複雑・ファジー小説
- 「女王陛下に知らせますか?」序章③更新 ( No.5 )
- 日時: 2016/11/03 21:14
- 名前: いずいず ◆91vP.mNE7s (ID: OBp0MA9U)
十三歳で、彼女は自由になった。
子どもの頃、なんのきまぐれか、父が王都に連れて行ってくれたことがある。
山と畑、それに牧草地に囲まれて育ったアリスにとって、王都は非常に魅力の詰まった場所だった。
目に映る色が緑と青しかない田舎に比べ、都は、赤や黄やピンクなど、物の数だけ色彩があふれかえっていた。田舎には、木造の一軒家しかなかったが、ここには石造りの複数階建ての家々が、窮屈そうに身を寄せ合って並んでいる。
それら建物の一階部分に、贅沢なほど大きなガラスをはめ込み、中が見えるようにしてあるのは店だと父親はいった。
アリスが一生身につけることなどないような、服や帽子、靴、宝石などがそれぞれの店に並んでいて、父に促されるまで、その場から足が動かなかったのを覚えている。
でも、なによりアリスの心を掴んで離さなかったのが、村の教会を何十倍も大きくしたような劇場で見た演劇だった。
店で見た服や帽子、靴、宝石を目いっぱい身につけて——のちにそれはすべて偽物や劇団員の手作りであることを知るのだけれど——、舞台に立つ人々が泣いたり笑ったり怒ったり。客席でそれを見つめる観客が、同じように泣いたり笑ったり怒ったり。
そして、幕が下りた瞬間の、観客がいっせいに立ち上がっての万雷の拍手!
その拍手を一身に受けていたのが、小柄な女優というのもあったのだろう。
(お父さん、あたし、女優になる!)
村への帰り道、興奮して騒ぎ立てるアリスを、父が楽しそうに見つめていたのはもう遠い記憶だ。
「…………く、」
流行り病で父親を亡くして半年もたたないうちに、母親が見知らぬ男と再婚した。新しい父親となったその男は、こともあろうに借金のかたに、アリスを、棺桶に片足を突っ込んだ男の元へ嫁がせようとしたのだ。
(お願い、アリス。お父さんのいうことを聞いて、コルバンさんの所へお嫁に行ってちょうだい。コルバンさんは確かにおじいさんだけれど、お金をたくさん持っているわ、あなたを幸せにしてくれるわ)
(誰が嫁ぐかーっ!)
すっかり男のいいなりとなってしまった母親と言い争いの末、着の身着のまま家を、村を飛び出したのは十三歳のとき。以来、憧れのままもぐりこんだちいさな劇団で、四年間、なんとか必死に働いてきた。
そしてようやく掴んだ主演女優の座。
アリスとしては、いつも以上に全力で稽古に打ち込み、万全の態勢を整えて迎えた初日だった。
脚本の仕上がりも、共演者の演技も見事で、上演中に笑い声やすすり泣きが聞こえ、終了後は鳴りやまぬ拍手に答えるため、二度、三度と舞台に上がったほどだった。
それなのに、
「太っていても痩せているように、年老いていても若々しく、見るものに錯覚させるのが一流の舞台俳優というものである。夕星座のアリス・オーが人並みに演じられるのは彼女と同じ歳の登場人物のみである。つまり、彼女は舞台俳優として三流以下といえるだろう」
辛辣な批評家として有名なウィングフィールド伯セリウス卿の言葉なので、褒め言葉の期待はしていなかった。
でも、「百年にひとりの天才だ!」などと褒めてくれるかもしれないとほんのちょっと期待していなかったといえば嘘になる。
正直にいえば、絶賛されてもおかしくない出来だと自画自賛してさえいた。
「や」
しかし、蓋を開けてみれば褒め言葉どころか、名指しで酷評。上流階級から下流階級、浮浪者まで目を通しているといわれる大衆紙に、三流以下だと一刀両断。
その日、アリスのちいさなプライドは、ズタズタに引き裂かれたのだった。
仲間たちは気にするなと励ましてくれたが、いままで目端にもかけられていなかった自分たちの劇団が、女優の酷評という形とはいえ、かのウィングフィールド伯に批評してもらえたことを素直に喜んでいさえした。
酷評された当事者でないのだから、慰めも簡単に口にできるし、ばかみたいに喜ぶこともできるだろう。だが、アリスは当事者だ。
きっと今日以降の公演は、いつもより客の入りは多いだろう。そして皆、嘲りの笑みを口元に浮かべてアリスの演技を見るだろう。終演後は、わかったような顔をして、口々に「やっぱりあれは三流の演技だ」と繰り返すのだ。ウィングフィールド伯の酷評の、次なる犠牲者があらわれるそのときまで。
アリスは空を見上げた。窮屈そうな建物と建物の間に見えるわずかな夜空に、ぽっかりと白い月が浮かんでいた。
「し——いっっ!!」
十七歳の夜、女優は月に吠えた。