフレーズを飽きるまで何度も何度も。

「ご用意が出来ました。お食事が済みましたらベルでお呼びください」
「はぁい」

 女中さんが部屋を出てから、トレイに向かう。私の大好きな甘い甘いフレンチトースト。もう部屋いっぱいに充満した甘いにおいを、思いっきり吸い込み、少しずつ吐き出す。
 身体いっぱい甘いにおいに包まれているようで、嬉しい気分になってきた。なんだか心がふわふわしている。食べやすくあらかじめカットされたフレンチトーストを、口いっぱいに頬張る。しっかり味が染みたトーストを数回噛むと、上にかかっていたハチミツが良く香った。

 ほんの数分でたいらげ、汚れた手でベルを鳴らす。ベルが汚れるくらい、シーツが汚れるのに比べたらマシだろう。
 静かに入ってきた女中さんがトレイを下げ、もう一人の女中さんが私の指を拭く。一度に二人の女中さんが来る事はほぼなく、きっと今日はお父様が指示を出したんだろうと納得した。

「では失礼致します」
「うん」

 同じタイミングの揃ったお辞儀を見て、トレイが乗っていたオーバーテーブルの上の本を手に取る。小さい子向けの学童本ではなく、少し難しそうな物語。
 分厚い本の背表紙を見、表紙を見、もう一度背表紙を見る。

「あっ。前にお父様が読んでいた本じゃないかしら」

 魔法使いが杖と知力をもって、仲間と出会いながら成長していく長編小説。その初めの巻だった。表紙をめくり、目次を見る。
 少し難しそうな文章だけれど、お父様が読んでいるから、同じように読み進めていく。私の世界を形作るすべては、お父様から与えられていた。

 物心がついた時から私の世界を作っていたのは、お父様だけ。窓の外に見える、時間によって変わる空の色を教えてくれたのも、時間を教えてくれたのも、お父様。
 私が見ている世界は与えられた、作られたもの。そう、すぐ居なくなってしまった女中さんが言っていたけれど、私にとってはこの世界が全て。

 私が今生きるため、何かを感じるため、そのためだけに作られた空間に不満は感じたことがない。出る努力も、したことはなかった。
 作中の主人公が感情の狭間で揺れ動く。だんだんと私がその主人公になっているような、そんな不可思議な感覚になっていく。自尊心の塊みたいな子との対立、仲のいい少年少女との協力。

「私が経験したことのないものばっかり」

 ぽつりと呟くけれど、誰の耳にも届かない。物語はもう終盤が近付いてきた。窓の向こうは、夢で見た橙色より人工的な色が、世界を淡く照らしている。
 まだ読み終わらない本を閉じ、外の色を無気力に眺める。女中さんもお父様も、この景色を美しいと思っているのかしら。緩やかに色が変わるわけでもなく、黄昏たいと感じるわけでもない。

 こんなに、世界はつまらない。

 ある日見た写真集の風景はどれも美しく、私が見る世界のどことも明らかに違っていた。遠い世界は陰影がおぼろげで、光は全て柔らかかった。
 それに比べて、と思わずため息がこぼれる。大好きなお父様と一緒、過ごしやすい空間。何でも手に入る完全な世界は、ただ一つだけ不完全だ。

「いつか私がお父様から離れた時、一体何が残るのかしら」

 きっとお父様は、私と初めからやり直そうとする気がする。だって今のお父様にとって、私はたった一人の永遠だもの。血が繋がっていようがいまいが、お父様は私を見捨てない。
 だから私はお父様を拒絶する。何も持ってない私は、お父様の優しさに溺れて浮かび上がってこれないもの。私に与えられたすべては、一瞬でなくなってしまう。

 私が生きた証なんて脆いものも、外から見たら何の価値もないことくらい、この籠の中にいても分かっている。何をしたわけでもない私は、本当に今を生きているのかしら。
 ふかふかのベッドに、ゆっくりと倒れ込む。考えても分からないことを悩むのは、ひどく頭が疲れてしまう。視線を下げ、お父様の本をじっと見る。

 私が今お父様にさよならを告げたら、どうなるのかしら。途方もない考えに、目尻が熱く濡れた。きっと、きっと。お父様は心にぽっかり、穴が空いてしまうかも。
 それでもきっとお父様は許してくれる。勝手に泣く私に気付かない振りをして、お父様は笑ってくれていたもの。優しい優しいお父様に、私はどろどろに溶かされて離れられなくなっている。

 愛し愛され壊れてしまう一歩手前。私は私じゃなくなって、いつかお父様の一部になってしまいそうな、そんな言いようのない不安がいつも私につきまとっている。
 一番愛されている今だからこそ、私はお父様から離れなくちゃ。一番愛する大好きなお父様だからこそ、私はお父様を自由にしなくちゃ。






□金魚は円周率をおぼえることが出来るか?


—————

 何も残せない私は、何を得られたのかしら。
 せめてもう一度、お父様とひとまたたきの永遠を。

—————

 2014年、たろす@さんのアンソロジー企画が初出しです。
 この掲載を報告と返させて頂きます。
 変わらぬ敬愛を。