複雑・ファジー小説

「女王陛下に知らせますか?」第2章②更新 ( No.15 )
日時: 2016/11/15 21:08
名前: いずいず ◆91vP.mNE7s (ID: dPcov1U5)

「……トゥルーディ?」
 見上げた親友の顔は暖炉の火に照らされてなお青ざめ硬くこわばっていて、アリスは思わず息を飲む。

「アリス」
 トゥルーディの青い瞳がアリスを捕える。
「これだけは信じて。わたし、あなたを巻き込むつもりはないの。雨が止んだらここを出ていくから、そのあいだだけ、ここにいさせて」

 この発言に、彼女がなんらかの事件に巻き込まれたことは容易に想像できた。できたからこそアリスはむっとした。
「そんな情けないこといわないで、トゥルーディ」
「アリス……」
「なにがあったのか、いいたくないなら聞かないけど。でも、あたしに迷惑がかかるって理由で言いたくない、雨が止んだら出ていくっていっているなら怒るわよ」
「でも、アリス!」
「トゥルーディ、あたしたち親友よね? もしいまあなたの立場にいるのがあたしだったら、トゥルーディ、あなた、雨が止んだらここを出ていってってあたしにいえる?」
「……」
 トゥルーディが泣き出しそうな顔をして首を振る。
「そうね、アリス。そんなこと、あなたにいえないわ」
「でしょ?」

 安心させるように毛布に包まれた膝を叩く。微笑んだトゥルーディの目から涙がこぼれるのを見て、アリスは胸が苦しくなった。
 娼婦という仕事柄、口にできない思いをずいぶんしてきただろう。しかし彼女は、アリスと会うときに、一度も涙を見せたことはなかった。それどころか微笑みを絶やすことさえなかった。どんなときも毅然と顔をあげていたそのトゥルーディが、いま安堵のあまり泣き出したのだ。

 ——なにがあったの、トゥルーディ。
 アリスはよほど声に出してそう問いたかった。しかし口にしたところでトゥルーディが答えるはずもないとわかっていた。

 だから、尋ねる代わりにアリスは立ち上がり、泣いている親友の肩を抱き寄せる。その濡れた髪に頬をつけて、囁きかけた。
「だいじょうぶよ、トゥルーディ。もうだいじょうぶだからね」
 ちいさな声が「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返す。

 そのつぶやきがいつ収まったのか、恥ずかしいことにアリスは覚えていなかった。気づくとベッドに横たえられていて、
「おはよう、アリス」
 美しい親友は、いつもの笑みを取り戻していた。



 結局それからトゥルーディが部屋を出ていくことはなかった。
 理由もいわず、ただ巻き込みたくないといい張るトゥルーディに、アリスが頑として譲らなかったのだ。

「あなたがここを出ていかなきゃいけないくらいの理由がどうかは、聞いて、あたしが決める」
「バカなこといわないで、アリス。理由はいえないっていってるでしょう? これ以上ここにいたら、あなたの迷惑になりかねないのよ」
「なら聞くけど、出ていって、それからどうするの? どこかここ以外にあなたが身を隠すアテはあるの?」
「……」

「ねえ、トゥルーディ。あなた、あたしが送った手紙、いつもどうしてるっていってた?」
「? 中身だけ綴りに綴じて、封筒は処分していたけど……」
「つまり、あなたの店に、ここが割り出せるようなものって残ってないんじゃない? そりゃあ、あなたとあたしが仲がいいってことは、誰かに聞けばすぐわかることだけど。それでも、この部屋はミア名義だし、そのミアもいまは恋人のところに行って帰ってこないし。……二、三日——ううん、せめて今日いちにちぐらいはここにいたら? ここで次にどうするか考えよ? そうじゃないと、あたし、心配で」
「アリス」

 しかし、その日のうちに、トゥルーディを強く引きとめたことをアリスは後悔することになる。
 彼女が望んだように、雨があがったあとに部屋を離れていたら、彼女はいまも美しく笑っていただろうか。
 自分のところではなく、軍や警察につながりのある馴染みの客を頼るべきだと促していたら、いつまでも彼女と淡い恋の話で盛り上がっていられたのだろうか。
 部屋のドアの内側にピンでとめた、異国の幸福な女王様の写真を見て、いっしょに羨んでいられたのだろうか。

「トゥルーディ、ただいま」
 彼女ひとり部屋に残し、昼の仕事に出かけていたアリスが帰宅した部屋で見たものは、
「——トゥルーディ!!」

 床一面の血の海のなかうつぶせて横たわるトゥルーディの姿だった。