複雑・ファジー小説
- 「女王陛下に知らせますか?」第2章⑤更新 ( No.18 )
- 日時: 2016/11/20 21:12
- 名前: いずいず ◆91vP.mNE7s (ID: dPcov1U5)
「あんなところでいつまでも座り込んでいたら、タチの悪いのに捕まってしまうぞ」
あきれたような口ぶりでそういうのは、泣いていたアリスに声をかけた青年だった。泣きすぎて力の入らないアリスの体を引きずるようにして、彼のアパートまで連れて来てくれたのだ。
「俺の名前はランディ・ショー。グリーンランドの外交官みたいなことをやっている。やましいことも後ろ暗いこともない。なにかありゃグリーンランド大使館に訴えてくれ。いいな? わかったな? じゃあ家まで連れていくぞ」
そんなふうに律儀に前置きをして。
ランディの部屋は実に殺風景だった。
入り口から入ってすぐのところに居間と台所を兼ねた広間があり、奥に寝室らしき場所へのドアがある。寝室がどうなっているのかわからないが、少なくともこの広間に関しては椅子とテーブルぐらいしか家具はなく、長く住んでいるようすではなかった。
とはいえ、そのようにアリスが考えたのはもっと後になってからで、いまはとてもそれどころではなかった。
「す、すみません……」
ランディから差し出されたカップを受け取りながらアリスは詫びる。口をつけると、湯気の立つあたたかいそれは、砂糖たっぷりの甘いミルクだった。
「美味しい」
疲れ果てた心に、そのあたたかさと甘さがゆっくり染み込んでいく。救われたような気がして安堵の息を吐こうとし、ぎくりと体が固まる。このあたたかさも甘さも、トゥルーディは二度と味わえないことを急に思い出したのだ。
(あたしがばかだったから!)
止っていた涙が、ふたたびあふれてくる。トゥルーディは死んだのに、彼女を殺した自分がのうのうと生きている。それが、たとえようもなく悲しくて、苦しかったのだ。
だが、
「泣きたいくらいたいへんなことがあったんだろうけど、泣くのは後にしろ」
そういってランディが次に差し出したものは、彼のものであろう男物の衣類の上下だった。
「ミルクが冷めないうちにさっさと飲んで、その泥だらけの服を着替える。食事はまだか? 用意してやるから食え」
「……」
信じられない思いで、アリスはランディを見上げた。自分は罪人だ。それなのに、なぜ彼はこんなに親切にしてくれるのだろう。
たとえば彼がアリスを知っていて、あるいは女優アリス・オーのファンだというのならわからなくもない。しかし彼はアリスとは初対面だったし、アリス・オーの名前も知らなかった。
「なんだ?」
「……どうしてこんなに親切にしてくれるんですか?」
心に浮かんだ疑問をそのまま口にすれば、ランディは肩をすくめた。
「気紛れだよ」
「気紛れ?」
「ああ。ライトホールドにあんたと同じぐらいの娘がいてね。その子が泣いていると思ったら、声をかけずにはいられなかった。それだけのことさ」
まあ、いまのあの子には非常にやっかいな旦那がいるけどね。そう付け足して彼は笑った。
「娘さんがいるの? ライトホールドに? でも、グリーランドの外交官って……」
「グリーンランドの外交官もどきに、ライトホールドに娘がいちゃおかしいか?」
アリスは慌てて首を横に振った。外交官のように国をまたいで仕事をする人なら、異国で家庭を持ってもおかしくはない。
——ほんとうに外交官であれば。
さきほどからランディは自分の仕事を外交官といいきっていない。みたいなものとかもどきとか、あいまいにする言葉を添える。
実際のところ、アリス自身もランディが外交官というのは疑わしく思っていた。外交官のような華やかな仕事に就いている人が、こんな入り組んだ路地にあるボロアパートに、まるで隠れるように住んでいるのが理解できなかったからだ。以前トゥルーディに聞いた話では、豪華なホテルを一時的な住まいにする大国の外交官もいるらしいのに。
しかし彼は、彼の身許の問いあわせ先にグリーンランドの大使館をあげた。もどきでもみたいなものでも、グリーンランドの大使館には属する存在なのだろう。
(いったいなにものなのかしら)
不審にまでは至らない疑念が思い浮かぶけれど、
「冷めるぞ!」
呆れたようにランディがいうので、ひとまずミルクとともに飲み下した。