複雑・ファジー小説
- 「女王陛下に知らせますか?」序章② ( No.4 )
- 日時: 2016/11/02 21:49
- 名前: いずいず ◆91vP.mNE7s (ID: OBp0MA9U)
十三歳で、彼女は娼婦になった。
彼が客としてやってきはじめて、もう四年になるだろうか。黙ってやってきて、なにもせずに、ただ朝まで寄り添って眠るだけの奇妙な客。
港に船がついたときなど、飢えた荒くれ者を相手に、分刻みで仕事をしなければならない。どんなに体がつらくても、虐待のような行為をされても、唇を噛んで足を開き続ける。
彼がやってくるのは、決まってそんな日の翌日だった。彼女を休ませるつもりなのかは、聞いたことがないのでわからない。それだったら、忙しいその日に来てくれればいいのにと何度思ったことだろう。
でも、トゥルーディはなにもいわなかった。なにか口にすると、二度と彼がこなくなる。なぜか、そんな気がしたから。
「……」
月の明るさに眠れずにいた。眠れないついでに隣で規則正しい寝息を立てる男を眺めていたら、ふと、その柔らかい金色の前髪をいじりたくなった。
(わたしは眠れないのに)
彼の心地よさそうな寝息に腹が立って、前髪を引っ張る。少し眉間にしわが寄った。痛かったのかもしれない。
(起きてしまえ)
もう一度、前髪を引っ張った。呼吸が乱れる。ギュッとしわを寄せた目が、うっすらと開かれる。
「……トゥルーディ?」
声変りなどとっくに終えているはずなのに、ちょっと高めの声がトゥルーディの名を呼ぶ。咎めるでもなく、ただ、トゥルーディの名前を呼ぶだけ。
「貴方が気持ちよさそうに眠っていたから、起こしたくなっちゃった」
彼は笑った。どうしてか幸せそうな笑顔だった。
「ぼくだけ眠って悪かった。起きるよ、少し話でもしよう」
「いいわよ、そのまま眠ってて。わたしもすぐに寝るわ」
身を起こしかけた彼を押しとどめ、トゥルーディはベッドの上に起き上がった。古びたカーテンに手を差し入れ外を覗くと、眼下にはまだ賑やかな夜が広がり、空には青い月ばかりがしらじらと輝いている。
「この部屋は月が眩しいな」
「灯りがなくても、相手の顔が見えるようによ。間違って別の客の名前を呼んじゃいけないでしょう?」
「間違って呼びたくなる名前があるのかな?」
「あるわ。——あなたの名前」
ややあって、彼が答える。
「……でも、きみはぼくの名前を知らない」
トゥルーディは彼を振り返った。トゥルーディ自身の体が影になり、彼の表情はわからない。だから、いえた。
「そうね、でも、あなたの名前を呼びたくなるわ」
(これで、彼は来なくなる)
いままで踏み込まずに来た彼のプライバシーに、今日に限って足を踏み入れたのは月明かりに惑わされたからだろうか。
思わぬ失態に、心の中で、この平穏な夜も今日で終わりだと思ったときだった。
「サイ、だ」
彼が、はじめて名乗ってくれた。
「——!」
サイモンの愛称のサイなのか、それともサイだけなのか。もしくは偽名だろうか。あるいはミドルネーム。きっと本名ではない。わかっていたけれど、名前を教えてもらえることがこんなに嬉しいとは想像もしていなかった。
「なぜ泣くの?」
彼が——サイが、気遣うような声をかけてくる。トゥルーディは顔をふたたび外へとむけた。
「気にしないで、寝てちょうだい。朝までもうそんなに時間がないわ」
耳が、サイが起き上がる音を拾う。あたたかな、意外にしっかりとした腕が背後からトゥルーディを捕えた。
「サイ?」
知ったばかりの名前を口にする。頬に、かすかなぬくもりが触れた。
「おやすみ、愛しいひと」
トゥルーディは涙をこらえきれなかった。せめて嗚咽が漏れないよう、口を手でしっかりと押さえる。
(どうかこの幸せがいつまでも続きますように)
十七歳の夜、娼婦は月に願った。