複雑・ファジー小説

「女王陛下に知らせますか?」第一章②更新 ( No.7 )
日時: 2016/11/05 21:05
名前: いずいず ◆91vP.mNE7s (ID: OBp0MA9U)

 トゥルーディはティーカップを置きながらうなずいた。

「それだけ? サイモンとかサイラスの愛称じゃなくて?」
 アリスは拍子抜けした気持ちで畳みかけたが、
「偽名ってこともあるわね」
 そういって悲しげに表情を曇らせるトゥルーディの表情に、続く言葉を失う。アリスは気がついたのだ。
(ほんとうの名前じゃないんだわ……)

 サイと名乗る客の姿は見たことがないが、話を聞くだに、上流階級に属する存在であるのではないかとアリスは考えていた。
 労働者のようなくたびれた服装でいつもやってくるそうだが、よくよく見れば汚れた上着も、穴をかがったズボンも、上等なこしらえであるらしい。

 話し言葉も訛りがなく、立ち居振る舞いが、貴族のように洗練されているとトゥルーディはいう。彼女の客のひとりに下級だが貴族がいて、その貴族よりも、言葉も振る舞いも優雅なのだそうだ。

 そして、なにより、ひと晩中トゥルーディを買える財力。

 月にそう何度もあることではないし、二、三カ月来ないこともあるそうだが、それでもトゥルーディは売れっ子のほうだ。ひと晩買おうとすると、そうとうの金を用意する必要がある。
 しかし、そのサイと名乗る男は、一度も出し渋るようすを見せたことがないらしい。

 おかげで、店を仕切るやり手婆から、絶対に逃がすなと強くいわれているのだと、トゥルーディが微苦笑していたのを覚えている。

「それでも、呼んで偲べる名前があるのはいいものよ、アリス」
 つられてアリスの表情も明るいものではなくなっていたのだろう。トゥルーディが、微笑みながらそういった。

「きっと彼のお家には、彼にぴったりな可愛い奥さまがいらっしゃるの。ちいさなお子さまもひとりかふたり、いらっしゃるのじゃないかしら。でも、奥さまが呼ぶのは別の名前。サイとあのひとを呼べるのはわたしだけ。これはとても幸せなことよ、アリス」
「……そうね、トゥルーディ。ほんとうに、そうだわ」
 トゥルーディの言葉が、まるでトゥルーディ自身に言い聞かせているようなそれだったから、アリスは素直にうなずいた。

「……それより、」
 重くなった空気をみずから払うように、トゥルーディが不意に話題を変えた。
「はじめての主演女優はどうなの、アリス?」
 ——アリスが、もっとも触れてほしくない話題に、だ。

「……」
「うん?」
「……」
「アリス?」
「……トゥルーディーっっ!!」
 アリスはトゥルーディに泣きついた。

 大衆紙にウィングフィールド伯セリウス卿の酷評が掲載された翌日から、劇場内はつねに満席となった。いつもは準備したチケットが何十枚も売れ残るところ、すでに完売のようすを見せていて、座長の頬は緩みっぱなしだ。

 だが、観客席から感じる視線の、温度の低さといったら。
 必死で主人公を演じ続けるアリスの心を簡単にへし折るほどのものだったのだ。

 アリスは、持ってきた大衆紙を鞄から引っ張り出すと、親友に押しつけた。
「見て! 読んで! そしていっしょに怒って!!」
「え、ええ……」

 勢いに飲まれたらしいトゥルーディが、とまどいもあらわに大衆紙を受け取る。そして開きぐせのついたページを開くと、ややあって、は、とちいさく息を飲んだ。