複雑・ファジー小説
- 「女王陛下に知らせますか?」第2章④更新 ( No.17 )
- 日時: 2016/11/17 22:01
- 名前: いずいず ◆91vP.mNE7s (ID: dPcov1U5)
あとになってアリスは、逃げる必要はなかったことに気がついた。
トゥルーディの死因は、あきらかに背中にあいた小さな穴、つまり銃で撃たれたせいだ。アリスは銃など持っていないし、部屋中探してもそんなもの出てくるはずがない。警察にはなかなか信じてもらえないかもしれないが、状況がアリスの無実を証明しているのだ。彼らとて、おのずからそのことに気づくだろう。
そして、そのときこそ、アリスは警察の許にいるべきだったのだ。
トゥルーディがアリスのボロアパートを訪問した理由やそのときのようすを伝えることで、彼女が巻き込まれた「何か」と彼女を殺害した犯人を知る手掛かりになりえたかもしれないからだ。
だが、ただやみくもに町中を走り回り、疲れ果てて足をとめたいまのアリスは、そこまでの考えに思い至らなかった。
「……ここ、どこかしら……」
複数階建ての古い建物が、幅の狭い通りの両側をぎっしりと埋め尽くしている。陽はずいぶん陰ってきており、その狭い通りを行きかうまばらな人影は足早で、家路へと急いでいるのが見て取れた。
(もうそんな時間か)
ぼんやりとそう考えて苦笑する。昼の仕事が終わったのは夕方だった。そんな時間もなにも、妥当な頃合いだ。
(どこか隠れるところを探さなきゃ)
部屋を飛び出してから陽が落ち切るまでに時間はじゅうぶんあった。ミアあたりに通報を受けた警察が動き出していてもおかしくはない。見知らぬ場所でうろうろしていたら、機動力のある彼らに発見されるのに、夜明けを待つこともないだろう。
あいにく文字通りボロアパートを飛び出してきたので、食べ物を買ったり宿に泊まったりするような手持ちはない。劇団員仲間の家を訪ねることも思い浮かんだが、ミアが噂を振りまいている可能性もあるし、すでに警察の手が及んでいる恐れもある。頼るのは危険だ。
(どうしよう……)
袋小路に追い詰められたようで、顔が自然に下をむく。昨晩の名残の水たまりに、気がつかないうちに足を踏み入れていたのだろう。靴どころか膝丈のスカートの裾にも黒い染みが広がっていたのが目に入った。
「やだな……、泥が跳ねて……!」
泥を払おうとして、それが泥の汚れでないことがわかった。
血だった。
横たわるトゥルーディを起こそうとそばに膝をついたときに、染み込んだ、彼女の血だった。
「……! ……!!」
アリスは裾を払った。こんなことで取れるわけないとわかっていても、何度も何度も裾を払った。払って、払って、払って。そして、
「トゥルーディ……!」
抑えきれなかった声が、こらえきれなかった涙が、堰を切ったかのようにあふれ出た。
(どうして! どうして! どうして!!)
答えの返らない疑問が心の中を渦巻く。
なぜトゥルーディは殺されなければならなかったのか。
いったい何を、彼女は聞いてしまったというのか。
そして、生涯けして忘れることができない後悔が、アリスの全身にのしかかる。
(どうしてトゥルーディを引き留めたりなんかしたんだろう)
彼女は雨がやんだら部屋を出ていくつもりだった。アリスを巻き込みたくないからと繰り返していたが、こうなることを予見していたのかもしれない。
それを、強引に引きとめたのはアリスだ。
(あたしが、殺した)
「……うっ」
アリスはその場に崩れ落ちた。そして、事情を知らない通行人が声をかけてくるまで、ただただ声を殺して泣き続けていた。