複雑・ファジー小説
- Re: Force of chips ( No.1 )
- 日時: 2016/09/09 19:36
- 名前: ナル姫 (ID: CROAJ4XF)
——1995年3月。
「はぁっ、はぁっ……はっ」
足は擦り切れ、腕は痺れ、肺と心臓はもう限界を超えていた。しかし彼女は走った。その腕に抱えた大切な命を、彼女の子供を守るために。
年にして僅かに十五歳の彼女だが、母親は母親である。ろくに出産施設の整っていない場所で母子ともに健康だったとは言え、体にかかる負担は十分すぎるほど大きかった。男親が誰なのかわからないということにも関わらず、望んだわけではないということにも関わらず守りたいと思うのは、母性本能というものがあるからか。
遠くから自分を追う声が聞こえた。もっと逃げなければならない、と、走り出そうとしたところで、よろりと足がふらついて、体が地面に叩きつけられる。その拍子に、赤子が彼女の腕の中から抜けていった。
「あっ……」
まずい、と手を伸ばす。その先に行くと川に落ちる。どうか、どうかそれだけは……と傷だらけの体を動かそうとするも……。
ぼちゃん、と水が跳ねた。生まれたばかりの子供は、川へ流れていった。
何が起こったのかわからなかった。体を起こし、徐々に冷静になる頭が、何が起きたのか解析を始め——理解できたところで、彼女は絶叫した。髪を両手で掴み、叫んだ。
「いやぁぁぁぁぁぁあッ!! そんな、そんなぁぁぁぁぁあッ!!」
ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちていく。その声を聞きつけて、大勢の足が彼女の方へ向かってくるのがわかった。草を踏みつけ、十人ほどだろうか、銃を持った男達が彼女に銃口を突きつける。彼女は川を眺め、彼らに振り向こうとはしない。
もう死のうと、どうだって良かった。
呆然とした態度でいると、ゆっくりとこちらに歩み寄るもう一つの足音が聞こえてきた。それと、ゆったりとした声も。
「残念だ……非常に残念だ、敦子ちゃん」
「……」
「君は大切な試作品、それも鳳凰のチップを持った子だ。しかも君の子供には、神風のチップを埋めてあったというのに……」
つかつかと歩み寄り、彼女の真後ろに来た男性は膝を折って彼女の高さに視線を合わせる。肩に手を乗せた。
「その子を殺すなんてねぇ……嘆かわしい」
にやりと、さして残念でもなさそうな悪質な笑顔を浮かべる男性の耳に、小さく声が入り込む。よく聞こえなかったため、なんだね、と聞き返すと、ギッと彼女は噛みつかんばかりの勢いで彼に振り向き、声を荒らげた。
「煩いッ! あの子を……復讐の道具なんかに使わせるものですか! いつか……いつか貴方の野望は消え失せる! 呪ってやる、呪ってやる!」
はぁ、と彼はため息を吐き出した。どうやら、彼女には何を言っても無駄らしい。立ち上がり踵を返すと、銃を持った男たちに擦れ違い様に声をかける。
「その女はもう必要ない。殺せ」
かちゃり、と銃が構えられる。
乾いた音、そして血飛沫が舞った。
「片付けて置くように」
「はっ」
全身から血を流す女は丸で見えていないかのように、男性は子供が落ちたであろう川を見つめた。チップが埋め込まれているからと言っても3月のまだ寒い時期、それにチップの能力開放にはそれなりの訓練が必要になる。あの子供はもう生きてはいないだろう。
「所に帰るぞ。そして、残りの十七人の赤子の様子を見る」
「落ちた子供は……」
「もう死んでいるだろうよ。それに」
ちらりと、死んだ女を一瞥すると、溜息を吐き出した。
「そんな女の子供、生きていたところでどうせ我らに害をなそう」
彼は言い切ると、曇り始めた空を見上げた。そして笑い始めた。何故かはわからない、笑いが止まらない。それは、成功には少しの犠牲も必要なのだと真に悟った故の笑いであったのかもしれない。
曇った空からは、ついに雨が降り出していた。
——Prologue.